C-side - No7

嫉心<参>
 - 馬超孟起
戦には辛くも勝利した。
趙雲と馬超の援軍の甲斐あって。
だが同時に蜀にとって……そして馬超にとって大きな犠牲を払うこととなった。

馬超を庇い、その眼前で朱に染まった趙雲。
血など見慣れたものであるはずなのに、その匂いと感触が強く残って馬超から離れない。
固く閉ざされた趙雲の瞳と血の気を失った顔―――
過去の惨禍とそれが重なり、自我を初めて失った。





そして―――また……あのあかい夢にうなされる―――





勝利の宴がささやかながら開かれている中、馬超はその輪に加わることもなく、まっすぐ城の一室に向かった。
だが扉の前でそこに手を掛けたまま、馬超は動けずにいた。
その扉の向うには趙雲がいる。
出陣の直前、生死の淵にいた趙雲が意識を取り戻し、馬超に告げた。
「ご武運を―――
と。
いつもの穏やかな微笑と共に。

だがそれは自分の願いが見せた幻だったのではないか。
現実にはあの人は未だに意識を取り戻していないのではないか。
―――それどころか、あの人はもうこの世からいなくなってしまったのではないだろうか。

「馬鹿な……」
己に言い聞かせるように呟き、強く頭を振る。
それでも押さえようもなく湧き上がってくる恐れを振り切って、馬超は静かに扉を開けた。

幻覚ではなく、確かにそこに目を開けた趙雲がいた。
馬超の気配を察していたのだろう。
寝台に横たわった趙雲の顔は扉へと向けられていた。
そして馬超の姿を認めると柔らかに微笑んでみせる。
「ご無事で何よりです」
その言葉に馬超は眉根を寄せ、拳を握り締める。
それが寝台に横たわった状態ではなく、共に戦場を駆けた後にでも掛けられたものであったなら、馬超もまた笑顔で応えていた。

無言で寝台に寄れば、やはり趙雲の顔色は酷く悪い。
あれだけの傷を負い、多くの血液が流れ出た。
恐らく、身体は相当に辛い筈だ。
それでも趙雲はそんな様子を微塵も見せようとはしない。
それが馬超には悔しくもあり、腹立たしくもあった。
趙雲の中での自分はそんな弱さを見せられるような存在ではないのだと思い知らされているようで。

「…どうして……どうして俺を庇ったりしたのです?」
搾り出すような声音で問うた馬超に、返ってきた答えはやはり馬超が想像した通りのものだった。
「目の前で自軍の将が斬られようとしているのを、どうして見過ごすことができましょう。
きっとあの場にいたのが私ではなくとも、同じことをしたと思います。
それに貴方にもしものことがあれば…殿や馬岱殿…多くの人間が悲しむことになる……。
―――当然のことをしただけです。
貴方がお気に病まれる必要はありません」

自分を庇ったのは決して自分のことを特別に想っていてくれているからではないのだ。
自惚れていた訳ではない。
それでもやはり心の何処かで落胆を隠せない自分がいた。
自分にもしものことがあれば多くの人間が悲しむ―――そう趙雲は言った。

―――その中に貴方は入っているのですか?
俺が死ねば貴方はほんの少しでも悲しんでくれますか?
涙を流してくれますか?

そう喉元まででかかった言葉を馬超は寸でのところで押し留めた。
その答えを聞くことが怖かったから。
誰も趙雲の特別にはなれないのだと分かっているのに―――それでも渇望せずにはいられない。
趙雲の心に少しでも近付きたい……そしていつかこの腕にその心も身体も抱くことができたなら―――

「馬超殿?」
黙り込んでしまった馬超を、趙雲が不思議そうに見つめる。
凪いだ漆黒の瞳が馬超を捕らえている。
言いたいことは沢山あった。
だが趙雲のこの瞳を見ていると、彼が生きてここに存在している……それが何事にも変え難いものだと感じる。
意識せぬままに、涙が溢れてきて、馬超の目から流れ落ちた。
趙雲と出逢ってから、こうやって感情の制御がままならなくなることが酷く多くなったのを馬超は自覚していた。

―――助けて頂いたことには感謝しています。
ですが…もう二度とあのようなことはしないで下さい。
もう少し御自分の命を大事にして下さい―――貴方は余りにも自身に執着がなさ過ぎる……。
貴方の優しさが……いつの日か貴方自身を滅ぼす。
―――そんな気がしてなりません」
趙雲の自身への執着のなさが、いつか彼をこちら側に繋ぎとめている張り詰めた糸を切ってしまうのではないか。
そしてもう二度と手の届かぬ所へといってしまうのではないか。
それは常に付き纏って消えない不安。

趙雲は膝を折り止めどなく涙を流す馬超の頬に、そっと触れた。
その涙を拭い、趙雲はゆるゆると首を振る。
「貴方は恐らく思い違いをされています・・・・・・。
私の為に涙を流されることはありません・・・・・・。
―――私は貴方が思っているような―――そんな優しい人間ではありません」
きっぱりとそう言い切った趙雲の瞳は変わらず穏やかで、そこから趙雲のどんな気持ちも馬超には読み取れなかった。

それでは本当の趙子龍とはどんな人間なのだろうか。
ほんの僅かでも良い……貴方の心に触れることができたなら、どんなに倖せだろう。
―――だが貴方という人間を知りたいと願えば願う程、俺には分からなくなる。
貴方が一体何を想い、何を考え生きているのか……その本心を見せてくれることは決してないのだろうか。

苦しみは日々募る。
趙雲への想いが増していくのと同様に。
まるで出口のない迷宮に迷い込んだかのようだ。
諦めてしまえば楽になれる……そう考えたことは幾度もあった。
けれどそれが出来ぬことは誰よりも自分自身の心が告げていた―――





そのまま趙雲は快方に向かうかと思われた。
だがその予想を裏切って、傷からくる高熱が趙雲の体を苛み、容態は一進一退を繰り返していた。
馬超は震えた。
このまま失ってしまうのではないかというその恐怖に。
かと言っても馬超に出来ることといえばただ祈りをささげることだけ。
趙雲の手を取り、そこから自分の全てを注ぎ込むようにしてただ祈った。

意識の混濁が激しい趙雲が、それでも時折意識を取り戻しては、乱れた息の下から
「…私は大丈夫ですから……」
そう馬超を気遣うように言って微笑むのが、馬超には辛かった。
こんな状況になってもやはり弱音のひとつも吐いてはくれないのかと。





薬師からは、治療の面から一刻も早く成都に趙雲を運ぶようにと進言され、それに従うこととなった。
趙雲の容態は以前芳しくなかったが、何とか成都までの道のりを耐えてもらわねばならなかった。

「子龍をよろしく頼む」
成都へと発つ馬超に、そう頭を下げたのは張飛だった。
援軍としてやってきた彼は、本来の任地に戻らねばならない。

張飛とは蜀に降った際の宴の席で、衝突している。
ただ武に任せた粗暴なだけの男だと、馬超は思っていた。
その張飛が頭を下げるなど……まして自分に対してそのような態度を見せるとは想像もできなかった。
馬超の驚きをよそに、張飛は固く目を閉ざし眠ったままの趙雲の頭を優しく撫でる。
「子龍……絶対にくたばったりするんじゃねぇぞ」
語りかけるその瞳はひどく穏やかで、優しさに満ちていた。

馬超に頭を下げる程、張飛にとってもまた趙雲は大切な存在ということだ。
ただ張飛のそれは馬超の抱いている想いとはまったく異なるものだろう。
張飛と趙雲は劉備がまだ流浪の将であった頃から苦楽を共にしてきた。
張飛にとって趙雲は弟のようなものであり、家族に対する愛情のようなものを持っているのだろう。
そうであると分かっていてなお、胸が疼く。
馬超よりも遥かに長い年月を共に重ねてきた二人。
馬超が知らぬ多くの思い出を共有しているのであろう。

それに比べて、馬超と趙雲との間には何もないも同然だった。
あるのはただ、馬超の一方的な想いのみ。
…ただ張飛が羨ましかった。
子供じみた馬鹿げた嫉妬だ。
だがそんな些細なことで嫉妬を感じてしまう程、二人の距離は遠く、そして馬超の心は趙雲への想いで支配されていた。

馬超は自身を酷く冷めた人間だと思っていた。
特に一族を失って以来、馬超の心は酷く渇いていて、曹操への復讐以外のことへは何の興味も持てないでした。
否、曹操への復讐でさえも、一族への後ろめたさがそう思わせているだけのような気がした。
心の奥底では、どうでもいいとさえ思っている自分を否定できない。
そんな自分がこれ程までに誰かを欲することがあろうとは思ってもみなかった。

厳しい表情の馬超に何を感じたのか、張飛が馬超をまっすぐに見据え、問い掛ける。
―――お前、子龍のことが好きか?
例えその想いに子龍が応えることがなくても……こいつを好きでいられるか?
どれだけ苦しくても、辛くても、諦められないか?
……はっきり言う―――中途半端な気持ちなら、こいつに近づくな。
それがお互いの為だ」
突然何を言い出すのかと馬超は面食らったが、張飛の真摯な目は馬超をからかっている訳ではなさそうだ。
―――趙雲殿と過ごしてきた時間は俺は他の誰より劣る。
だが……この人を想うこの気持ちだけは誰にも負けぬし、偽りなどない。
どんなことがあっても、俺は趙雲殿を想い続ける。
好きだ―――
趙雲殿のことが誰よりも」

馬超の淀みのない力強い答えに、張飛はやや表情を和らげた。
「正直、お前のことはいけ好かないが…それだけの想いがあるのなら、もしかすると子龍の心に触れることができるかもしれんな。
俺も、兄者達も……未だ叶わぬそれが―――
趙子龍という朧げな存在をいつの日か確かな存在へと変えることができるやもしれぬ。
だが心しろ……それ程までに強い想いは諸刃の剣のようなものだと俺は思う。
一歩間違えば己の精神を喰らい尽くすだろう。
その果てにあるのは―――破滅だ」
張飛は再度、趙雲に視線を移した後、踵を返した。
扉の前で張飛は肩越しに振り返る。
「最後にもう一つだけ忠告しておいてやる。
―――諸葛亮には気をつけろ。
あの男は危険だ」
どういう意味だと馬超が問い返す前に、張飛は部屋を出て行った。





この時の馬超には張飛のその忠告の意味が理解できなかった。
だがそれはやがて大きな波となって馬超達に襲い来ることとなるのだが―――
今の馬超にはそれを知る由もなかった。





馬超は趙雲を連れ、成都に向け出発した―――






written by y.tatibana 2003.10.31
 


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