禁猟区
最初に出逢ったのは、城の回廊だった。
今となってはもう何の用だったのかは思い出せないが、馬超は馬岱を探していた。
その時回廊の向うからやって来る人影に気が付いた。
馬超とさして年の変わらないであろう長身の男だった。
その身なりから判断して、それなりの地位の人間なのだろうということは察しがついた。
だが、馬超はその男の顔に見覚えはなかった。
まだ蜀に降っていくばくもない馬超には無理のないことではあったが。
見た目からしてとても武官には見えない。
ということは諸葛亮あたりに仕えている文官と言ったところか。

男は静かに会釈して、馬超の脇を通り過ぎようとした。
「待て」
馬超の短い静止の言葉に、男は素直に足を止めた。
真っ直ぐに馬超を見つめてくる漆黒の瞳。
間近に見る男の顔は驚くほど整っていた。
「何か…?」
ゆったりと微笑みながら答えるその声も容貌に違わぬ柔らかいものだった。
「馬岱という者を探しているのだが、知らないか?」
馬超の問いかけに、男はすまなさそうに首を振る。
「申し訳ありません。
貴方がお探しの方は存じ上げません。
その方は最近この国に来られたのでしょうか?
なにぶんつい先頃遠征から戻って来たばかりですので…」
「そうであったか。
引き止めてすまなかった。
そなた名は何と言う?」
目の前の男に興味があった訳ではない。
確かに綺麗な顔立ちではあったが、―――それだけだ。
それ以外に惹きつけるものは何もなく感じた。
恐らく名を聞いてもすぐに忘れてしまうだろう。
ただ何とはなしに聞いただけだった。

だが―――
「趙子龍と申します」
とその男が名乗るのを聞いた時、しばし馬超の思考は停止した。
そして次の瞬間、思わず吹き出していた。
「ハハハ…面白い男だな。
そなたがあの長坂の英雄だと?!」

冗談だと思った。
目の前の男はどう見えても武官には見えない。
ましてあの趙子龍だとは到底。
細い身体と柔和な笑顔。
何よりも武官としてあるべき覇気が全くといっていい程感じられない。
こんな男が戦場に出たら、一瞬の内に討たれてしまうだろう。

「それで名は?」
馬超は再度問う。
「ですから、趙子龍だと申し上げたではありませんか…」
男は本気で困惑しているようだった。
「まだ言うか…。
―――まあ良い。
ではそういう事にしておこう。
俺の名は馬孟起だ。
そなたが趙子龍だというのならまた会うこともあろう。
ではな―――、趙雲殿」
からかうような口調でそう言って、馬超はそのまま立ち去った。





だが馬超は後日それが正しかったことを知る。
酒宴の席で劉備から趙子龍だと紹介されたその人物。
あの男だった。
「またお会いしましたね、馬超殿」
あの時と同じ柔らかい笑顔で、あの男は…趙雲は拱手した―――

その後、何度か趙雲と顔は合わせたが、やはり馬超は釈然としなかった。
どうしても曹操軍百万の中を単騎駆けした男とは思えないのだ。
その静かな物腰からはとても想像がつかない。
「貴方はまだ趙子龍という人間を知らないのですよ」
軍議の後、退出する趙雲の背をふと見遣っていた馬超に諸葛亮がそう声を掛けてきた。
怪訝そうな表情の馬超を気にするでもなく、諸葛亮は呟くように言った。
「今のあの人は眠れる龍なのです」
諸葛亮の不可解な言葉。
その意味するところなどこの時の馬超には想像もつかなかったし、深く考えることもしなかった。
諸葛亮のそういった謎めいた言動は常なることでもあったが故に。





ある時、趙雲が城の庭の片隅で蹲って何かをじっと見入っているのに馬超は気が付いた。
「どうされたのか?」
後ろからいきなり声を掛けられて、趙雲は驚いたように振り向いた。
無防備過ぎる―――
これが戦場だったらどうするというのか。
間違いなく首を取られている。
ますます馬超には趙雲という人物が分からなくなる。
よくこれで今まで生き残ってこれたものだ。
「馬超殿でしたか」
そんな馬超の心の内など知るはずもなく、趙雲は先程まで熱心に見ていた視線の先を指差した。
大きな岩があった。
趙雲が指差しているのはその岩と地面の隙間から這い出るようにして咲いていた小さな白い花だった。
「この花が何か?」
訳が分からなかった。
「凄いと思いませんか?
巨大な岩が上にあろうとも、それに負けじと芽を出し花を咲かそうとする。
このような小さな花でも。
生きようとする力はこうも凄いのかと、思わず見入っておりました。
草も花も獣も…そして人も、生きようとする力は本当に強いものなのですね―――
趙雲はそう言って、また視線をその小さな花へと移した。
慈しむようなそんな瞳だった。
風がその花を揺らし、花弁が一枚宙に舞った―――





―――その戦いは熾烈を極めた。
魏軍との戦い。
馬超もいた。
趙雲もまた。

そうして馬超は見た。
白馬に跨り、槍を手に戦う趙雲の姿を。
まず目を引いたのは流れるような槍捌きだった。
周りを取り囲む敵兵が、その槍の一振りで薙ぎ倒されていく。
あの細い腕のどこにそんな力があるのか。
馬超もまた敵を次々と打ち払っていく。
気付かぬ内に趙雲との距離がいつの間にか縮まっていたようだ。

ぞくりとした―――
本能的に肌が粟立った。

間近で見る趙雲のその表情。
怜悧に漆黒の瞳を細め、馬上から無慈悲に敵兵を見下ろす。
否。
敵兵ばかりではない。
自分の周り全てのものを、底冷えのするその視線で射抜く。

そこに馬超の知るあの趙雲の姿は微塵もなかった。
穏やかな笑顔と物腰。
武官らしからぬ覇気を感じない人の良さそうなあの男の姿はどこにも。

―――眠れる龍。
諸葛亮がいつだったか言ったその言葉を思い出した。
その意味がようやく分かった。
今の彼はまさに眠りから醒めた龍。
全てを喰らい尽くし、破壊しようとするかのようなその存在感。
圧倒される、神々しささえ感じさせるその姿。
それはまさに鬼神か。

趙雲の白い戦袍は既に血色に染まっていた。
それは全て返り血なのか。
また襲い来る兵を趙雲は事も無げに一閃した。
血飛沫が舞った。
端正な顔に飛んだその紅を趙雲は槍を持つ逆の手で拭った。
それを眼前にかざし、血濡れの手を見て…。
そうして―――

―――嗤った。
とても艶やかに。

心臓を鷲掴みされるような感覚。
それは決して魅入られてはならない狂気。
けれど―――
綺麗だと……馬超は思った。
今まで出会ったどんなものよりも美しかった。

庭の片隅で白い花を見つめて、生きようとする力は強いものなのだと感慨深く呟いた。
とても優しい瞳をして。
だが今はその生きようとする力を無慈悲に次々と奪い取っていく。
それを上回る圧倒的な力をもって。

生きるものを優しく見守っていた彼と生きるものを冷酷に死へと誘う彼。
どちらが本当の彼なのか。

―――知りたいと思った。

馬超は周りの敵を薙ぎ払うと、すばやく馬を趙雲の横へと進める。
そして彼の朱色の手を取ると、その甲に強く口付けた。
口腔に広がる錆びた感覚を気にもせず、そのまま歯を立てる。
彼の手にその痕跡を刻み付けるように。

それは証。
そして誓い。
これから彼の傍に在ることへの。

手を離し、顔を上げるとぶつかる漆黒の瞳。
趙雲は馬超が離したその手を、自分の唇に寄せた。
馬超の残したその痕跡に静かに口付る。
そうしてゆるりと微笑む。
それは最初出逢った頃の穏やかで優しい笑みにも見え、また先程の妖艶なまでの美しい笑みにも見えた。

趙子龍―――
その不可思議な存在に堕ちていく。
決して踏み入れてはならない禁猟区に入り込もうとしている自分。
それも面白い―――と、馬超もまた静かに微笑んだ。





written by y.tatibana 2003.04.06
 


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