凍花 1
遠い遥か過去の記憶は、時が経つに連れ薄れゆくけれど。
心に残る痛みは、年月を重ねても―――決して消え行くことはない。
そればかりか癒えることのなかった傷は、時が過ぎるに従い、膿み爛れ、疼き続けるのだ―――





満月が美しい夜だった。
趙雲は城での執務を夜遅く終えた後も、自邸で文机に向かい城から持ち帰った書簡に目を走らせていた。
すると、控えめに自室の扉を叩く音がし、家人から来客の意を告げられる。
それを受けて、すぐに趙雲は客をこの室へと通すように命じた。
大して親しくもない者だ。
だが、近いうちにその人物がこうして自邸にやって来るだろうと趙雲は予測していたのだ。
だから別段驚きもしなかった。

ややして家人に案内され、男が一人趙雲の自室へと入って来た。
扉の正面の文机に座っていた趙雲は、書簡を手にしたまま、静かに視線を上げる。
「このような夜更けに如何されました?馬超殿」
格別の感情も浮かんでいない、凪いだ海のような趙雲の眼差しを受け、男は―――馬超は気持ちを落ち着かせるように大きく息を吸う。
そしてやや強張った顔つきで、口を開いた。
「夜分遅くに申し訳ない。
だが貴殿にどうしても告げたいことがあって来たのだ、趙雲殿」
「何でしょう?」
訊ねる趙雲の表情も声も至って冷静だ。
深夜に突然訪ねて来た馬超を責めるでもない。

そのことに安堵を覚えつつ、少しの沈黙を経て、馬超は意を決して口を開いた。
「俺は貴殿のことが好きだ。
貴殿のことを一目見た時から、心奪われていた。
同じ男で、武将である貴殿にそんな想いを抱くことは赦されないのかもしれない。
けれどどうしても貴殿への想いを押さえ切れなくなった―――だから……」

しかし、馬超の真摯な告白を聞いても、やはり趙雲の表情には変化は見られない。
驚いて面食らっているというのではない。
酷く冷たい瞳で、馬超を見つめていた。

(ああ……やはりそうか)
自分の予測した通りだったかと、趙雲は心のうちで何の感慨もなく呟く。
馬超の熱を帯びた視線がいつもこちらを追っていることには気付いていた。
あれで隠しているつもりなのだとしたら、お笑い草だ。
けれど―――

「だからわざわざこんな時間にそのようなことをお伝えに参られたのですか?
ご苦労なことです」
まるで嘲るような口調で趙雲は躊躇いもなく言い放つ。
「なっ……!?」
それを敏感に気取り、馬超は驚きと怒りに言葉を失う。
思わず握り締めた拳が、わなわなと震えている。

そんな馬超を前に、趙雲は溜息を一つ吐くと、書簡を置き、立ち上がる。
睨み据えてくる馬超を、涼しげに見返し、趙雲は束ねていた髪を解きつつ、牀台の方へと歩み寄る。
そうして自らの帯に手を掛けると、するするとそれを解き、上衣を肩から落とした。
何の躊躇いもなく薄衣一枚を纏っただけの姿になってしまう。

「趙雲殿……一体……何を?」
突然の予想もしていなかった趙雲の行動に、馬超は怒りも忘れ、呆然とした様子で問う。
「何を……とは、可笑しなことを仰いますね、馬超殿。
―――貴方は私の事が好きだと仰られたではありませんか。
つまりは私を抱きたいのでしょう?」
趙雲の声はその台詞に似つかわしくなく淡々としていて、どんな感情もそこからは読み取れない。
「まだ目を通さねばならない書簡が残ってます故、早く済ませてしまって下さい。
終わったら、早々にお引取りを」

そう言葉を掛けられても、馬超はまだ状況が理解できず、それでも反射的に首を振った。
「違う……俺は……」
上手く声の出ない馬超を遮って、趙雲は初めて笑った。
しかしそれは嘲笑という類のものだ。
「違わないでしょう?
好きだなどと、どんな綺麗な言葉を並び立てたところで、結局行き着くところはそこでしょうに。
己の情欲を満たしたいから、下らぬ言葉を囁いて、相手に取り入ろうとする。
何も恥じ入ることはありません。
貴方だけに限らず、人とはそういう生き物ですから。
さぁ、こちらへどうぞ。
それとも衣を身に着けたままでしますか?
ああ……その方が手間が省けて良いかもしれませんね」
平然と言い放つ趙雲を、馬超は呆然と見つめる。

何故だか頭が痛み、眩暈がした。
何とも表現のし難い、仄暗く重い不快な感情が、胸のうちから競り上がってくる。
「俺を……愚弄しているのか?」
低く訊ねれば、趙雲はさも心外だというように肩を竦めた。
「名高き錦馬超殿を愚弄するなど、とんでもありません。
私は本心を包み隠さず申し上げたまでです。
さぁ、するのですか?しないのですか?
まだ執務が残っていると申し上げたでしょう?
早く決めて頂きたいのですが」

―――貴殿はそのように誰とでも簡単に肌を合わされるのか?」
馬超の声は、怒りのせいか、混乱か、微かに震えていた。
大抵誰もが同じ反応を示す。
趙雲のこの態度に。
「ええ、そうですよ。
こんなことは私にとって取るに足らないことですから。
孕む訳でもありませんし、別段何を気にする必要もないでしょう?」
趙雲は躊躇することなく、そう返答する。

「……」
趙雲を凝視したまま黙り込んでしまった馬超に、趙雲は「ああ……」と合点のいった様子で頷く。
「貴方も私のことを、清廉潔癖で忠義に篤い長坂の英雄だとでも思ってたのでしょう?
―――残念ですが、私はそのように出来た人間ではありません。
私にも人並みに性欲はあるのですよ……ですから別に嫌々肌を重ねる訳ではありません。
貴方がそのことを気にしていらっしゃるのなら、それはとんだ見当違いですよ。
お互い欲を吐き出すために楽しめば良いではありませんか」

それで動こうとも話そうともしない馬超に業を煮やしたのか、趙雲は再度大仰に溜息を吐く。
そのまま解いた髪を、髪紐でまた一つに纏めてしまう。
「私に失望なさったのなら、一向にかまいません。
それならば、どうぞお引取り下さい」
どこまでも趙雲は素っ気無い。
怒るでも喜ぶでもなく、ただ無表情のままだ。

馬超はそれでもまだ行動を起こせずにいた。
趙雲に対して、肌を重ねたい―――抱きたいと思ったことなどないと言えば、それは嘘になる。
趙雲のことを好きだとはっきりと認識してからは、もちろんそういった欲も覚えた。
けれど欲しかったのは、身体だけでは断じてない。
何より趙雲の心が欲しかった。
彼にとって特別な人間になりたかった。
そして身体ではなく、何より欲しいものがあったのだ。
だがそれを今口にしたところで、明らかに叶えられるものではないだろう。

「貴殿は……想いを寄せてくる誰に対しても今までずっとこんな風に身体だけの付き合いを続けてきたのか?
これまで一度も、心を通わせ合ったことはないのか?」
ようやく口を開き、馬超は荒ぶる感情を押さえつけ、静かにそう問い掛ける。

その時、ほんの一瞬だけ―――趙雲の瞳に濃い翳りが落ちた。

そう馬超には感じた。
気のせいかと思うほどすぐに、それは消えてしまったけれど。

趙雲は馬超の問い掛けに、ゆるりと頭を振る。
「恋だとか、愛だとか……そんな下らないもので誰かに心を縛られることも、誰かの心を縛ることも、私は御免です」
なんぴとも心から受け入れるつもりはないという趙雲の強い拒絶を感じる。
それを受けて、馬超は再び口を噤むしかなった―――





趙雲の邸を辞し、自らの私邸に戻った馬超は、自室で腕を組み窓辺に立つ。
先程の趙雲とのやり取りを思い返し、居た堪れない気持ちで。
確かにまだ蜀に降って間もない自分は、趙雲と特に親しかった訳でもない。
あの長坂の英雄という趙子龍という人物に、ある種の理想を抱いていたことも否めない。
その彼にあれほど虚仮にされ、強い拒絶を受けたのだ。
本当ならもう二度と今後趙雲に近付こうなどとは思わなかっただろう。
―――心を通わせたことはなかったのか?
そう聞いたときに、趙雲の瞳に過ぎったほんの一瞬の翳りに気付かなければ。

本当に気のせいだったのかもしれない。
けれど馬超には、それを見たのだという確信があった。
あれだけが、感情を露にしなかった趙雲の唯一の異なった反応だった。
それが酷く気に掛かったのだ。

おそらく趙雲の過去に何かあったのだ。
人の心を受け入れることが出来なくなった何かが。
それが何であるかなど、今の馬超には見当もつかなかった。
だがそれを知ることが、遥か彼方にある趙雲の心に近付く為の鍵であると、馬超は確信していた―――




(続)





written by y.tatibana 2009.08.27
 


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