C-side - No4 |
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夢の中から馬超を掬い上げたのは、雨の音。 目を開けて、まず目に入ったのは自分を心配そうに覗き込む馬岱の顔。 「兄上! お気づきになられましたか?」 「…俺は……?」 頭の中に霧が掛かっているようだ。 ゆっくりと寝台から身を起こすと、節々が痛んだ。 だが、その痛みが馬超を覚醒させた。 そうしてあの出来事が夢ではないのだと思い出させる。 甦る眼前を染めた朱色―――。 倒れ伏した…あの人。 血の気を失った顔色に、開かない瞳。 けれど…ただ眠っているかのように見えた―――。 「…趙雲殿は…?」 尋ねはしたものの、その答えを聞くのが恐ろしかった。 もしも…。 あの人がこの世界からいなくなっていたらと。 「傷は急所を外れていたようです…。 ですが…、流れ出た血の量が多すぎて……。 薬師は五分だと申しておりました」 「そ…うか…」 まだあの人はこの世界にいる。 そう思うと少し安堵はした。 だが危険な状態であることには変わりないのだ。 今すぐにでも、あの人の側に駆けつけたいと思うけれど、同時にそれを恐れている自分を馬超は自覚していた。 あの人がこの世界からいなくなってしまうかもしれないという現実をまざまざと見せ付けられるような気がして。 「戦はどうなった?」 「趙将軍達の援軍のお陰で何とか凌ぎきりました」 「…達?」 怪訝な顔をする馬超に、馬岱は困惑したがすぐに合点がいった。 あの時の馬超は普通ではなかった。 いくら声を掛けても反応を示さず、ただ腕の中の趙雲のみを見ていた。 張飛が援軍に駆けつけた事も、彼がそんな馬超をこの城に運んできた事も何も知らないのだ。 その事を馬超に話すと、彼の顔は見る見る険しくなった。 「まさか、アイツに助けられるとは…な」 しかも茫然自失した自分を見られた挙句、気を失わされここまで運ばれて来たとは…。 馬超は自分の情けなさと不甲斐無さに反吐が出そうだった。 あの人の体から流れ出る血に触れた瞬間、過去の悲劇と重なった。 彼を失うかもしれない…その恐ろしさに我を忘れた。 戦場で自我を失うなどもっての他だ。 もしあの時、自分を発見していたのが馬岱や張飛でなく、敵兵であったなら、自分のみならず彼もまた死んでいた。 一度失うことを知ってしまってから自分は弱くなったと思う。 それ以前は怖いものなど何もなかったというのに―――。 「すまない…いらぬ苦労を掛けたようだ」 馬超の言葉に馬岱は静かに首を振る。 「アイツにも…礼を言わねばなるまいな…」 「…言っておくが、礼はいらん」 そう言って入って来たのは張飛だった。 どうやら馬超と馬岱の会話が外に漏れていたようだ。 不機嫌そうに眉根を寄せている。 「お前を助けた訳ではない。 お前が死ぬと兄者が悲しむからだ。 そうでなければ、あのまま捨て置いたわ」 「……そうか」 張飛とこうして口を聞くのは、あの酒宴の席以来だった。 劉備が周りに馴染もうとしない馬超を気遣って開いた酒宴の席で、一悶着あってから口を聞くこともなかった。 「何故、子龍はあのような傷を負った?」 「…俺を庇って、趙雲殿は…」 すると張飛は微かに表情を緩めた。 「あいつらしい…な。 戦場で他者を思いやる余裕など常人にはない。 自分の事で手一杯だからな」 そう―――普通ならばそんな余裕はない。 けれどあの人は自身に対する執着がないから…。 自分を守ろうとしない分、戦場ですら他者を思いやれるのかもしれない。 そんなあの人を自分は守りたいと思ったのに。 結局守るどころか自分が傷つけた。 寝台から降り立つと、やはり体中が痛む。 だが、こんな痛みなどたいしたことはない。 体よりも心の傷の方が疼く。 「趙雲殿はどこに?」 馬岱が共に行くというのを断り、教えられた場所に向かう。 部屋に入ると、寝台の傍らに薬師がいた。 「これは…、馬将軍。 もうお体の方は?」 「大事ない。 それよりも、趙雲殿は?」 薬師は微かに首を振る。 容体に変わりはないと言う事だろう。 「すまないが、しばらく外してくれないか」 薬師が退出するのと入れ替わりに、馬超は寝台に近付く。 横たえられたその体は、微動だにしない。 色を失ったその整った顔は、まるで生きた人間のそれではないようだ。 その胸にゆっくりと手を置いてみる。 すると伝わる微かな鼓動―――。 そのまま肌の温もりを確かめるように、首筋、頬、額へと指を滑らせる。 そうして彼の艶やかな黒髪を一房手に取ると、そっと口付けた。 貴方のあの穏やかな微笑みを見たい。 優しい声を聞きたい。 そう願いを込めて―――。 そうしてしばらく馬超は趙雲の傍らで、彼の顔を見つめていた。 ふと外に目をやると、いつの間にか雨はあがっていた。 その時、荒々しい足音と共に、馬岱が飛び込んできた。 「兄上! 大変です、また魏軍が…!」 「…! 分かった、俺もすぐに出陣する」 「無茶を仰らないで下さい! 怪我をなさっているのですよ、そのような体で…」 「大した傷ではない。何としてもここを守らねばならん」 ここに一歩たりとも敵を踏み込ませる訳にはいかない。 今度こそ守りきる…絶対に。 「しかし…」 言い募る馬岱の言葉を遮ったのはすっかり出陣の準備を整えた張飛だった。 「行かせてやれ。 但し、子龍からもらったその命無駄にしたら許さねぇ!」 馬超は頷き、もう一度趙雲へと目をやり、そうして出陣の準備を整えるため踵を返した。 「ご武運を―――」 声がした。 部屋を出ようとしていた馬超の背から。 もう長い間聞いていない、酷く懐かしいその声。 馬岱も張飛も驚いたように足を止めていた。 ゆっくりと振り返る。 目が合った―――。 あの漆黒の澄んだ瞳。 そして向けられる穏やかな微笑み。 すぐにでも駆け寄りたい衝動に駆られる。 だが…今は駄目だ。 ぐっと拳を握り締めると、馬超は趙雲に力強く頷いてみせた。 一族を失ったあの日から、自分は至極弱くなったのだと思った。 失うことに臆病になった。 蜀に降って周囲との関わりを避けていたのは、また大切なものができて失うことが怖かったからなのかもしれない。 けれどあの人と出会って、もっと知りたいと思った。 もっと深く繋がっていたいと願うようになった。 同時に守りたいと思った…あの儚げな人を。 あの人を守りたいと思う気持ちは、こんなにも自分を強くさせる。 失うことの辛さを知っているからこそ、今度こそ同じ過ちを繰り返さない為、自分は強くなれる。 人は失うことを知って、初めて本当の強さに気付くのかもしれない。 きっとこれからも自分はあの人に焦がれ追い続けていくだろう。 そして、この命が果てるその時まで見守り続るだろう。 朧げなあの華が決して散ることのないように―――。 長時間に及んだ激しい戦いは蜀軍の勝利で終わった―――。 written by y.tatibana 2003.03.03 |
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