C-side - No6 |
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戦局を知らせる早馬が到着した。 「我が軍の勝利にございます!」 もたらされた知らせに劉備は胸を撫で下ろす。 だが心底嬉しそうな劉備とは対照的に傍らに控える諸葛亮の表情は変わらない。 冬の湖面を思わせる研ぎ澄まされた底冷えのするような瞳で伝令を見下ろしていた諸葛亮は、彼がまだ何事かを伝えようとして言い澱んでいるのを見て取った。 「他に何か?」 諸葛亮に促され、伝令は言い難そうに切り出した。 「戦には勝利したのですが…趙将軍がお怪我を…」 「何!?子龍が?」 「はい…。 馬将軍を庇われて…」 諸葛亮の羽扇を握る手に無意識に力が込められる。 胸にまたあのジリリ…と焼きつくような痛みが襲う。 「……して、子龍の容態は?」 「何とか一命は取り留められました。 本来ならばしばらくは絶対安静とのことなのですが、あちらでは満足な治療もままなりませぬ故、馬将軍共々こちらに向かわれております」 「そうか…ご苦労であった」 伝令が深々と頭を垂れ退出すると、劉備は大きく息を吐く。 「孔明、私は……間違っていたのだろうか? 子龍が無理をしているのが分かっていながら、援軍に向かわせた…。 孤立している兵達を救いたい一心で」 「援軍は趙雲殿自らが志願されたことでもあります。 結果戦には勝利したのです。 主公の判断は誤ってなどおられません。 お気に病まれませぬよう……」 それは軍師として…丞相としての建前の言葉。 本音は違う。 やはりあの時、何としても彼を止めておくべきだった。 あの時の彼の状態を見れば、援軍に向かうことなど無謀としか言いようがなかった。 普通の人間ならばとうの昔に倒れている。 体の疲労は限界に来ていたはずだ。 それを支えていたのは、彼の並ならぬ精神力。 それは一体どこから来るのか。 それ程までにあの男を救いたかったのだろうか? 自分の身を犠牲にしてまで。 そんな訳はないと分かっている。 きっとそれが誰であっても彼は同じようにしただろう。 何人たりとも彼の特別にはなれはしないのだ―――。 けれど何度理性がそう告げても、胸を妬くこの痛みが消えることはない。 日増しに強くなっていく嫉妬という名のそれが、身も心も蝕んでいくようだった―――。 趙雲が成都に戻って三日―――。 怪我の状態は酷く、一命は取り留めたとは言え、趙雲は未だ臥せっていた。 諸葛亮が趙雲の屋敷を訪れた時、先客がいるのだと家人から伝えられた。 それが誰であるのか凡その察しはつく。 その部屋の近くで案内してきた家人を下がらせ、諸葛亮は静かに扉を開けた。 やはり予測したとおりの人物…馬超がそこにいた。 部屋の中に足を踏み入れても、馬超が諸葛亮に気付いた様子は無い。 趙雲の横たわる寝台の枕元に腰掛け、真摯に眠る趙雲の顔を見つめている。 趙雲の手を祈るように自分の両の手に包み込んで。 彼以外の何も、周りの景色も音も、見えも聞こえもしていないようだった。 目に見えて馬超は憔悴していた。 伝え聞いた戦いの激しさと、そして己を庇い傷を負った趙雲のことを思えば当然だろう。 けれどその瞳の強さは失われてはいなかった。 そして強さの中に込められた慈しむような優しさ。 その視線を一心に趙雲へと注ぐ。 「馬超殿」 諸葛亮が声を掛けると、馬超は驚いたように顔を上げた。 諸葛亮の姿を認めると、馬超は趙雲に向けていたものとは一変した鋭い視線で諸葛亮を射る。 怯むでもなく諸葛亮は冷たく瞳を細めて馬超の視線を受けた。 「…いつからそこに?」 「少し前からですよ。 貴方ともあろう方が、お気付きではありませんでしたか?」 言外にそれでも武将なのかという意味合いを含ませる。 その口元に僅かに浮かべる嘲笑。 それを感じ取ったのか、握っていた趙雲の手を離し、馬超はより一層諸葛亮を強く睨みつけると立ち上がった。 そのまま諸葛亮の脇を通り過ぎ、出て行こうとするのを呼び止めた。 「貴方は趙雲殿のことをどう思っておられるのです?」 答えなど聞くまでもないことは分かっていたが。 「……それを何故貴殿に言わねばならない?」 扉に掛けていた手をそのままに、馬超は振り向きもしない。 「…余程貴方は私の事がお嫌いとみえる」 「お互い様であろう」 「―――そうですね」 会話はそれで終わりだとばかりに馬超は扉を開けた。 「お忘れのようですね…」 その背に再度声を掛ける。 「貴方は守りきれなかったでしょう? 父も弟も妻も子も―――。 その貴方がまた手に入れようというのですか? 今回もまた守るどころか、傷付けただけの貴方が―――笑止な」 返る言葉は無い。 馬超は静かに扉を閉めると、そのまま立ち去ってしまった。 寝台の趙雲を諸葛亮は見下ろしていた。 熱があるのか肌は汗ばみ、吐き出される息は熱く乱れている。 額の汗に張り付いた前髪を掻き揚げてやる。 僅かに開いた唇に口付けたい衝動を押さえ込んで、諸葛亮はそっと彼の頬にふれた。 ―――暖かい……。 彼が援軍に向かう前にもこうして彼の頬に触れた。 自分の手の冷たさを溶かすような温もり。 それは、彼が生きている証。 「貴方を……この世に繋ぎとめているものは何ですか?」 劉備への忠心。 乱世の平定を心から願う民への想い。 それとも…あの男か―――? また襲い来る胸の痛み。 無意識の内に諸葛亮は両手を趙雲の首に掛けていた。 今の貴方は…余りにも無防備で。 このまま力を込めれば、私でも貴方の息を簡単に止めることが出来る―――。 そうすれば…私の昇華できず渦巻くこの昏い想いは消え去るだろうか。 そして貴方を永遠に誰の手にも届かないところへ連れて行けるだろうか。 それは甘美な罠。 耐え難い誘惑に諸葛亮はその手に力を込めた。 容赦なく趙雲の細い首を締め付ける。 その時…、 ポタリ…と。 趙雲の頬に落ちた雫。 それが何であるのか諸葛亮には分からなかった。 静かに開かれる趙雲の瞳。 趙雲は自分の命を絶とうとしている諸葛亮を見上げている。 いつものように凪いだ漆黒の瞳で。 驚いた様子も、抵抗する素振りもない。 雫は二滴…三滴と次々趙雲の頬を濡らした。 すると趙雲はゆっくりと手を伸ばし、諸葛亮の目元を拭った。 そこでようやく諸葛亮はそれが自分から溢れ出しているものだと悟った。 「泣か…な……いで…下さ…い……」 締め付けられ乱れた息の下から趙雲は途切れ途切れに言う。 向けられた穏やかな微笑みに、諸葛亮は何かを思い切るように首を振ると趙雲を解放した。 「私は…」 その手でそのまま自分の頬に触れると、溢れ出る涙でしとどに濡れていた。 あの男に対する嫉妬―――。 そして彼を自分だけのものにしたいという歪んだ独占欲―――。 それらの苦しみからの解放…。 それが諸葛亮に趙雲の命を奪わせようとした。 けれど…。 彼がこうして今自分をその瞳に映し、微笑む―――。 それがこんなにも自分を満たしてくれるのだ。 例えそれが自分だけに向けられたものではないとしても。 そんな様々な感情が綯い交ぜになり、涙となって溢れ出た。 感情の制御が儘ならなかった。 いつもの自分では在り得ない。 だが、これが本当の自分の姿なのだろうか。 「貴方が無事で……本当に…良かった―――」 諸葛亮は跪くと、そのまま横たわる趙雲に覆いかぶさるように、そっと彼を抱き締めた。 「はい…ありがとうございます…」 優しい声と、自分の背に廻された腕。 幼い子供あやす様に、趙雲は諸葛亮の背を撫でていた。 今はまだ―――。 この身を支配する嫉心と独占欲より、儚げな貴方をこの世に繋ぎとめておきたいと思う気持ちの方が強いから。 けれど……いつの日かその均衡が崩れた時…。 私は貴方を―――、 誰の手にも届かない檻に無理矢理閉じ込め、無茶苦茶に抱いて…今度こそ…… 殺してしまう――― それが明日なのかそれとも遥か未来のことなのか…。 諸葛亮自身にも分からなかったけれど。 自身の精神が確実に蝕まれ、崩れていっているのが分かるから―――。 いずれ私は冷たくなった貴方の躯をこの腕に抱いて…… そうして… 狂気と歓喜の中で… 壊れていくのだ―――。 written by y.tatibana 2003.05.11 |
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