C-side - No5 |
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「孟起は随分と表情が柔らかくなったな」 劉備は鍛錬の様子を少し離れた場所から眺めながら傍らの諸葛亮にそう話し掛けた。 「…そのようですね」 答える諸葛亮の声には感情が篭っていない…むしろ冷さを孕んでいた。 だがそれに劉備が気付いた様子はない。 「まだ周囲の者との溝はあるようだが、以前のように全て拒絶するような雰囲気はなくなった。 子龍には自ら色々話し掛けてもいるようだ。 …不思議な男だな、子龍は。 あれ程頑なだった孟起を斯様に変えてしまうとはな…」 「…えぇ、本当に」 今度は先程とは異なり感情の色が宿る。 それは決して諸葛亮以外の人間には感じ取れることなど出来ないだろうけれど。 ―――本当に不思議だと思う。 趙雲子龍という人物は。 初めて逢った時、その整い過ぎた容貌に諸葛亮ですら驚きを隠せなかった。 けれどそれだけのことならば、決して諸葛亮は趙雲に興味を抱く事はなかった。 劉備に三顧の礼をもって迎えられて以来、諸葛亮は軍師として、そして丞相として、今も昔も周りの武将や文官達と深く関わることなく過ごしてきた。 それはその立場上、人を常に冷静に判断し、決して私情を挟まぬ為だ。 そんな諸葛亮の態度を快く思わない者も多い。 諸葛亮自身囁かれる誹謗も陰口も何ら意に介す事などなかったが。 趙雲にも他の人間同様、ただ職務を忠実に果たしてくれればそれで良いと思っていた。 最初の内は―――。 思えば諸葛亮が劉備の陣営に参画した当初、関羽・張飛を筆頭に新参者の自分を敵視する人間たちの中にあって彼だけは違った。 彼が常に見せるあの頃から変わらぬ穏やかな微笑。 如何なる時も真っ直ぐと相手を見つめるその澄んだ瞳。 全てを包み込むような優しさに、諸葛亮はいつの間にか捕らわれていた。 理屈で説明などできない。 そうとは気付かぬまま自然に彼の存在が自分の中に根付いていたのだから。 そうして長い刻を経ていく内に、諸葛亮もまた気付くことになった。 彼の存在の危うさを。 自身に執着を持たない彼の儚さを。 彼の心は何者をも受け入れているようで、けれどその実、薄絹一枚隔てたように誰も触れることは叶わない。 彼自身が決して拒んでいるわけではないのだろう。 だが彼の心もその存在もまるで風のようで…触れようとしても手の間を虚しくすり抜けて行くのだ。 馬孟起よ。 貴方もまた魅入られたか…あの至高の存在に。 そして渇望するのか。 その手にあの至宝を抱くことを。 ―――私同様に……。 魏軍が挙兵したという知らせを受けて、蜀軍も将と兵を派遣することになった。 その派兵の中には馬超もいた。 馬超が成都を出立する直前、趙雲は遠征から戻って来た。 劉備を筆頭に、出立する兵を見送る者の中に趙雲の姿もあった。 「ご武運を―――」 目の前に立つ馬超に、趙雲が穏やかに微笑みながら声を掛けるその様子を、諸葛亮はいつもの如く感情を読み取らせない冷めた眼で見ていた。 「趙雲殿…」 軍勢が出立した後、諸葛亮は城へと引き返そうとする趙雲を呼び止めた。 「先の遠征…お疲れ様でした。 御身ご無事で何よりです」 「いいえ…それが私の務めですので。 お気遣いありがたく存じます」 諸葛亮に向けられる、先程と同じ柔らかな微笑。 「馬超殿は随分と貴方に心を許されているようですね。 先頃まではあれ程周りとの接触を拒絶したいたというのに。 主公も趙雲殿のお力に感心しておられましたよ」 趙雲は静かに首を振る。 「―――私は何も致してはおりません。 そのように仰って頂く様なことはなにも…。 馬超殿が前を向いて歩き出されたのは、あの方自身のお力です。 強い方だと思います、本当に」 「…貴方にとって馬超殿はどのような存在なのですか?」 唐突に投げかけられた問いに、趙雲は微かに首を傾けた。 「私にとって、馬超殿が? どのようなと申されましても…。 あの方は私にとってもこの国にとっても、大切な将のお一人ではありませんか。 …どうかなされたのですか? 突然そのような…」 やはり予測した通りの答えだ。 彼にとって馬超は「特別」ではない。 それは自分も同様ではあるだろうが。 分かっていた。 彼の中に「特別」など存在しないことを。 だが何故か聞かずにはいられなかった。 馬超という男の存在がいつか彼を捕らえてしまいそうな…・そんな気がして。 微かに心に宿る仄昏い思い―――。 それが何であるのかを諸葛亮自身まだ自覚などしていなかった。 「―――何でもありません。 戯言ゆえ…お忘れ下さい、趙雲殿。 …お引止めして申し訳ありませんでした。 私はこれで…」 軽い会釈の後、諸葛亮は趙雲を残し何事もなかったようにその場を立ち去ったのだった。 魏との戦の拠点となっている城が包囲され、馬超達が孤立しているとの知らせが入ったのは、それから十日程後のことだった。 「至急援軍を」 軍議の席上、劉備は当然の如くそう命を下した。 だが諸葛亮は冷静な口調で反論する。 「お言葉ですが、主公。 今の我が軍にそのような余力はございません。 諸将は皆出払っておりますし、趙雲殿、黄忠殿も遠征から戻られたばかり…。 この成都の守りをこれ以上割く訳には参りません」 「ではこのまま見捨てよと申すのか?!」 「…そう申し上げたい所ですが、それは主公の御心に反しましょう。 ―――張飛殿に向かって頂きましょう。 あの方の任地が一番近い」 「だが、今から翼徳の任地に早馬を走らせて知らせたとて、それから出陣の準備を整えねばなるまい。 …間に合うのか?」 険しい表情の劉備とは反対に、諸葛亮には相変わらず感情の変化は見られない。 「それまでは持ち堪えて頂く他ありません。 早速、張飛殿に知らせを送りましょう」 場を支配する重苦しい空気を破ったのは趙雲だった。 「私が援軍として参りましょう」 「子龍…そなたは遠征から戻ったばかりであろう。 ならぬ…」 「私の事ならばご心配には及びません、殿。 この数日ゆるりと休ませて頂きましたので」 劉備自身その言葉を額面通り受け取っている訳ではなかった。 たった数日で遠征の疲労が取れているとはとても思えない。 まして趙雲がゆっくりと休んでいる姿を見たことなど一度もない。 だが―――どうしても孤立している臣下達を救いたかった。 どうして彼らを見捨てることができようか。 「……すまぬな、子龍。 行ってくれるか?」 「承知致しました」 頷き、趙雲は立ち上がった。 その瞬間―――趙雲の視界が霞んだ。 崩れ落ちそうになる体を気力で支える。 けれどそんな様子をおくびにも出さず、趙雲は一同に巧手する。 「それでは、私は出陣の準備がありますので、失礼いたします」 退出し、回廊を歩き出した趙雲の後ろから声が掛かった。 「趙雲殿…無理をなさることはありません。 先程、倒れかけておられたでしょう?」 振り返ると、諸葛亮が立っていた。 「軍師殿…。 気付いておられたのですか…。 大したことはありません、少し眩暈がしただけですから」 いつものように微笑んでみせる趙雲に諸葛亮は僅かに眉根を寄せる。 「貴方はもう少しご自分の体を厭われたほうが良い。 ―――他の誰を欺けても、私の目は誤魔化せません。 また痩せられたでしょう? 顔色も優れぬご様子…。 貴方には休息が必要なのです」 「…お心使い感謝致します。 ですが、今は休んでいる訳には参りませんので」 ―――それ程までにあの男が大切ですか? 思わずその言葉が口を突いて出そうになる。 彼は否定はしまい。 けれどそれは特別な感情ではなく、ただ窮地に陥っている馬超を…そして他の者達を救いたいだけなのだ。 理性がそう告げていても、感情は何故か納得しない。 諸葛亮の中でまたあの昏い思いが渦を巻いた。 そして今度はそれをはっきりと自覚した。 この感情は―――嫉妬だ。 剣呑に細められた瞳。 その思いを読み取っているのかいないのか、見つめ返してくる瞳は凪いでいる。 ゆっくりと趙雲へと近付き、諸葛亮はその眼前に立つと、伸ばした手で趙雲の頬に触れた。 冷やりとした手の感触。 けれどやはり趙雲の表情は動かない。 このまま貴方を自分以外誰の目にも触れさせない場所へ閉じ込めてしまえたら。 その瞳に映るのが自分だけであったなら。 そしてその身体も心も抱くことが出来たなら。 けれど―――、 それは決して叶わぬ我欲。 ならばいっそ壊してしまおうか。 滅茶苦茶に。 貴方もあの男も私も―――何もかも全てを。 「ふふっ……」 思わず笑みが漏れた。 自分の中にこんな感情があることに純粋に驚いた。 同時にそんな自分が可笑しかった、とても―――。 やはりどれだけ冷静に感情を制御してみせても、所詮は神とは為り得ない。 唯の人間なのだと思い知らされる。 自分の中で何かが静かに崩れ始める音を聞いた気がした―――。 written by y.tatibana 2003.03.31 |
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