L-side - No1 |
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雲は混乱していた。 今聞いたその言葉をどう解釈すれば良いのかと。 目の前に立つのは、自分より僅かばかり背の高い男。 金の髪と色素の薄い茶色の瞳の整った顔―――。 男は口元にうっすらと笑みを浮かべ、揶揄するような目で趙雲を見ていた。 からかわれているの…か……? 趙雲は更に困惑する。 日常においても、戦場においても、趙雲は常に冷静沈着を心掛けてきた。 例え戦場で伏兵に襲われたとしても、今以上に混乱することはないだろう。 「貴方でもそのような顔をなさることがあるのだな」 男は趙雲の顔に浮かんだ困惑の表情を読み取って、可笑しそうに笑った。 趙雲は眉根を寄せて、目の前の男を睨んだ。 「……私をからかっておいでなのですか?馬超殿」 馬孟起―――。 従兄弟の馬岱以外の一族を曹操に虐殺され、蜀に降った男。 まだ蜀に降っていくばくも経っていないこの男が趙雲を混乱に陥れた張本人だ。 「からかう? 俺は貴方をからかった覚えなどありませんよ、趙雲殿」 「ならば…先程の言葉は……一体?」 「一体も何も、そのままの意味ですよ。 何ならもう一度言おうか? 貴方を抱きたい……と」 言って馬超は咽の奥でククッと笑う―――。 余程趙雲の混乱振りがもの珍しく可笑しいのだろう。 そう―――、 鍛錬の後、城に戻ろうとする趙雲を呼び止めて馬超はこう言ったのだ。 「貴方を抱きたい」 と―――。 馬超が蜀に降ったのは、ごく最近のことだ。 従って馬超とはさして親しい間柄ではない。 軍議や鍛錬で顔を会わせれば挨拶する程度の仲だ。 そのような人物から突然そう言われて混乱しない人間がいるのだろうか? まして同性からよもやそんな言葉を投げかけられようとは考えている筈もない。 「俺は一目見たときから、貴方を手に入れたいと思った。 貴方のその美しい顔、しなやかな細い体、気高い心…全てを」 「…正気ですか? 貴方も私も同じ男―――その様なこと…」 戸惑いを隠せぬ趙雲の言葉を馬超は一笑する。 「珍しい事ではありますまい。 まして戦場ではよくあることだ」 戦場に女はいない。 戦が長引けば長引く程その欲望に身を持て余す者がいる。 そうなると同性同士でコトに及ぶのだということは…趙雲も知っている。 だが…元来そういったことに淡白な趙雲はそう思ったことも、実際にそうなったことも一度もなかった。 「ここは戦場ではありませぬ…。 そのようなお相手をお探しならば、他に女性をお探し下さい。 貴方ならば言い寄って来る者はたくさんおりましょう」 馬超が女官と睦言を交わしている現場に偶然出くわしたことが一度だけ趙雲にはあった。 まさか日も高いうちから、城内の中庭で抱き合っていようとは思いもしなかった。 一瞬ギクリと足を止めた趙雲に馬超が気付き、人の悪い笑みを浮かべた。 「おや…これは趙雲殿。 相変わらずお忙しそうですな」 その言葉に女官は驚き、馬超から離れようとする。 が、馬超がその腰に廻した腕を緩めようとはしなかった。 「…ここは城内ですよ。 お慎みなさい…馬超殿」 冷たくそう言い捨てて、踵を返した趙雲の背に馬超が声を掛けた。 「そのようにいつも厳しく自分を律して生きていて、息苦しくはありませんか? 時には自分の思うが儘に振舞ってみたら良い」 「―――私は別に息苦さなど感じてはおりませぬ。 …貴方の方こそもう少し自重されたら如何です?」 ちらりと後ろに目をやり、答えを待たず、趙雲はその場を離れた。 馬超がその後ろ姿を獲物を狙う獣の如く瞳を細めて見ていることには気付かずに―――。 「俺が手に入れたいと思ったのは貴方だ、趙雲殿。 体の欲を満たすだけならば、女で構わぬ。 だがこの心の飢えを満たせるのは貴方しかいないと感じた―――」 そう言うや否や馬超は趙雲の腰に手を廻し引き寄せた。 「…なっ!」 突然の事に抵抗も儘ならず、趙雲は馬超に抱き込まれる。 「離しなさい!馬超殿!!」 逃れようと趙雲は身を捩るが、がっちりと腰を馬超の腕に固定されていて逃れられない。 趙雲はキッと馬超を睨みつけたが、馬超は微塵も怯む様子はない。 顔にはやはりあの不遜な笑みが浮かんでいた。 だが……その瞳には先程までのような軽薄さはない。 熱を帯びた真摯な瞳を趙雲を真っ直ぐに向けてくる。 「どんなに美しく賢い女を抱いたとて、何故か後に残るのは虚しさだ。 だが貴方のその澄んだ……けれども研ぎ澄まされた刃を思わせる瞳を見た時、それに捕らわれたのだ…俺は。 ふと気付けば貴方の事を考えている自分がいる。 もっと知りたい…もっと深く繋がりたい…貴方と」 だが、趙雲は馬超を睨みつけたまま、その腕から逃れようともがく。 「…勝手な……! 貴方が私をどう思っていようが、私の知ったことではありません。 私は貴方の事を知りたいとも、ましてや抱かれたいなどとは到底思いませぬ!」 強い拒絶を示すその言葉にも、馬超は動じない。 むしろそれを楽しんでいるかのようにも見える。 「ふふっ…大概の者ならこれで落ちるというに―――。 流石は長坂の英雄、趙子龍殿…と言うべきか。 だが、そうでなくてはつまらん」 いつの間にか馬超の瞳からあの真摯な色は消え、いつものからかいを含んだ目を趙雲に向けている。 「無理矢理抱いても良いのだが、流石に貴方相手となると血を見そうだ。 第一そういうのは趣味ではない。 今日は諦めるとしましょう」 言って、ようやく馬超は趙雲を解放した。 趙雲は瞬時に馬超との間合いを取る。 「馬超殿……貴方という人は! 人を愚弄するのもいい加減になされよ!」 「愚弄? これはまた異なことを仰る…。 私は貴方を愚弄したつもりはありませんよ。 さっき俺が言ったことは本気です。 貴方を手に入れる……必ず」 「貴方と私が出会ってまだ幾月も経っていない。 そんな貴方に私の何が分かると言うのです!」 「過ごした時間がそれ程大切なものなのですか? ならば貴方もまた俺の事など何も分かっていない。 俺が貴方をどう思っているか分かるべく筈もないのでは?」 「それは詭弁です!」 「詭弁だと思うのなら、そう思えばいい。 だが俺は何一つ嘘は言ってない。 では、今日はこれで」 そう言い残し、馬超は何事もなかったかのように趙雲の脇をすり抜け、城へと戻って行った。 後に残された趙雲は厳しい表情のまま虚空を睨んでいた。 日は既に傾きかけている。 初秋の風が、趙雲の漆黒の髪を宙にたなびかせていた。 何を考えているのかあの男は―――。 いきなりあのような事を申すとは。 趙雲にはやはり馬超がただ自分をからかっているだけにしか思えなかった。 馬超が降って以来、彼の女に関する噂は後を絶たなかった。 趙雲自身、馬超に対して何ら興味を持ってはいなかったので、気にしたことなどなかったが…。 そんな男が同じ男である自分を抱きたいのだと言う。 それを本気で受け止める者が一体どれ程存在するというのか。 百歩譲ってそれが本気なのだとしても、無論趙雲には彼に抱かれてやる気など更々なかった。 馬鹿馬鹿しい―――。 趙雲は胸のうちで呟くと、彼もまた城へと踵を帰した。 これが始まりだった―――。 written by y.tatibana 2003.03.06 |
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