C-side - No2 |
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まるで……張り詰めた一本の糸のようだと思った――― 初めてあの人に会ったのは、秋風が吹き始めた頃だった。 従兄弟の馬岱以外の一族は曹操によって屠られ、仇を討つため蜀に降った。 自分の目的は曹操を討ち取ることのみ。 だから、蜀の人間と馴れ合う気は更々なかった。 向こうが自分の武力を求めるのなら、自分は曹操を倒す足場が欲しい。 お互いの利害が一致するのなら、利用し利用される関係…それで良いのだと思っていた。 決して輪の中に入ろうとしない馬超を劉備は気に病んでいた。 馬岱以外の人間とは決して関わろうとはしない。 例え彼に話しかける人間がいても、短く返答を返すか無視を決め込むか…どちらかだ。 最初は投降した彼を気遣っていた人間も、そんな馬超の態度に次第に距離を取るようになっていった。 「まるで、手負いの獣だな…」 ふと漏らしたその言葉を傍らに控えた人物は聞き逃さなかった。 「馬超殿の事ですね?」 見ていた書簡から目を離し、劉備の方を向く。 「…さすが孔明だな。 私の考えなど全てお見通しとみえる」 劉備の驚いた様子に、諸葛亮はクスリと笑いを漏らす。 「多分私でなくても誰でもお分かりになると思いますよ。 最近主上が馬超殿の事でお心を悩ませておられるのは、みな知っておりますから」 「はは…そうであったか。 だがどうしたものか…のう孔明?」 「…手負いであっても獣は獣。 いえ、手負いであるからこそ余計に無闇に触れようとすれば危険です。 ましてやプライドの高い彼のこと…同情や哀れみなど無用のものでしょう。 例えそれが純粋な優しさからくるものであっても。 今はまだそっとしておくのがよろしいかと」 「やはりそれが一番か…」 そのまま何事かを考え込んでいる劉備から、諸葛亮は再び書簡へ視線を移した。 劉備にはああは言ったが、諸葛亮自身はっきり言って馬超の事などどうでも良かった。 彼が蜀の人間と対立しようが、溶け込もうが知ったことではない。 彼にはただ戦いの時に役立ってくれさえすれば良いのだ。 戦いの場にそれを持ち込まなければそれで良い。 馬超も蜀に降ったからには、こちらが求めるものを理解しているはずだ。 端からそれ以上何も期待していない。 そっとしておく事が一番なのだと諸葛亮には言われたが、やはり劉備は馬超の事が気になって仕方がなかった。 少しでも臣下達との距離を縮められぬかと思い、酒宴を開いた。 酒宴の席――― 馬超は不機嫌さを隠そうともせず、黙々と酒を煽っていた。 その様子を傍らに座る馬岱がハラハラと見遣る。 「兄上…っ!」 「なんだ…?」 「なんだではありませぬ! その様な態度、みなに失礼ではありませんか!」 小声でけれども力強く訴えてくる馬岱に馬超は皮肉気に口元を歪めた。 「俺は馴れ合う気はないと何度言えば分かる? このような宴など無意味だ」 その言葉を耳聡く聞いた者がいた。 「なんだと!」 馬超の斜め前の席から立ち上がった男。 劉備の義兄弟、張飛翼徳だった。 「貴様っ! 兄者は貴様の為を思ってわざわざこのような宴を開いたのだぞ! それを…っ」 酒のせいか怒りの為なのか、その顔は真っ赤だ。 今にも殴りかからんとする張飛を小馬鹿にしたように馬超は鼻で笑った。 「そのようなこと、俺は頼んだ覚えはない」 「おのれ、言わせておけばっ!」 周りの者が張飛を止め様と必死にその腕や体にしがみ付いている。 「止めよ、翼徳!」 劉備の凛とした声が割って入った。 「兄者…だがこいつが…」 「止めよと言っておる。 私は気にしてはおらぬ。 確かに孟起の言う通りこの場を設けたのは私の一存なのだから、孟起が立腹するのも無理はない」 「兄者はこいつに甘過ぎる! こんな奴など居なくても…」 「翼徳!」 再度劉備に諌められ、張飛はそれ以上何も言わず退出した。 「すまなかったな、孟起」 宴を開いた自分のことを詫びているのか、張飛のことを詫びているのか分からなかったが、 馬超は答えることなくまた酒を煽った。 視線を感じた―――。 困ったような笑顔を浮かべる劉備の傍らに控えた人物。 諸葛亮孔明。 劉備が三度その足を運んで、ようやく臣下に加えることが出来た軍師。 女かと見紛うばかりの美貌の人物だった。 けれど女では決して放つことはできない刃物のような鋭い気配を纏い、いつも冷めた目で周囲を見ている。 馬超と目が合ったのは一瞬だった。 すぐに彼は何事もなかったかのように視線を逸らした。 けれど馬超は明らかに蔑まれたのを感じた。 このような場で事を荒立てるのは馬鹿げたことだと、子供の様だと言われたようだった。 「くっ…」 ここで怒りをぶつければ、張飛の二の舞だ。 屈辱に唇を噛み締め、拳を握る。 その時、文官が一人劉備の元に歩み寄り、何か耳打ちするのが目に入った。 劉備は頷くと立ち上がり、馬超の元へ近づいてきた。 「孟起、そなたに紹介したい者がいる」 そう劉備が言ったと同時に声がした。 「失礼致します」 その声の人物は劉備の傍らに立つと、静かに拱手して微笑んだ。 「お初におめもじ致します。 趙子龍にございます」 立ち上がった馬超は目を見張った。 この目の前の人物があの長坂の英雄、趙子龍だと!? 謀られているのかと思った。 目の前に立つその者の容貌。 あまりにも整ったその顔…美しいが女には見えない。 かと言って男のそれとも言い難い。 性を感じさせない、その容姿。 そして武将とは到底思えないその線の細い体。 そんな馬超の様子を見て劉備は可笑しそうに笑った。 「はは…驚いているな孟起。 別にそなたを騙すつもりなぞないぞ。 みな最初に子龍に会ったときは驚くのだが、彼が真に趙雲子龍だ」 趙雲は穏やかな微笑のまま、唖然としている様子の馬超に語りかけた。 「しばし遠方に出ておりました故、ご挨拶が遅くなってしまいました。 噂に名高い錦馬超殿が我らが陣営に入って下さり心強い限りです。 我々同様、兵や民にとっても大きな励みになるでしょう」 心地の良い、優しい声だった。 「馬孟起と申す」 ようやく自分を取り戻した馬超は自分の名だけを短く返す。 そのようなそっけのない返答にも趙雲は特に気分を害された様子もない。 そんな趙雲を馬超はもう一度じっと見た。 漆黒の澄んだ瞳は、凪いだ海のように穏やかだ。 放たれる雰囲気も、諸葛亮のそれとは異なりとても柔らかい。 けれど…馬超は趙雲の中にある種の危うさを感じた。 まるで…張り詰めた一本の糸のようだ――― . そう思った。 彼は何故か生きるものが持つ生命感を感じさせない。 それが彼の存在をとても朧げで、儚いものにしているようだった。 この世と生きるものが存在しない異界…その際で辛うじてこちら側に立っているのではないか。 彼の中の張り詰めた一本の糸が切れた時、彼は向こう側へ行くのではないか。 そんな危うさを感じ取った。 「貴殿は、死にたいとお思いか?」 唐突な馬超の問い。 けれど、趙雲は別段驚いた風もない。 ぎょっとしたのは横に立つ劉備や周りの人間の方だった。 「孟起…一体何を…」 「そうですよ、兄上! 急に何を仰られます!?」 劉備と馬岱の言葉など耳に入っていなかった。 ただ目の前に立つ趙雲に視線を注ぐ。 「いいえ…、馬超殿。 私は死にたいと思った事などありません」 視線を逸らすこともなく、趙雲は変わらず穏やかに答えた。 けれどそこに迷いの色は感じ取れなかった。 それは本心なのか―――? 本心だとすれば、なぜこれほどまでに生を感じさせないのか? 何が彼をあれ程朧げな存在にしているのか…。 ふと彼に興味を引かれかけている自分に気が付いて、馬超ははっとした。 他人の事などどうでも良い事だ。 今の自分には成さねばならぬことがある。 目の前の男が生きたいと思っていようが死にたいと思っていようが自分には関係のないことだ。 馬超をふいっと視線を逸らすと、そのまま座し黙って酒を飲む。 「兄上…趙将軍に失礼ですよ!」 「かまいませんよ、馬岱殿。 馬超殿、今日は任地から戻って来たばかりでまだ少々雑事が残っております故、私はこれで失礼させて頂きます。 またゆるりとお話を伺いたく思います。 それでは」 馬超に拱手し、周りの人間と挨拶を交わしながら趙雲は退出した。 「お綺麗な方でしたね、趙将軍って。 あの有名な趙子龍殿があのような方だとは思ってもみませんでした。 張将軍のような方だと思ってました」 馬岱は想像とのあまりの違いに心底驚いているようだった。 「それにしても、兄上…何故いきなり趙将軍になのようなことを?」 死にたいのかと馬超が聞いたことを言っているらしい。 「お前は感じなかったか? 朧げで、生を感じさせぬ…あの感じ…」 馬岱はその言葉にきょとんとなっている。 そうか、あれはみなが感じている訳ではないのだ。 自分の気のせいなのか…。 関係ないと言いながら、また彼のことに気を取られている自分を今度は自覚できなかった――― あの酒宴の後も馬超がやはり蜀の人間と関わりを持つことはなかった。 そんな彼の屋敷を趙雲が尋ねて来たのは、宴から一週間ほど過ぎた夕刻の頃だった。 「この間はゆっくりとお話することも叶いませんでしたので」 そう言って、あの穏やかな微笑を見せる。 正直困惑した――― 確かにあの時ゆっくりと話したいと彼は言ったけれど、あんな態度を取った馬超に対して本気で言っているとは思ってもなかった。 通り一遍の社交辞令なのだと信じて疑わなかった。 「突然お尋ねしてご迷惑でしたか? でしたらまた出直して参りますが…」 「いや…そんなことはありません。 どうぞ」 内心の動揺を押し込めつつ、馬超は彼を自分の室に通した。 家人に酒と肴の用意を申しつけ、馬超は趙雲に座を勧めた。 程なく家人が酒と肴を卓に並べ、馬超は趙雲の盃に酒を満たした。 「ありがとうございます。 ここしばらく色々と忙しくしていたものですから、なかなかお目に掛かる機会をもてませんでした」 今度は趙雲が馬超の盃に酒を注ぐ。 「…劉備殿に言われたのですか?」 「?」 「劉備殿は俺がみなと上手くいってないことを気に病んでおられるらしい。 だから貴殿を遣わしたのかと思ったのですよ」 そうやって劉備は今までにも何人かを自分の元に送り、馬超と周囲の溝を埋めようとした。 余計な事を…。 その度にそう思い遣わされた人間に悉く冷たく応じた。 そして懲りずに今度はこの男を遣わしたのかと思ったのだ。 「いいえ、殿は何もおっしゃられておりません。 今日私がここに参ったのは、私自身が馬超殿とお話したいと思ったからです」 「話…? 俺と話しても大して面白いものとは思えぬが…。 貴殿と俺には何の繋がりもない、ましてや少し前にお会いしたのが初めてだ。 何を話せとおっしゃるのか…」 「日々のこと、これからのこと…色々と」 過去の事を聞かないのは流石か。 たいていの者は知りたがる。 いや知っているにも関わらず、それを聞きたがる。 ある者は哀れだといって泣き、ある者は怒りながら打倒曹操を叫ぶ。 そうして馬超の心を救ったような気になる―――。 そんなもの唯の自己満足に過ぎない。 哀れみや同情などまっぴらだ。 「日々のこと、これからのこと? …特にお話するようなことはありませぬ。 たとえあったとしても、それを貴殿に話さなければならぬ謂れはない」 冷たく言い放った言葉にも、趙雲の表情は動かなかった。 「そうですね…。 …ならば、ただこうして酒を酌み交わしましょう」 そう言って静かに先ほど馬超が注いだ盃に口付けた。 馬超もそれに倣った。 馬超は空になった趙雲の盃に酒を注いでやりながら、ちらりと趙雲の表情を伺う。 沈黙が辺りを支配していても、趙雲は一向に気にする様子もないようだった。 目を伏せて、ただ静かに盃を傾けていた。 やはり…生を感じさせない。 気のせいではない。 それが彼のこの美しさを常ならざるものにしているのか。 初めて出会ったあの宴の時も感じたあの疑問。 何が彼の存在を朧げなものにしているのか。 どの位の刻が過ぎたのか―――。 窓から射していた夕日に変わって、窓に面した庭から虫の鳴く声がする。 盃を置くと、趙雲はゆっくりと立ち上がった。 「―――随分長居を致しました、申し訳ありません。 そろそろお暇させて頂きます。 今日は馬超殿とこのような場を持てて楽しかったです」 その言葉に馬超も席を立った。 「…楽しかった? 下手な世辞はお止め下さい。 俺は何も話していない…ただ黙って酒を飲んでいただけです。 それのどこが楽しいというのか」 「言葉を交わすだけが全てではないでしょう? 私は貴方と黙って酒を酌み交わすのがとても楽しかったのです」 正直言って、馬超も嫌ではなかった。 趙雲が沈黙に耐えかねて、何かを煩く話し掛けてきていたら馬超はきっと彼をこの場に留めてはおかなかった。 早々にお帰り願っていたことだろう。 またその沈黙が苦痛なものであったのだとしても同様に。 だが彼との沈黙は息苦しさも感じなかった。 ただ穏やかに流れる時間が心地良かった。 不思議な人だ―――。 馬岱以外の誰とも関わりあう事はしないと思っていたのに。 いつの間にかその澄んだ瞳に取り込まれている。 そう思うと同時に、湧き上がる欲望―――。 もっと知りたい、趙子龍という人間を―――。 馬超は趙雲の腕を掴むと、有無を言わさぬ力強さで傍らの寝台へ自らの体重を掛け趙雲の体を押さえ込んだ。 細い…な。 押さえ込んだ趙雲の顔を見下ろすが、やはりその表情に変化はなかった。 目を逸らすこともなく、ただその凪いだ瞳で自分を見下ろす馬超を見ていた。 自分が置かれている状況が分かっていないのだろうか…。 そのまま透けるような白い首筋に口付けを落とす。 それでもやはり彼が抵抗する素振りはない。 ―――まさか経験がない訳ではあるまい。 これだけの美貌なのだ、黙っていても女は寄ってくるだろう。 そしてそれは女だけではないだろう、きっと。 しかしその瞬間、馬超はふと気付いた。 そうか―――、彼は自分自身に執着がないのだと。 自分の心にも体にも、そして命にも執着がないのではないだろうかと。 だから彼は抵抗しないのではないか。 自分の体を唯の容れ物のようにしか思ってないのかもしれない。 彼自身への執着心のなさ…。 それが彼の生を感じさず、その存在を朧げにしているものなのか。 何故彼がそれ程までに自身への執着心を持たないのか―――。 それは馬超には分かるべくもない。 けれどなぜかとても悲しかった―――。 「馬超殿…?」 自分を呼ぶ優しい声音。 いつの間にか涙が零れていた…。 彼を押さえ込んでいた自らの体を起こし、寝台の淵に腰掛け、自分の両手に顔を埋めた。 背後で趙雲が身を起こす気配がする。 「すみませんでした…。 俺は…」 「…また、私と共に飲んで下さいますか?」 「…! ――― えぇ、もちろん」 馬超は顔を上げ、趙雲を振り返った。 涙を拭い、あの時以来忘れ去っていた笑顔で―――。 彼をこちら側に引き留めているその糸が、布のように脆いものなのか、鋼のように強固なものなのかは分からない。 けれど、願わずにはいられない。 それが決して切れることのない糸であることを―――。 written by y.tatibana 2003.02.23 |
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