C-side - No8 |
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足場の悪い桟道を、馬超を先頭に列を成して進む。 殿(しんがり)には馬岱―――そして間に挟まれるようにして馬車がある。 そこには馬超を庇い、大怪我を負った趙雲が乗せられていた。 馬超の気持ちは逸るばかりだ。 一刻も早く趙雲を成都へと連れ帰らねばと。 充分な治療を受け、身体を癒して欲しい。 だが趙雲の体調を考慮すれば無理をさせる訳にもいかない。 馬車で横たわっているとは言え、移動の際の僅かな震動でも傷に障るだろうし、疲労も蓄積されていくだろう。 やがて一行は山の中腹にあるやや拓けた場所に出た。 馬超はそこで停止の合図を出す。 空はもう赤く染まっていた。 今日はここで夜を明かすことになるだろう。 馬超は各自に食事や幕を準備するよう指示を出すと、馬車へと向かう。 その中で横たわる趙雲は眠っているのか、目を閉ざしていた。 だが呼吸は荒く、そこから吐き出される息は熱い。 依然として高熱が趙雲を苛んでいるようだ。 馬超は馬車から趙雲を抱え降りた。 その拍子に趙雲の瞼がゆっくりと持ち上がる。 「すみません、起こしてしまいましたね。 今日はここで夜を明かすことになります。 この山を越えれば、成都はもう直ぐですよ」 優しい光を湛えた漆黒の瞳が馬超を捉える。 「申し訳ありません……ご迷惑を……。 降ろして下さい。 大丈夫です…もう一人で歩けますから……」 馬超は強く首を振り、趙雲の願いを拒む。 どうしていつもこの人はこうなのか。 誰のせいで怪我を負ったのか忘れた訳ではあるまいに。 そう訴えてみたところで、趙雲はただ微笑むだけだろうけれど。 言葉を呑み込み、馬超は設置されたばかりの幕の中へと入る。 寝台の代わりの幾重かに敷かれた布の上へと、馬超は趙雲の身体をそっと降ろした。 そうして馬超は幕の中に置かれた荷の中から、円筒を取り出す。 趙雲の肩に手を廻し、自分の胸に凭せ掛けるようにして、馬超は彼の上体を起こさせる。 手にした円筒を趙雲の口元へと運ぶ。 中には薬湯が入っていた。 趙雲がそれを飲んだのを確認し、再び彼の身体を横たえ、掛け布を被せる。 こうして趙雲の世話をするのは、成都へ向かう帰路以後、馬超の役目となっていた。 馬岱や部下が申し出ても馬超は決して首を縦には振らなかった。 趙雲が自分を庇い傷を負った罪悪感からだけではない。 ただ少しでも長くの間趙雲の傍にいたかった。 不謹慎ではあろうが、こうして誰に憚ることなく、趙雲と共に過ごせることが嬉しかったのだ。 例え想いが届くことはなくても―――。 「寒くはありませんか?」 一息ついた所で馬超は趙雲の傍らへと腰を降ろす。 「大丈夫です……色々とありがとうございます。 私のことなどお気になさらず……馬超殿の方こそお休みになって下さい……。 お疲れでしょう」 馬超を安心させるように微笑んで見せ、趙雲は彼を気遣う。 乱れる呼吸の下からそう言葉を紡ぐ趙雲を、馬超は切なげに見遣る。 こんな時でも頼ってはくれぬのかと。 「それほどまでに俺は頼りにはなりませんか? 心を許せはしませんか? 俺は―――少しでも貴方の役に立ちたい……」 搾り出すように低く問いかける馬超に、趙雲は僅かに首を振る。 その表情はやはり穏やかな微笑を浮かべたまま変わらない。 「貴方には充分過ぎるほど良くして頂いています……。 これ以上して頂くことなど何も……。 本当に……馬超殿には感謝致しております」 違う! そんな言葉が聞きたいんじゃない! そう叫びたい気持ちを、馬超は拳を握って耐える。 どう訴えたところで趙雲から返る言葉は同じなのだろう。 凪いだその瞳は、優しいけれど―――決して感情を悟らせない。 その心へ触れることはおろか、近付くことさえも拒まれているようで。 それは穿った考えだろうか。 やるせない想いを抱えたまま、馬超は立ち上がった。 「……俺が居ては趙雲殿もゆっくりとお休みになれないでしょう。 もし何かあれば外の兵に伝えて下されば、すぐに来ます」 馬超はそのまま静かに幕を出た。 外の兵に後のことを申し伝えてから、馬超は裏手の森へと足を進める。 静かな木立の中で、馬超は大きく息を吐き出した。 風のように手の間をすり抜けて行く趙子龍という人物。 一向に縮まらないそんな趙雲との距離。 苛立ちと切なさが募るのと同時にまた―――彼への想いも増していく。 趙雲を愛しいと想う気持ち。 届かなくなくても、それだけは馬超の中から消えることはなかった。 もっと彼の事を知りたいと願う。 さらに進んだ森の奥。 この森の主のように生茂る大樹の根元に馬超は腰を降ろした。 そして目を閉じる。 静謐な空気の中、そこに身を委ねれば頭の中が空っぽになり、ささくれ立った心も洗い流されるようだ。 どれくらいそうして居ただろう。 木々のざわめきに、馬超は目を開く。 空にはもう星が輝いていた。 だが―――馬超の視線の遥か先、異質なるものが空へと立ち上っている。 黒い煙。 そして木々の間から覗く紅の炎。 炎が立ち上る方向―――それはまさに馬超達が野営を張ったあの広場のような場所だ。 馬超は瞬時に立ち上がった。 と同時に駆け出す。 何が起こった? 自問しても当然返る答えなどない。 混乱する頭と逸る気持ちを抑えつつ、馬超は懸命に走る。 火の手が上るなど、尋常では考えられない。 やがて駆けて行くその道筋の途中、人の気配を感じ、馬超は立ち止まる。 「馬……将軍……」 こちら側へ向かってふらふらとした足取りで近付いてくる。 それは馬超の隊の人間だった。 「一体……」 何があったと言いかけて、馬超は息を呑む。 その背に何本かの矢が刺さっているのが見えたからだ。 馬超の姿を目にして気力が尽きたのか、兵士はがくりと膝を付く。 慌てて馬超が駆け寄れば、兵士は最後の力を振り絞るように口を開いた。 「突然……多数の賊達が……我らを襲ってきて……」 そこでとうとう役目は果たしたとばかり、兵士は事切れた。 馬超はそれで全てを理解した―――。 辺りは混乱を極めていた。 地には幾人かが既にもの言わぬ屍となり横たわっている。 盛大に上る火の中、激しく武器を打ち合わせる音と怒声が飛び交う。 馬超もまた腰の剣を抜く。 新たな獲物が来たとばかりに、現れた馬超の姿を一番に認めた賊の一人が、卑げた笑みを浮かべながら斬りかかって来る。 馬超はそれを一閃の元に斬り捨てた。 乱れた息と額の汗とは対照的に、それは冷静で圧倒的な力だった。 傍に居た賊の一人が、仲間の仇討ちにいきり立ち、馬超へと襲い掛かる。 だがやはり馬超は事も無げに地へと沈めるのだった。 馬超は再び駆け出す。 もちろん目指す場所はただ一つ。 趙雲が居るあの幕だ。 そこへ向かいながらも、声を上げ、指示を飛ばす。 「落ち着け! 敵に当たる者と、火を消す者とに別れろ! 体勢を立て直せ!」 馬超の声に、兵士達の混乱が徐々に収まっていく。 その様子に賊徒達は馬超がここを率いる人間だと認識したのだろう。 集中的に襲い掛かってくる。 それが馬超の行く手を阻む。 「どけ!」 忌々しげに怒鳴りつけながら、馬超は次々と賊を切り捨てる。 ようやく趙雲の幕の前まで辿り付いた時には、既に賊のほとんどは討たれたか、逃げ出した後だった。 夜襲の混乱が収まってしまえば、訓練された兵達に対し、数に任せただけの賊では敵いはしなかった。 だが、その幕の前に立った馬超は目を見開いた。 そこもまた炎を吹き上げ、燃えている。 もう崩れ落ちる寸前だった。 意識するよりも先に、身体が動いていた。 その中に飛び込もうとする馬超の腕を何者かが捕らえた。 振り返れば、そこに立っていたのは馬岱であった。 「離せっ!」 「なりません!兄上! 死ぬ気ですか!」 「離せと言っている! 趙雲殿を助けねばならん!」 馬岱は渾身の力で馬超を押し止めようとする。 しかしそれを馬超は無理矢理に引き離す。 と、その時―――。 「馬超殿……」 その声に、馬超も、そして馬岱も立ちすくむ。 燃え盛る幕の脇からゆらりと現れた影。 白い袍は酷く汚れ、素足は泥に塗れている。 その手に握るのは白銀の剣。 剣先からは赤い血が滴っていた。 「ち……趙雲……殿?」 そこに立つ人物は確かに馬超が求めていた人であるのに、思わず確認を取るように問いかけてしまう。 「はい」 頷き、ゆっくりと趙雲は馬超達の元へと歩み寄ってくる。 「ご心配をお掛けしてしまったようで……すみませんでした。 私はこの通り……無事です……」 だがその足取りは酷く心許ない。 趙雲もまた賊と戦っていたのだろう。 怪我の身を押して。 とても戦えるような状態ではなかったろうに、恐らく凄まじい気力でもって剣を握り、それを揮ったのだ。 馬超が慌ててその傍に寄り、趙雲の身体を支えた。 炎に照らされた趙雲の顔を間近で見れば、明らかに白く色を失っている。 けれど触れた身体は熱い。 そして―――手に感じたぬめりに馬超はぎくりと身を強張らせた。 趙雲の背……そこに触れた馬超の手は赤く染まっていた。 賊に斬られたのかと思った。 趙雲の背に目を遣れば、そこはやはり血で濡れていた……だが袍は裂けてはいない。 そこでようやく思い至った。 無理に身体を動かしたが為に、馬超を庇って受けたあの傷口が開いてしまったのだと。 その血の感触に、あの戦での記憶が甦る。 馬超を庇い、倒れた趙雲の―――。 あの時のようにまた我を失ってしまいそうになる。 だが、 「馬超殿……私は大丈夫ですから……」 掛けられる声に、馬超ははっ我に返る。 この人は生きているではないか。 また同じことを繰り返す気か。 しっかりしろ。 自分が今為すべきことを考えろ。 そう自身を叱咤して、馬超は冷静さを呼び戻す。 「岱、俺は兵の統制と、火の消化に当たる。 お前は趙雲殿と怪我を負った他の者の手当てを頼む」 馬超は趙雲の身体を馬岱に託した。 本心では自身が趙雲の傍についていたかった。 だがそうすればまた冷静さを失ってしまいそうで、恐ろしかったのだ。 趙雲のことを想えば想うほどに、馬超の心は千々に乱れてしまうから。 幸いにして、兵も物資の犠牲も最小限で済んだ。 趙雲も命を落としはしなかった。 しかし容態が再び悪化してしまったことは明らかであろう。 青白い顔色で横たわる趙雲の姿に、馬超は苦しげに眉根を寄せた。 今度も守ることが出来なかったと。 趙雲の元を離れたりしなければ、あのような無茶はさせなかった。 傷が開くこともなかったろう。 そして馬超の心にはまたも大きな傷が刻まれたのだった―――。 written by y.tatibana 2005.12.17 |
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