※最初に「君ヲ想フ 0(注)」をお読み下さい。

君ヲ想フ 7
趙雲に妻はいなかった。
その事実に、馬超はただただ呆然とするしかない。
そして同時に当然の疑問が駆け巡る。

何故―――と。
趙雲が自分に嘘を吐いていた理由は一体何であるのか。
確かに彼には人をからかって、その驚く様を楽しむような子供じみた所がある。
だがこれも彼の冗談の一環だというのなら、性質が悪すぎる。
そんな軽い気持ちで、自分を謀っていたのなら、いくら趙雲といえども許せはしない。

「馬……将軍?」
立ち止まったまま、急に険しい表情になった馬超を、趙統は怯えたように見上げている。
馬超ははっとして、その表情を和らげると、すまないと趙統に対して詫びる。
子供には罪などないのだから。

「あ……あの、父上が一度も婚姻なされていないこと……言ってはならなかったのでしょうか……?」
だが趙統は身を堅くしたまま、馬超を見ている。
馬超の態度から、自分が先程話したことが原因なのだと察しているのだろう。
聡い子だ。
馬超は趙統を安心させるように微笑み、首を振る。
「お前は俺の問いに正直に答えてくれただけだ。
気にすることなど何もない。
少し驚いただけだ……子龍は妻帯しているとばかり思っていたのでな」

馬超の笑顔を見て、ようやく趙統も安心したようにほっと胸を撫で下ろす。
「私も……父上ほどの方が何故婚姻なさらないのか不思議に思っていました。
けれどある時、父上がその理由を私に話して下さったことがあります」





その日の夜、趙統は真夜中に目を覚ましてしまった。
月は雲に隠れてるようで、周囲はただ闇に包まれている。
自分がたった一人だけ、闇の中に放り出されてしまったようで、趙統は怖くなってしまった。
寝台から抜け出し、手探りで部屋の外へと出る。

長く続く廊下はしんと静まり返っていて、幼い趙統の不安を更に掻き立てるのだ。
もしかして、ここには誰もいないのではないだろうか。
自分はまた捨てられてしまったのではないだろうかと。

だが一つだけ扉からぼんやりと明かりの漏れている部屋があった。
引き寄せられるように趙統はそちらへと向かう。
そこは養父である趙雲の部屋だった。
いつもならきちんと扉を叩くなり、声を掛けるなりするのだが、この時の趙統にそんな心の余裕はなかった。
そのままそっと扉を開ける。

控えめに灯火の点けられた部屋の中―――
文机の前に趙雲は座り、目の前に置いた書簡をじっと見つめていた。
こんな時間まで仕事をされているのだろうかと、趙統は小首を傾げる。
しかし、その書簡に視線を落とす趙雲の瞳はどこか切なくて、そして愛おしむようものだった。

「統、どうした?
このような時間に」
すぐに趙統の気配に気付いた趙雲が、書簡から視線を上げ、扉の方へとそれを移す。
「あっ……勝手に入ってしまって……ごめんなさい……。
その……目が覚めてしまって……」
人が居たことに安堵すると同時に、羞恥心が襲って来て、趙統はもごもごと口ごもる。
そんな趙統を咎めるでもなく、趙雲は手招きする。
彼の不安な気持ちを感じ取っているかのようだ。

傍に来た趙統を膝の上に乗せ、趙雲は彼の頭を撫でた。
「何も怖いことなどないよ、統。
お前達のことは私が守ってあげるから」
その優しい口調に趙統は安心したようにほっと息を漏らす。

「父上は、何をなさっていたのですか?
お仕事でしょうか?」
そうとは違う雰囲気を趙統は感じていたのだが、それが何か分からなかったので素直にそう訊ねてみる。
するとやはり趙雲は首を振った。
「違うよ……ある人から届けられた書簡を読んでいたのだ。
今はあまりやり取りすることもなくなってしまったのだが……」
趙統の前の机の上には、先程まで趙雲が目を落としていた書簡が広げられていた。
まだあまり字は読めなかったし、人の書簡を勝手に見てはいけないと、趙統はそれを注視することはなかった。

「父上はその方のことがお好きなのですか?」
趙雲が書簡を見つめていたその様子から、それがただの書簡ではないと感じたのだ。
いきなり予期もせぬことを聞かれた様子で、趙雲は軽く目を瞠った。
しばし逡巡した後、趙雲は答える。
「そうだな……お前に隠し事はしたくないし、正直に話そうか……。
好きだったよ―――いや、正確には今でも好きだ」

趙統は身体を捻り、趙雲を仰ぐ。
「ならば、婚姻なされれば宜しいではありませんか。
父上ならばきっと相手の方も喜んで下さいます!」
強い口調で言われ、趙雲は面食らったのか目を瞬く。
やがてくすりと苦笑を漏らすのだった。
「どこで婚姻だとか、そういう言葉を覚えたのだ?
しかも私を買いかぶり過ぎているぞ、統」

養父に気を使ってとか、おべんちゃらのつもりで趙統はそう言ったのではなかった。
本心から思っていることを口にしただけだ。
本当の親に捨てられた自分や趙広に、深い愛情を持って接してくれている父に、幸せになって欲しいと思ったのだ。
父は温もりと幸せを自分達に与えてくれた。
今度は父自身がそうなって欲しかったのだ。

「私は、今を不幸と思っている訳ではない。
お前達がいて、私は本当に幸せだよ―――嘘じゃない」
趙統の心のうちを見透かしたのだろうか。
趙雲は諭すように言う。
「それに私がいくらその人を想っていても、決して結ばれることはないのだ。
私達の間にはどうしも越えられない壁があるんだよ……」
何故だかそれ以上その理由を聞くことは憚れた。

「その方は父上の気持ちを知っておられたのでしょうか?」
違うことを聞いてみる。
すると趙雲は困ったような表情になり、溜息を漏らす。
「……知らなかったと思う―――私は必死で隠していたから。
その人が私に寄せてくれている特別な想いに本当は気付いていたのだけど、それに気付かぬ振りをして、自分の気持ちにも蓋をした。
けれどたった一度だけ、その関係を越えてしまったことがある。
卑怯にも酒に酔った振りをしてな……その人には酒の上での戯れだったのだと言ったのだが―――本当はどれだけ嬉しかったことか」
そこではたと、流石にこれは子供に聞かせる話ではないなと趙雲は首を振る。

「その人は私と知り合う前に、殆どの肉親を失っていた。
私はその人にもう一度家族というものを持って、幸せを感じてもらいたかったのだ。
だからこの地へ発つその最後の日まで、私はその人の想いに気付かない振りをし続けた。
それで良かったのだと、今も私は思っているよ。
私も家族を得ることが出来たし、その人もまた婚姻し、子も出来たようだ。
もう会うことはないのかもしれないが、例え会えたとしても、私はこの気持ちをその人に伝える気はこの先もない……」
過去を思い出しているのだろうか。
趙雲は目を細めて、再度机の書簡へと視線を投げかける。
そこからは今でも相手に寄せる趙雲の真摯な想いが、趙統にも伝わってくるようだった。

この父にそこまで想われる人はどんな人なのだろう?
趙統は思い浮かんだままを質問する。
それに対し趙雲からは、
「金の髪が美しい人だったよ」
と、短く答えが返されるに留まった。





馬超は趙統から齎されるその話を、まんじりともせずに聞いていた。
「馬将軍に初めてお会いした時に、将軍の髪の色を見て驚きました。
それまで父上のいうような金の髪の人を見たことがなかったので……。
父上が想いを寄せている女性も、馬将軍のような髪なのだろうなと思って、ついつい見つめてしまいました」
そう無邪気に趙統は照れたように笑う。
あの日、馬超を驚いて見上げていたのはそのせいだったのだ。

趙統は、当然趙雲の想い人は女性だと思っているようだ。
だが―――馬超にはそれが誰であるのか……自惚れではなく分かる。
趙雲が話していたそんな境遇の人物が、そうそう居るとは思えない。

「馬将軍は父上の想い人をご存知ですか?」
「いや……」
聞かれても、それを正直に答えることは出来ない。
今話している相手こそがそうなのだと伝えることなど……。
そうですかと残念そうに趙統は俯く。
敬愛する父の想い人がどのような人物であるのか、純粋に知りたいのだろう。

再び馬超達は歩き始めた。
しかし馬超の頭の中は、今しがた趙統が話してくれたことがぐるぐると駆け巡っていた。

彼もまた自分のことを想っていてくれたのだ。
一度身体を重ねた時も、本当は酔ってなどいなかった。
そして自分が彼のことを親友以上に想っていることにも、気付いていた。
けれどそれらを全て悟られぬように、友人の仮面を被り続けていたのだ。

それは幸せを願ってくれていたから―――
馬超が家族を持ち、以前のような温もりに包まれることを何よりも望んでくれていたのだ。
そして馬一族の再興をと。
自分がどれだけ馬超を想っていようとも、そして馬超から想いを寄せられていても、自分では子を為すことは出来ない。
だからどうしても越えられぬ壁があるのだと、趙統に話したのだろう。

婚姻したのだという偽りの書簡を送ったのは、馬超を驚かせようという性質の悪い冗談などではなかった。
自分への想いを断ち切らせ、妻を娶り、子を為して、馬超に再び家族を持って欲しかったのだろう。
自分は婚姻して幸せで暮らしているから、馬超も前に進んで欲しいのだと。

一方的だ、勝手だと責めることもできよう。
だが馬超の中にそんな感情は生まれてはこなかった。
それこそが趙雲が馬超へ寄せてくれた想いの形だったのだから。

現に今、自分は幸せだ。
妻は逝ってしまったけれど、齎してくれた数々の温もりがある。
子供達から沢山の喜びを貰った。
家族の存在があったから、戦場でも絶対に死ぬことは出来ないと思えるのだ。

溢れてくる涙を、馬超は懸命に堪えた。
趙統に不審がられてしまう。
だから、心の中で馬超は見えない涙を流すのだ―――趙雲への感謝と共に。





「統!広!」
馬超達の姿を認めた趙雲が、道の向こうから走ってくる。
その声に、馬超の背で眠っていた趙広も目を覚ます。
「父上!」
趙統が趙雲へ向かって駆け出し、背から降ろされた趙広もそれに続く。

趙雲は屈み込むと、駆け寄ってくる二人の子供をしっかりと抱き締めた。
「良かった……無事で……本当に」
泣いているのだろうか。
趙雲の声は震えていた。
「ごめ……なさい……」
二人の子は、父の胸に抱き締められた安心感からか、再びわんわんと泣きじゃくる。

その姿を見て、馬超は本当に良かったと思うと同時に、ようやく思い至ったのだ。
以前とはどこか違う趙雲への想いの正体に。

昔は趙雲を抱きたいと思った。
自分だけのものにしてしまいたいという激しい感情が、馬超の心を支配していた。
けれど、今は違うのだ。
趙雲のことが特別で、大切だという気持ちは変わらない。
彼に対し、どんな感情を抱いているのだと問われれば、「愛している」と今でもはっきり答えることができる。
だが、身体を重ねたいとか、想いを受け入れて欲しいとは今や思わなくなっていた。

彼がただ幸せでさえあれば良いと。
趙雲から婚姻したと知らせを受けた時、無理に思おうとしたことが、今はごく自然にそう願える。
至極穏やかな気持ちだった。

自分と同じように彼もまた家族というものを持った。
趙雲と子供達に血の繋がりはない。
だが、紛れもなく彼らは一つの家族なのだ。
とても強い絆で結ばれた―――それは彼らの姿を見ていれば分かる。

趙雲が子供たちに向ける優しい笑顔。
そして子供たちがいなくなった時の、彼の取り乱しようは、実の親の姿と何ら変わるものではなかった。
それ程趙雲にとっては、大切な存在なのだ。
子供たちが趙雲を見つめるその眼差しも、全幅の信頼と敬愛が込められている。

趙雲が、その家族と共に幸せに満ちた笑顔を見せてくれれば、それ以上望むことはない。
彼がこの先もずっとそうしていられるように、守っていきたい。
一人で抱えきれないことがあれば今回のように、頼ってきて欲しい。

それが馬超の辿り着いた答えだった。
趙統から聞いた話を告げるつもりもない。
彼が馬超の幸せを願ってそれを話さなかったように、馬超もまた胸に秘しておこうと決めたのだ。

「孟起……すまない、迷惑を掛けたな」
趙雲は立ち上がると、馬超へ向けて深々と頭を下げる。
「気にすることはない。
お前も子供達も疲れているだろうから、早く邸に戻って休め」
馬超の気遣いに趙雲は、再度感謝の意を述べる。

子供達の手を引き、邸への道を歩き始めた趙雲に、馬超はふと思い立ち声を掛けた。
「子龍」
その声に、趙雲が振り返る。
振り向いた彼に向かって、馬超は問い掛けた。
「子龍、今幸せか?」
と。

すると迷うことなく趙雲は笑った。
「幸せだよ」
それは今まで馬超が見た中で、一番の彼の笑顔だった―――



(完)





written by y.tatibana 2007.05.18
 


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