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すべてを忘れてしまいたいと思った。 その記憶ごと、この心を蝕む痛みが喰らい尽くしてくれればと。 けれど忌まわしい記憶は鮮明に今も残り、己の罪を突きつけてくるのだ―――。 準備を整えた馬超が客間に向かうと、円卓の前に座っていた諸葛亮が立ち上がり、拱手する。 「お約束もなく突然お訪ねして申し訳ありません、馬超殿」 それに対して馬超はゆるりと首を振った。 「いや……お気遣い召されるな。 どうぞお座り下され」 馬超にそう促され、諸葛亮は再び腰を下ろした。 それを見届けて、馬超も彼の向かいの席へと座った。 「して、今日は何かお急ぎのご用向きが?」 諸葛亮の突然の訪問の意図が分からぬ馬超は、単刀直入に切り出す。 まさか丞相として日々多忙を極める彼が、ここに茶を飲みに来たという訳ではあるまい。 ただ諸葛亮から返って来た答えは、馬超にとっては意外なものだった。 「趙雲殿のことです」 静かに告げられた言葉に、すっと馬超の瞳が細まる。 「趙雲殿のこととは?」 内心の驚きを表には出さず、馬超は鸚鵡返しに問い返した。 それに対し諸葛亮は何を思うのか、まっすぐに馬超を見つめた。 「今日は、丞相としてここに参った訳でありません。 諸葛孔明個人として―――趙雲殿の古い友人としての立場で参りました」 と、まず最初に諸葛亮は告げた後、訪問の目的を話し始めたのだった。 「今日の修練場での出来事を張飛殿から伺ったのです。 趙雲殿が感情を露にしたのは、あの日以来だと、張飛殿は随分と驚いておられました。 それを聞いて、私は貴方にあの人が変わってしまったあの日のことを話そうと決心しました。 本当は他人の過去を、私の判断で身勝手に話すべきではないのでしょう。 趙雲殿が何より触れられたくはないと思っていることです故……現に今まで事情を知らぬ人間にそのことを話したことはありません」 淡々と語る口調とは裏腹に、諸葛亮の眼差しは真剣そのものだった。 一度言葉を切った諸葛亮は、僅かに微笑んだ。 期待と、そしてどこか寂しさを滲ませたような笑みだった。 「ですが……貴方なら―――趙雲殿を救ってくれるのではないかと思うのです。 私たちでは終に為しえなかったことを……」 「貴殿も……ご存知であったのか? 趙雲殿が変わってしまったという過去の出来事を……」 「ええ、あれは私が殿の元に召抱えられてしばらくたった頃のことでしたから」 そうして、諸葛亮は静かに過去を語り始めた。 諸葛亮が劉備の陣営に迎え入れられた頃の趙雲は、口数こそ多くはなかったが、優しい瞳をして穏やかに微笑む、とても武人とは思えぬような雰囲気を纏った人間だった。 けれどひとたび槍を握れば、卓越した力で敵を蹴散らす。 周囲からの信頼も厚く、慕われてもいた。 そんな彼の元に一人の男が現れた。 その男がどこからやって来たのか、誰も知らなかった。 ただ気が付けばいつの間にか劉備軍の中にいたのだ。 その頃の劉備はまだ確固たる基盤も持てず、荊州の劉表の元に身を寄せているような状態だった。 そんな状態であったから、軍といえども、所属する兵達は劉備の人柄を慕って集まってきた人間の寄せ集めに過ぎなかった。 その男も、そんな人間の一人だろうと、誰一人詮索することも、特別気に掛けるようなこともなかったのだ。 未だ武器も満足も扱えぬ兵とは名ばかりの人間が多く存在する中、男は実に見事に武器を扱い、戦いに慣れていることは一目で知れた。 いつか仕えるに足る人と出逢った時、力に慣れるようにと、訓練を積んでいたのだという。 そしてようやく劉備というすばらしい人物に巡り合えたのだと。 男はまた話術にも長けていて、あっという間に兵達の中心となる存在になった。 そして男は趙雲の下で、彼の片腕と認識されるまでになった。 「あの人は本当に不思議な魅力を持った人でした。 武だけでなく、知もまた素晴らしい持ち主で―――けれどそれを奢ることなく、どんな相手であっても分け隔てなく優しく接する……とても明るくて人を惹き付けずにはいられないような人だった。 趙雲殿がそんなあの人に惹かれていったのは、さほど驚くべきことではありませんでした。 あの人は趙雲殿の片腕として、常に趙雲殿の傍らにいたのですから。 最初のうちはもちろん同性であり、部下でもある相手に対して惹かれる気持ちを、趙雲殿が戸惑っているのが私には分かりました。 けれど、時を重ねていく中で、二人はその隔たりを越えて、特別な関係になったのです」 静かに語り続ける諸葛亮に対して、馬超は口を挟むことなく、耳を傾けている。 諸葛亮もまた馬超の反応を待たず、言葉を続けた。 そんなある時、劉備が襲われた。 病床の劉表を見舞った帰路でのことだった。 劉備がその日劉表を見舞うことも、その帰る道のりも、僅かな人間にしか知らされてはいなかったにも係わらず。 当時の劉備は、劉表亡き後の荊州の支配を狙う者達にはとっては邪魔な存在だった。 劉表がいたく劉備のことを気に入り、彼に荊州に関する何らかの権利を与えるのではと彼らは危惧していたのだ。 そんな劉備を亡き者にしようという動きがあることを諸葛亮は察知していた為、彼の行動は他に漏れぬよう劉備の近しい者以外には伏せられていた。 にも係わらず、それが露見していた。 幸いにも、劉備はその襲撃で怪我を負うことはなく、事なきを得た。 が、その後もより厳重に緘口令が引かれたにもかかわらず、二度三度と劉備は奇禍に見舞われたのだった。 「私は当然敵方の内応者がいることを疑いました。 そして私は偽の情報を流し、内応者が動くのを待ちました。 その策が功を奏し、ついに内応者を捕らえるに至りました。 ここまでお話すれば、貴方ももうお分かりでしょう? そうです―――内応者は趙雲殿の副将であり、彼が心を通わせたあの人だったのですよ。 あの人ならば、我々の動きを知るのことは容易かった。 趙雲殿の傍らに常に在り、そして趙雲殿と深い関係にあった彼ならば」 諸葛亮の言葉に、やはり馬超から反応らしい反応はない。 けれど驚いて茫然自失しているという訳でもないようだった。 諸葛亮を見つめる瞳は真剣そのものだったから。 捕らえられたその男は、劉備や諸葛亮達の前に引っ立てられた。 もちろんその場には趙雲もいた。 趙雲は呆然とした様子で、男を食い入るように見つめていた。 「何故……嘘だ……」 趙雲はゆるゆると頭を振りながら、未だ信じられぬように呟く。 そんな趙雲に対し、後ろ手に縛られ跪かされたいた男は趙雲を見上げ、冷たく哂った。 これまで見せていた穏やかさや優しさなど欠片もない表情で、至極愉しげに言い放った。 「馬鹿な男だ。 全部本当のことなのに」 と。 趙雲が抜いた剣は、男の首を斬り落としていた。 けれどそれだけでは終わらなかった。 返す刀で、趙雲は己の命をも絶とうとしたのだ。 それにいち早く気付いた張飛が寸でのところで趙雲の手を取り、それを阻んだ。 それでも趙雲は剣を持つ手に力を込め、もがきながら、 「死なせて下さい……どうか……」 と、うわ言の様に何度も繰り返した。 「殿を危険な目にあわせたのは、あの男の正体を見抜けなかった私の失態です。 どうか……どうか……死をもって償わせて下さい」 しかし、劉備は頑としてそれを赦しはしなかった。 「お前のせいなどではない、子龍。 死ぬことは絶対に赦さぬ」 「それでは私の気持ちが納まりませぬ!」 必死に言い募る趙雲の、剣を握った手に劉備は己の手を重ねた。 「ならば、尚更生きよ、子龍。 これからも生き抜いて、大義のために尽くして欲しい。 それが私への何よりの贖罪だ」 「趙雲殿は死ななかった。 けれどあの日―――身体ではなく、彼の心の命は絶えてしまったのかもしれません……。 以来趙雲殿は、怒ることも、悲しむことも、そして笑うことも……どんな感情も表さなくなってしまわれた。 まるで人形のように……ただ執務に打ち込み、それ以外のことには興味も示さない。 あの時の主公の言葉に応える為だけに存在しているようなものです」 諸葛亮はそこで深く息を吐き出した。 悲哀に満ちたそんな彼の様子を、馬超は初めて目にした。 「馬超殿……その趙雲殿が感情を見せた貴方ならば、あの人を救ってくれるのではと思ったのです。 絶えてしまった趙雲殿の命を、再び呼び戻してくれるのではと。 主公も私も、張飛殿も……あのことを知る者は、あえてあの日のことに触れぬよう今まで過ごしてきました。 それが優しさだと……あの人の傷をいずれは癒してくれるのだと信じていたからです。 けれどそれは誤りだった。 それに気付いた時には、あの人はもう私たちの心も手も届かぬくらいに離れてしまっていました。 結局どうすることも出来ず、現状を甘受してしまった私達は、趙雲殿を見捨ててしまったに他ならない。 ―――私の話はこれまでです」 それを最後に、諸葛亮は席を立った。 「話してくれて、感謝する」 馬超もまたようやく口を開き、謝意を伝えると、立ち上がった。 「俺は出掛けるとしよう」 どこにと、諸葛亮は訊ねはしなかった。 扉を開け、先に部屋を出て行く馬超の背を見送って、諸葛亮は静かに一度頭を下げた―――。 (続) written by y.tatibana 2011.01.30 |
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