C-side - No1

あかい呪縛
……

一面の
あか

天を仰いでも、踏み締める大地も、四方全てが
あかい

ここはどこなのだろう?

そして振る雨…
手を差し伸べてみる。
一瞬にして手を染める
あかい色。
それを眼前に掲げて、ようやく彼はそれが何かを知る。

あぁ…血だ……。

錆びた匂いが鼻をつく。
それは戦場を駆ける彼にとっては至極見慣れたもの。
けれど…体が震えるのは何故なのか。

あかい雨が彼の全身を染めていく。

四方を染め、降り注ぐのは、守ることも叶わず散ってしまった命達が流した血…。
容赦なく降り注ぐそれに、彼は立っていることが出来ずに膝を折る。
体の震えは止まらない。

恨んでいるのだろう…自分を。
赦してくれ…とは言うまい。
罪も罰もこの身にうけよう。
けれど…今はまだ逝けない。
仇を討つまでは。
そして…あの人の傍に在れる間は。

けれど、
責め立てるように激しさを増す
あかい雨。
それは彼の言葉も祈りも届かぬように、降り続いた……。
やがて
あかは彼をも飲み込んで、全てを染めた。





「…!」
勢いよく寝台から身を起こし、ゆっくりと辺りを見回す。
明り取りの窓から漏れる微かな月明かりがぼんやりと室内を浮かび上がらせている。
「夢…か」
乱れた息をゆっくりと整え、無造作に金の髪を掻き揚げる。
隣に目をやれば、女が一人こちらの裸の背を向け寝入っている。
今日城下で知り合った女だ。
快楽に身を任せれば、あの夢を見ることもないと考えた自分が浅はかだったのか…。
心にあるのは虚しさだけだ。

―――彼を責め続ける
あかい夢。

寝台から降り、床に脱ぎ散らかした衣を身に着けると部屋を後にした。
ひんやりとした風が身に心地良い。
そのまま馬を駆り、屋敷を出た。

特に目的があった訳ではない。
だがあのまま眠りにつけるとはとうてい思えなかった。
否…。
また眠りについてあの夢を見るのを恐れているのだ…自分は。

「はっ…」
そんな自分に気が付いて彼は皮肉気に口元を歪めて笑う。

戦場では誰もが彼を恐れた。
そして彼もまた己は誰よりも強いと信じていた。
その過信が悲劇を招いた。

馬を走らせる彼の耳にふと届いた微かな調べ。
近くの森林から聞こえて来るようだ。
彼は馬を降り、その調べに誘われるまま森林へと足を踏み入れた。

暗い森林の中を月明かりと調べだけを頼りに歩く。
やや歩いた所で、急に視界が開けた。

眼前には静かな水面を湛えた大きな湖。
そうして鮮明になる笛の調べ。
水辺に立ち、澄んだ音色を奏でているは彼の人だった。
月明かりに照らされ、目を閉じ笛を奏でるその姿はいつもに増して彼の人の美貌を際立たせている。
そしてそれ以上にその存在を朧げにしているようだった…。

「趙雲殿…っ!」
その儚げな様子に、考えるよりも先に言葉が突いて出た。
消えてしまうかと思った。
彼の人は…趙雲は笛を下ろすゆっくりと彼に目を向けた。
「馬超殿…?」
趙雲は特に驚いた様子もなく、ゆったりと馬超に微笑み掛けた。
「このような夜更けに、どうかなさいましたか?」

いつもと変わらぬ、優しい微笑み。
彼が消えてしまう…などど思った自分が急に気恥ずかしくなった。

「俺は少し…夜風に当たりたくなったので…。
趙雲殿こそどうかされたのですか?」
趙雲はそっと天を仰ぐ。
「月があまりにも見事でしたので」
つられるように馬超も顔を上げる。

雲ひとつない漆黒の闇に輝く満月。
その光が自分の中の罪を暴き立てるようで…。
堪らない…。

「馬超殿…?
どこか具合がお悪いのではないですか?」
いつの間にか趙雲が間近にいた。
「顔色が優れぬようですが…」
心配気に自分を見遣る澄んだ瞳に、ドクン…と心臓が高鳴った。

自分を捕らえて離さない漆黒の美しい瞳。
いつもは後ろで一つに束ねられている艶やかな長い黒髪は今は解かれ微かに風に靡いている。
常ならばきちんと着込まれている衣も薄いものしか身に纏っておらず、繊細な体の線を浮かび上がらせていた。
抱きしめたい…。
思うが侭にこの腕で掻き抱きたい…。

きっと彼は抗ったりはしないだろう。
それは優しさか…それとも彼の自身への執着心のなさかなのか…。
けれど……、
彼の自分に対する気持ちは、自分が彼に向けるそれとは違うのだろう。
彼の中に特別は無い。
全てが平等だ。
自分は彼の中で、共に戦う将であるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。

「馬超殿?」
「…なんでも…ありません」
自分の中の欲望を押し込めるように、馬超は拳を強く握った。
「ですが…、本当に顔色がお悪いですよ?
今宵は風が冷たい。
早くお戻りになられて、休まれた方がよろしいのでは?」
真っ直ぐに見つめてくる瞳に耐えられず、馬超はゆっくりと目を逸らす。

「夢を…見るのです」
ぽつりと漏らした呟き。
「夢…?」
「あかい夢です…、血色の。
全てがあかくて、そして俺自身もそのあかに取込まれる」
話すつもりなどなかったのに…・。
一度話し始めると、堰を切ったように言葉が溢れ出た。
「俺は守れなかった!
自分の力を過信して、まんまと曹操の策略に嵌って!」
荒ぶる感情を制御出来なかった。
感情のままに言葉を吐き出す。

肩で息を整えながら、唇を噛み締めた。
彼は…こんな自分を今どう見ているのだろう?
憐れみ?
同情?
それとも軽蔑か?
怖くて彼の目を見れなかった。

「亡くなった人の心はどこに行くのでしょうね?」
いつもと変わらぬ穏やかな声。
憐れむようでも、蔑むようでもないいつもの。
馬超はようやく視線を彼へと戻した。

見つめる瞳は先程と少しも変わらず澄んでいる。
問い掛けに返す言葉は見つからない。
「私は…自分を大切に思ってくれていた人達の元に帰ると思うのですよ」
「……」
「貴方が大切にしたいと思った気持ち、守りたいと思った気持ちは嘘ではないでしょう?
その気持ちは届いていた筈です。
ですから…・きっと貴方の元にその心は帰り、貴方の中でまた生き始める」
「ですが、そうして帰って来た心が俺に夢を見せる。
あの血色の夢を…。
苦しい、辛いと訴えかけるのです」
馬超の言葉に、趙雲は微かに首を振る。
「貴方が与えたのは苦しみだけですか?
苦しみよりも大切なものを与え与えられたのではありませんか?
貴方がそのように思いを寄せていた人達が、貴方にそんな苦しみを与えるのでしょうか?」

あぁ…そうか。
あれは自分自身の心が見せていたものなのか。
守れなかった者達への後ろ暗い罪の気持ちが見せた夢…。
赦しを乞う事はしないと言いながら、あの夢をみることで自分も辛いのだと、苦しんでいるのだと。
そうして、心に沈む罪と言う名の猛毒を中和しようとした。
自分を痛めつけることで、贖罪を求めていたのかもしれない。
そんな事をしても過去が変わる筈も無いのに、自分はあの過去に縛られたままだ…。

「趙雲殿…俺は…」
「私が言った事は、生きている者の都合の良い考えなのかもしれません。
どんな悲しい過去も消えることも、変わることもない…。
忘れる事はできないけれど、過去に捕らわれたまま生きるのは亡くなった人達にとっても、
自分自身にとっても悲しいこと…なのだと思います」
静かな趙雲の言葉が、馬超の心に染み渡っていくようだった。

きっと今はまだ過去の呪縛からは逃れられないだろう…。
またあの血色の夢を見るのだと思う。
けれど、あれ程思い出せなかった妻や子供…近しい者達の笑顔を
今なら不思議と思い出せる。
とても鮮明に。
それは心の中でみなが息づいている証拠なのだろうか。

「今すぐに…とはいかないと思います。
ですが、止まったままのあの時点から、今なら歩き出せそうな気がします。
心の中にみながいるのなら、あまり情けない姿は見せれません。
強く誇り高くあってこそ俺ですから」
力強い馬超の口調に迷いはなかった。
「趙雲殿、笛をお聞かせ願えませんか?」
先程までの暗い色ではなく、馬超らしい意志の強さを称えた瞳を見て、
趙雲は静かに微笑む。
「はい」
答えると趙雲は、静かに口元へと笛を寄せた。

澄んだ笛の音を聞きながら、馬超は天を仰ぐ。
先程は直視出来なかった月が、美しいと思えた。

今宵は良い夢を見れそうだ―――





written by y.tatibana 2003.02.18
 


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