※「君ヲ想フ」の番外編です。

音にならない
コトノハ
<後編>
任地に赴いてからは、忙しい毎日だった。
砦の建設や、新しい兵達の調練、内務の決裁――やるべきことは山積している。

孟起からは頻繁に書簡が届いたし、私もまた執務の合間を縫って彼へと近況を知らせていた。
会うことは出来ずとも、彼とそうやって繋がっていることが嬉しかった。
けれど―――
もうそれすらも終わらせるべきだと私は考え始めていた。
彼が私へ向けてくれる想いに一区切りを付け、前へ進んで貰う為に。

私は目の前に置いた書簡を見つめていた。
そこには未だ何も書かれていない。
筆を手にしたまま私は動けずにいた。

偽りをしたためることへの罪悪感。
それを書くことによって、私もまた彼への想い断ち切らねばならない寂しさ。

綯い交ぜになった感情が私の行動を押し止める。
だが、後悔はせぬと決めた筈だ。
私は大きく息を吸い込み、目を閉じる。
そうして、気持ちを落ち着かせると、ようやく筆を走らせた。

―――妻を娶ったよ、孟起。

と。





孟起からは私の婚姻を祝う書簡と、自らの手で揃えたのだという品が届いた。
どんな気持ちで、彼は書簡を書き、そうして祝いの品を贈ってくれたのか。
それを考えるだけで、胸が痛んだ。
立場を入れ替えてみればよく分かることだ。
もう何度も胸の内で繰り返した謝罪を、また重ねる。

その後は、孟起へ書簡を出す回数を意図的に減らしていった。
彼はそれを私が婚姻し、こちらでの生活に忙しいからだと考えているだろう。
それでいい。
そして彼にも新しい生活を送って貰いたかった。

本当は、以前と変わらず私は孟起に宛てて書簡をしたためていた。
ただそれを出すことは当然ながらしない。
そうして今日もまた届くことのない書簡を棚へと仕舞う。

私が妻を娶ったと偽りの報告をしてから、間もなくして、孟起からも婚姻したとの知らせがあった。
子も生まれるのだと書き添えてあった。

孟起が新たに家族を得ること―――これこそ私が望んでいた結果だ。
その為に私は本心を隠し、友人という仮面を被り続けた。
とても嬉しかった。
彼が選んだ伴侶ならば、さぞ素晴らしい人なのだろう。
きっと孟起に幸せと温もりを齎してくれる。
彼の過去の傷を癒してくれるだろう。

けれど……。
胸に去来する感情はそれだけではなかった。
醜くも、湧き上がる嫉妬がある。
出来ることならば、私がずっと孟起の傍にあり、彼の一番でありたかったと。
自分の中にこれほどまでに女々しい想いがあるとは思ってもみなかった。

孟起も私が婚姻したと知らせた時、こんな気持ちを抱いてくれたのだろうか。
それでも彼は私を祝ってくれた。
私もまた乗り越えていかなければならいのだ。
だから、彼がしてくれたように、私も祝いの書簡と品を送った。

―――どうか幸せに、孟起。

そう願いを込めて。





この北の任地に赴いて、もう直に十年を迎える。
それは孟起と会うことなく過ぎていった時間。
どれだけ月日を重ねても、私の中から彼が消えることはなかった。

けれど、離れて過ごす日々は、私に気持ちの区切りを付ける為の時間を与えてくれた。
孟起が婚姻したと知った時、それが一番の望みだったにも関わらず、感じた嫉妬。
時と共にそれは薄れていた。
好きだと思う気持ちに変わりはない。
今でも彼を愛している。
だがそれは、激しく求めるような感情ではなく、今は至極穏やかに彼のことを想う自分がいた。

そんな変化を私に齎してくれたのは、時間だけではないだろう。
私にも家族という存在が出来たからだ。
結局私が妻を娶ることはなかった。
だが、かけがえのない二人の子を得ることが出来たのだ。
血の繋がりはない―――けれど、それに勝るとも劣らない絆が私達の間にあると私は信じている。

「父上、これはどうすれば良いのですか?」
大振りの包みを抱えた少年がひょっこりと私の部屋に姿を見せる。
私の養子となった一人―――趙統だった。
「それはこちらに残しておくよ、統。
物置へと仕舞っておいてくれないか?」
「はい、分かりました」
統は頷いて、荷物を抱えたまま出て行く。

「兄上、待ってー!」
その後を、幾つかの陶器が乗せられた盆を持った小さな子供がたどたどしい足取りで追う。
その子がもう一人の養子である趙広だ。
「転ばぬように気をつけろよ、広」
私は開け放たれた扉から見える広の後ろ姿に、声を掛ける。
「はーい!」
元気良く返事を寄越し、広は統の後に続く。
それを微笑ましく見遣った後、私は再び戸棚の整理に掛かる。

あと僅かで、この地を去ることになっていた。
丞相から成都へ戻ってくるようにとの命が届いたからだ。
魏の動きは落ち着いているし、今のうちに南を平定してしまいたいとのことだった。
だから今、私も子供達もその準備に追われているのだ。

子供達のはしゃぐ声が遠くから聞こえてくる。
話にしか聞いたことのない、蜀の中心である都がどんな所か余程楽しみなのだろう。





子供達と巡り会ったのは、もう四、五年も前になるだろうか。
最初は統だった。

近隣の村を荒らしまわる盗賊達の根城の場所を掴み、私は手勢を引き連れて討伐に向かった。
それ程大規模な人数でもなく、訓練をされていた節もない、ただの荒くれ者の寄せ集めのような賊だった。
制圧は簡単に終わった。
その中に、足に重石をつけられたまだ幼い子供がいた。
薄汚れた襤褸を纏い、酷くやせ細ったその子は、根城の一室で震えていた。

私が剣を手にその子の前に立った時、その子供は怯えた目で私を見て、「殺さないで」と繰り返した。
こんな年端のゆかぬ子供が賊の仲間という訳ではないだろう。
賊のうちの誰かの子かと考えた。
だがその格好から決して良い待遇を受けてはいないことは、明白だった。
とすれば考えられるのは奴隷ということか。
寒村では子供が生まれても育てていくだけの余裕がないことは多々ある。
そんな親達は貧困を凌ぐ為に、子供を奴隷商人に売るのだ。

両親はと訊ねれば、その子は首を振る。
やはり思った通りか。
私に殺されると思っているのか、子供はただ怯え、震えている。

親に捨てられ、こんな小さな内から奴隷として碌な食事も与えられず労働させられ―――挙句に殺されるとしたら、一体この子が生を受けた理由はなんだったというのか。
何の楽しみも喜びも、そして家族の温もりも知らないのに。
私自身の遠い記憶が甦る。
両親に捨てられたわけではなかったけれど、早くに亡くなってしまったから、肉親の情には恵まれなかった。
そんな私の姿とこの子の姿が重なった。
「名は?」
私が問えば、子供は再び首を振る。
「名が……ないのか?」
頷く子供に、私は愕然とした。
名前すらも与えられてはいないとは―――

私は持っていた剣で、重石の突いた子供の足かせを断ち切る。
鞘に剣を収めると、私は屈み込み腕を広げた。
「おいで」
その子は私の意図するところが分からなかったのだろう。
怯えた視線を私へと向けたまま、動かない。
「大丈夫、怖いことは何もない。
私と共に行こう。
これからは私がお前を守ってあげるから」
優しく告げ、にっこりと私が微笑めば、その子は半信半疑という様子ではあったが、私へと近づいてきた。
私はその体を包み込むように抱き締めた。

それが統との出会いだった。
その後しばらくして、今度は広が私の家族になった。

突然振り出した豪雨の中、使いを頼んで出掛けていた統が何かを抱いて帰ってきたのだ。
それは赤子だった。
統の腕の中で、濡れそぼったその赤子は弱々しく泣いていた。
どうしたのかと統に尋ねれば、使いの帰り道に通った森の中から泣き声が聞こえてきたのだと言う。
声の方へと向かってみると、この子が泣いていたのだと。
周りを探してみたが、親らしき人の姿は見えなかったらしい。

その話からこの赤子が捨て子であろうことは察しがつく。
粗末な布一枚に包まれているだけの赤子は、酷くやせ細っていた。
統と同様に、口減らしの為に捨てられたのだ。
それもまた珍しいことではなかった。

念のためにと赤子を保護しているとの触れを可能な限りの村に出したが、親だと名乗り出る者はいなかった。
私はその子を引き取ることに決めた。
それが広だ。

そして私達は家族となった。
けれど、私達は最初から上手くいっていた訳ではない。
今の状態になるまでには、様々なことがあった。
統はなかなか心を開いてはくれなかったし、広は身体が弱く何度も生死の境を彷徨った。
私も執務に忙しく、そんな子供達に接する時間を取れないこともままあったし、そんな子供達にどう接すれば良いのか悩むことも当然あった。
私達の関係は、少しの力で切れてしまう一本の細い糸のようなものだった。

しかし時と共に、それは太く堅牢な柱のようになった。
私達はぶつかり合いながらも、少しずつ信頼関係を築いてきたのだ。
如何な攻撃でも、最早私達の絆は崩せはしないと信じている。





「成都に戻れば、父上が想いを寄せておられる女性にはお会いできますか?」
成都に帰還することが決まり、子供達にそれを告げた時、統が真っ先にそう訊ねてきた。
私は思わず苦笑う。

以前一度だけ、統に話したことがあったのだ。
ずっと想い続けている人がいると。
けれどその人とは決して結ばれることはないのだとも。
それ以来、統は随分と私が話した相手のことが気になっているようだ。
子供ながらの純粋な好奇心なのだろう。
私の顔を純粋な瞳で見つめる統に、私は僅かに首を振ってみせる。
「そうなのですか……」
統はとても残念そうにそう呟く。

嘘ではない。
私が想いを寄せているのは女性ではないのだから。
男である私が好きなのは、当然ながら女であると統は思っているのだろうが。

こればかりは誰にも真実を告げるつもりはない。
私が最期の時まで自身の胸に仕舞っておくと決めたのだから―――





成都に戻り、私は孟起と久方ぶりに再会した。
実際に孟起と会ってしまえば、昔のように激しく恋焦がれる気持ちが甦ってくるのではと懸念していたが、それは余計な心配だった。
私の中にあるのはやはりとても穏やかな感情だった。
懐かしさと愛しさは込上げてきたけれど、彼の傍でずっと共に在りたいと思った昔のような想いはない。
彼の奥方と会った時も、嫉妬心が芽生えてくることは全くなかった。
とても聡明で優しそうな女人で、流石は孟起の選んだ人だと感心したものだ。

そして、何よりも私が嬉しかったのは、孟起の笑顔だった。
柔らかな笑みを浮かべる孟起は、本当に幸せそうで、家族の存在が彼にとって如何に大切なものかを知る事が出来た。
孟起の瞳にも、果たして私は同じように映っただろうか。

ある日、子供達が遅くになっても邸に戻って来なかった。
必ず守ってあげると誓ったのに、もしあの二人に何かあったら私はどうすれば良いのか。
混乱し、平常心を失った私を孟起は支えてくれた。
私を叱咤しながら、懸命にその行方を捜しくれた。
そして二人を私の元へと無事連れ帰ってくれたのだった。

抱き締め合う私達を孟起は静かに見つめていた。
早く戻って休めと勧めてくれる孟起に礼を述べ、子供達と共に邸への道を歩き出した私の背に孟起は尋ねた。
「子龍、今幸せか?」
と。

私は―――笑った。
それは作ろうと意図したものでは決してなかった。
ごく自然に私の内から溢れてきたものが、形となったのだ。

孟起と出逢えて。
本心を伝え合うことはなかったけれど、愛し愛されて。
そして統と広と家族になれて。
だから―――私は迷うことなく、こう答えを返した。

「幸せだよ」

と。



(完)





written by y.tatibana 2007.08.03
 


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