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魏延は告げられた言葉の意味を理解してはいないようだった。 目の前に立つ趙雲が伏目がちに告げたその言葉を。 答えを返さない魏延に業を煮やしたのか、趙雲は再度同じ言葉を繰り返す。 「別れよう…文長」 と―――。 冗談を言っているような表情ではなく、趙雲は真剣そのものだった。 魏延が戸惑うのも無理はない。 つい先日まではそのような素振りを見せたことは一度もなかったのだから。 趙雲は魏文長という男を尊敬し、そして愛していた。 否。 今でも愛している。 だからこそ…別れなければならないのだ。 あの男が……馬孟起が現れ全てが崩壊した―――。 あの日、趙雲は馬超に酒でもどうかと誘われた。 まだ蜀に降って日も浅い馬超とは酒宴の席で一度あいさつを交わしたくらいだった。 決して周囲と馴染もうとはしない馬超に誘われたことに趙雲は驚いたが、断る理由も特になく、彼の邸へと赴いた。 彼の邸の者に案内され、部屋に入ると、馬超は既に杯を傾けていた。 趙雲の姿を認めると、馬超はうっすらと笑みをつくった。 冷酷で残忍な笑みだった。 「趙雲殿は未だ独り身だと伺った。 なにゆえか?」 人を招いておきながらのいきなりの不躾な問い掛けに、趙雲は不快気に眉根を寄せた。 「貴殿にそれを答えねばならぬ謂れはない」 冷たさを含んだ趙雲の低い声色にも、馬超は怯んだ様子は微塵もない。 それどころかますます楽しそうに瞳を細めた。 「はっきり申せばよかろう…女に興味はないのだと。 女のように男に抱かれるのがお好きなのだろう?長坂の英雄殿は」 趙雲はきつく馬超を睨めつけた。 鋭い視線。 戦場では誰もが恐れ戦くであろうそれを馬超は酒を呷りつつ平然と受け止めている。 「…私を愚弄されるおつもりか?」 「とんでもない。 俺は真実を告げたまでだ。 ―――魏文長殿と申されたか…あの御仁は」 「!!」 突然魏延の名を出され、趙雲は思わず目を見開いた。 馬超は趙雲の反応に可笑しそうにクッと笑い声を漏らす。 「隠しているつもりだろうが、俺には分かる。 貴殿のあの男を見つめる視線や、表情でな」 杯を置き、馬超は立ち上がった。 ゆっくりと趙雲へと歩を進めていく。 趙雲は呪縛にかけられたように動けなかった。 本能がこの男は危険だと告げているにもかかわらず。 馬超の意図が全く読めない。 それでも鋭い眼差しはそのままに、馬超を射ている。 だが馬超はそれを意に介さず、戸口に立ち尽くす趙雲の腕を捕らえると、強引に部屋の片隅に設えられた寝台の方へと導く。 趙雲が反応するよりも先にその身体を寝台の上に組み敷いた。 「何をなさる!?」 趙雲は圧し掛かる男の身体を退けようともがく。 その趙雲を体重を掛けて押さえ込み、馬超は彼の両手首を掴むと己の手でもって寝台へと縫いつけた。 相変らず口元には酷薄な笑みが浮かんでいる。 「寝台の上ですることと言えば一つであろう? 何を今更…いつも貴殿があの男となされていることだ」 「戯言を……っ! 誘うのならば他の者をあたれ!」 声を荒げ、押さえつけられている身体を何とか動かそうと趙雲は全身に力を込める。 それでも体格差からか馬超の身体は動かない。 そんな趙雲を無慈悲に見下ろしながら、馬超は告げる。 「俺のものになれ、趙雲殿」 それは懇願などではなかった。 真摯さの欠片も感じない。 まるでそれが当たり前のことのような口調だった。 拒絶されることは端から考えていないのであろう傲慢で不遜な態度に、趙雲は冷笑をもって応える。 「愚かな。 何故私が貴殿のものになどにならねばならぬ? そうやって今までどれだけの人間を跪かせて来たのかは知らぬが、私は決して貴殿の思い通りなどにはならぬ。 離せ!!」 「残念ながら貴殿に拒む権利はない、趙雲殿」 冷淡に言い放って、馬超は趙雲の首筋へと唇を落とした。 嫌悪感に趙雲の肌は粟立った。 魏延と関係をもっていることは事実だ。 だが馬超が言うように男に抱かれて喜ぶ性癖など趙雲は持ち合わせてはいなかった。 魏延という男だからこそ身体を重ねたいと思う。 その武にそして人柄に魅せられ心を通わせ合っているからこそ。 誰でも良い訳では決してない。 ようやく何とか戒められていた手を振り解き、趙雲は自由になった手で馬超の身体を押し返そうと試みる。 「拒む権利はないと言った筈だ」 馬超は顔を上げ、冷たく光る瞳で趙雲を見遣る。 「魏延殿は諸葛亮殿にいたく疎んじられているそうだな。 もし、魏延殿が他国に寝返ろうとしているとすれば一体どうなると思われる?」 「何を馬鹿なことを…。 文長がそのようなことを考えているはずもない!」 突然の問いを趙雲は馬鹿馬鹿しいとばかり一笑に付す。 だが馬超は尚も続ける。 「人の心など他人には決して分からぬものよ。 まして魏延殿はその能力や働きに見合った地位も与えられず、それを不満に思っていて何の不思議があろうか。 ―――その証拠を俺が握っているとしたらどうする?」 だが趙雲を強くかぶりを振り、馬超の言葉を否定する。 「そのような作り話を信じる程、私と文長の繋がりは弱くはない」 「だが、丞相である諸葛亮殿はどう思われるかな?」 「!!」 馬超が言わんとしている意味を悟り、趙雲ははっとして口を噤んだ。 目を瞠り、愕然とした面持ちの趙雲を馬超は満足そうに見つめ、頷いた。 「そう―――ことの真偽など二の次なのだ、趙雲殿。 日頃から魏延殿のことを良くは思っていない諸葛亮殿にとってそれは彼を罰するにまたとない切欠になる。 根も葉もない疑惑であっても、諸葛亮殿には白が黒と映る。 彼は裏切り者として皆から謗られ、恥辱に塗れたまま断罪される」 「おのれ…」 趙雲は怒りに唇を震わせる。 対する馬超は勝ち誇ったように声を上げて笑った。 「俺を殺すか? だが、魏延殿が寝返ろうと他国に送ろうとした密書…それらしくしたためた書簡を他の人間に預けてある。 俺に何かあった場合は諸葛亮殿にその書簡を届けよと命じてな。 その後どうなるかはもう容易く想像できよう?」 趙雲はただ馬超を睨みつけることしかできなかった。 溢れてくる怒りと悔しさで、今すぐにでもこの男を斬り捨ててやりたかった。 しかし―――。 「魏延殿の惨めな最期をその目で見たいというのならば、俺を斬れば良い。 だが……それが嫌ならば、どうすべきかはお分かりであろう? 貴殿の選べる道は二つに一つだ」 不条理に突きつけられた選択。 だがこの男は趙雲がどちらを選ぶかなど最初から分かっていたに違いない。 だから言ったのだ。 拒む権利はないのだと。 馬超を退けようと彼の肩に掛けていた趙雲の手が力を失った。 そのまま寝台に力なく投げ出される。 暗い地の底に落ちていくような絶望感。 何もかもが壊れていく音を趙雲は確かに聞いた気がした。 それでも趙雲の双眸は逸らされることなく馬超を睨み続けている。 馬超はそれを愉悦を滲ませ細めた瞳で受ける。 「俺の事が憎いか? だが決して手放しはせぬぞ。 選んだのは貴殿なのだからな、趙雲殿」 趙雲の唇に己のそれを深く重ね、馬超は空いた手で趙雲の衣を剥ぎ取っていく。 もう抵抗はしなかった。 だが趙雲は決して瞳を閉じず、悔しさに涙を流すこともしなかった。 それが残された最後の自尊心だというように、ただ馬超へ憎しみに満ちた鋭い視線を投げ続けていた。 痛みに身体を苛まれ、屈辱に心が悲鳴を上げようとも。 馬超が趙雲の身体を思うが侭に蹂躙し、ようやく身を離したその時まで、趙雲は目を逸らさなかった。 これが馬超との始まりだった。 そして―――それは同時に魏延との終わりを齎した。 そうして別れを告げた。 今でもただひたすらに愛しく想っている男へ。 「何故だ?」 黙り込んでいた魏延がようやく問い掛けてきた。 優しい瞳にすべてを見透かされそうで、趙雲は居たたまれなくなり俯く。 今の自分の瞳は憎しみに彩られている。 醜く汚れている。 抑えようとも湧き上がってくる馬超への激しい憎悪は魏延を前にしても収まってはくれなかった。 それが内側から身も心も蝕み、腐敗させていくようだ。 しかし、それを悟られてはならない。 第一そんな瞳で彼の姿を映したくはなかった。 魏延をも汚してしまいそうな気がして。 口を開けば、全てを吐露してしまいそうになる。 唇を噛み締め、趙雲はそれを耐える。 魏延は趙雲が犠牲となることなど望みはしないだろう。 そうして生きるくらいなら、喜んで死を選ぶ。 しかし何故彼が命を落さなければならないのか。 ありもしない罪を被され、周囲から蔑まれた挙句、裁かれる姿など絶対に見たくはない。 「子龍?」 趙雲は答える替わりに、顔を上げると魏延へと口付けた。 思いの丈をぶつけるように強く深く。 どれだけ馬超に抱かれようとも、この先馬超の傍で時を過ごすことになっても―――心だけはここに置いておくから。 いつまでも心は魏延と共にあるのだ……と。 唇を離し、趙雲は身を翻し駆け出した。 もう二度と振り返りはしなかった。 呼び止める声にも足を止めなかった。 今の自分はただの抜け殻でしかないのだから。 城の庭を抜けきろうとしたところで、柱の陰にある人影に気付く。 腕を組んで、人をくったような笑みを浮かべてそこに立つ男。 構わず通り過ぎようとした趙雲の腕を馬超が捕らえる。 「恋人相手につれないことだな、趙雲殿」 無言できつく睨みつけてくる趙雲の瞳を、馬超は心底嬉しそうに見つめる。 「そうだ、もっと俺を憎めばいい」 ―――そうこれでいい。 憎しみでいいのだ。 その瞳に自分の姿を映してくれさえすれば。 他の誰にも見せぬ憎しみに満ちたその瞳で見つめられれば本望だ。 人はそれを狂気と呼ぶだろうか。 それならばそれで構いはしなかった。 愛情であろうと。 憐憫であろうと。 そして……。 憎悪であろうと。 馬超にとってこの美しい蒼き龍の中に確かな存在として宿ることが出来れば良い。 それが全てだったのだ。 written by y.tatibana 2004.04.02 |
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