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目の前に立つ彼の笑顔は、あの時から全く変わってはいなかった。 馬超は言葉を失い、ただ立ち尽くしていた。 何故、彼がここにいるのかと疑問だけがぐるぐると頭を駆け巡る。 懐かしさに目を細める彼の―――趙雲の両隣には子供が二人いた。 右手には馬超の息子馬承と同じ年齢程の少年が、左手には趙雲の膝に縋るようにぴったりと彼に寄り添う格好のまだ幼ない子が立っていた。 二人は馬超の顔を、驚いたようなぽかんとした表情でもって見上げている。 こうして趙雲が連れているということは、恐らくこの二人は彼の……。 馬超の視線に気付いたのか、趙雲はその二人へと優しく声を掛ける。 「統、広……ご挨拶は?」 そう促されて、はっとしたように少年の方が馬超へ向け巧手する。 「お初にお目に掛かります、馬将軍。 趙雲が長子、趙統と申します」 まだまだあどけなさの残る顔立ちであるが、しっかりとした口調でもって少年はそう名乗る。 やはり趙雲の子であったかと、馬超は少年に改めて目をやる。 彼の子というだけあって、流石利発そうだ。 ただ面差しはあまり趙雲には似ていなかった。 母似なのだろう。 もう一人の幼子の方は、趙雲の衣をぎゅっと握り締めたまま、もじもじと小さな声で、 「趙広です……」 と名を告げると、さっと趙雲の後ろへと身を隠してしまった。 それを見て、趙雲は苦笑する。 「すまんな、孟起。 どうにもこの子は人見知りが激しくてな」 まだまだ幼いのだ無理もない。 馬超の子達もあれくらいの年には似たようなものだった。 「さっきから黙んまりを決め込んでいるが、どうした?孟起。 まさか私の顔を忘れてしまったのか? 薄情な奴だな」 未だ一言も口を利こうとしない馬超に、趙雲は肩を竦めてみせる。 忘れる筈などない。 忘れてしまえればどれだけ良いかと思ったこともあった。 だが絶対にそうすることは出来なかったのだ。 「……元気そうだな、子龍」 ようやく馬超は口を開く。 驚愕を心に押し込め、口の端を上げて笑みを浮かべるのだった。 客間から続く庭先に、楽しそうな声が上がっている。 開け放たれた扉の向こうで、子供達が駆け回って遊んでいた。 最初は緊張からだろう大人しかった趙雲の子供達も、紹介された馬超の息子や娘とはすぐに打ち解けたようで、皆で庭で戯れている。 客間の椅子に座った趙雲は、そんな子供達の姿を眩しそうに見つめていた。 穏やかで優しいその眼差しは、まさしく子を想う父のそれだった。 彼は良い父親であるのだろう。 「急に訪ねてくるものだから、驚いたぞ。 北で何かあったのか?」 もてなしの用意を家令に言い付け、客間に入ってきた馬超は、子供達を見つめる趙雲の向かいに腰を下ろす。 ようやく平常心が戻り、まず浮かんだ疑問を口にする。 北の情勢は落ち着いていた筈だ。 魏は当初の予想通り呉に兵を進め、その戦いが長引いている。 にも関わらず差し迫った状況になっているのだろうか。 「いや、その逆だ」 庭へ向けていた視線を馬超へと移し、趙雲は馬超の懸念を一蹴する。 「逆?」 「あぁ、北は砦も完成したし、最近は魏の目立った動きもない。 だからこそ丞相に呼び戻されたのだ。 今のうちに南を平定しておこうとのお考えのようでな」 そういうことかと馬超は納得する。 南への進軍を諸葛亮が常々考えていたことは馬超も聞き及んでいた。 「戻って来るなら来るで、何故連絡の一つも寄越さんのだ?」 突然遥か遠くの地にいるはずの人間の訪問を受ければ、驚くことは当然であろう。 まして馬超にとって趙雲は特別な人間なのだ。 思わず非難めいた言葉が口を突く。 「すまん……私も命を受けたのが突然でこちらに戻る準備も忙しくてな。 ―――というのは建前で、本当はお前を驚かせてやりたかったんだ」 と、悪いと思っているのかいないのか分からぬような口調で、趙雲は答えを返す。 こういう悪戯めいたことを好むところも変わっていない。 「相変わらずだな、お前は。 ……で、奥方はどうした? お前が婚姻したと聞いた時は酷く驚いたぞ」 あの時の衝撃と落胆は今でも鮮明に覚えている。 その趙雲が見初めた女がどんな人間であるのか、ずっと気になっていたのだ。 すると趙雲はふっと目を伏せる。 「妻は亡くなったよ―――病で、数年前に」 馬超は思わず息を呑む。 まさか亡くなっているとは思ってもみなかった。 そんな大事なことすらも趙雲は知らせてはくれていなかった。 趙雲にとって自分は親友でさえなく、知人程度の存在なのだろうか。 「お前にだけは心配を掛けたくなかったんだ……すまなかった」 趙雲は馬超の心の内を読んだかのように、頭を下げる。 今度は先程とは違い趙雲の姿は、真摯だった。 はっとして馬超は慌てて首を振る。 「いや、俺の方こそすまぬ。 その……お前の奥方が亡くなったとは知らずに無神経なことを……」 何を子供のような我儘さで、落ち込んでいるのかと自身を叱咤する。 誰よりも辛いのは趙雲であろうに。 すると趙雲は伏せていた目を上げ、再び庭先へと移す。 「気遣いは無用だ、孟起。 私にはあの子達がいてくれるから―――平気だ」 慈愛に満ちた瞳で子供達を見つめる趙雲の横顔に、彼がその言葉通り子供達をとても愛していることを読み取れる。 彼も今や立派な父親なのだ。 昔は見ることのなかったその表情が、離れていた年月を如実に物語っている。 彼の存在が遠くなってしまったような気になり、馬超は微かに眉を寄せる。 これもまた聞き分けのない子供のようだと思いながらも。 と、扉を叩く音がし、茶の道具を載せた盆を持った女が入ってきた。 馬超はその姿を認めて、目を見開いた。 「お……おい、お前……」 だが馬超が全てを言い終えるより前に、女はそっと口元に人差し指を充てそれを制する。 手際良く、馬超と趙雲が挟む円卓の上に茶の用意を整える。 「お気遣い感謝致す。 貴方はもしや孟起の……?」 礼を述べる趙雲に、女はにっこりと微笑んだ。 「はい、馬孟起の妻にございます。 あの武の誉れ高き趙雲様とこうしてお会いできて光栄です。 どうぞごゆるりとお寛ぎ下さいませ」 深々と頭を下げると、女は部屋を出て行った。 「流石お前が選んだだけのことはある。 綺麗で優しそうな人だな」 「あ……あぁ……」 趙雲の誉め言葉に上の空で答えてしまったのは、床に伏している筈の彼女が姿を見せたことに驚いていたからだ。 起き上がったりして大丈夫なのかと言おうとした馬超の言葉を彼女は止め、病に蝕まれているなど全く感じさせぬ様子で応対していた。 確かに今日は体調が良いのだと言ってはいたが。 趙雲達が馬超の邸を辞した後、馬超はその理由を彼女から聞くことになる。 「貴方様にとって特別なあの方に一度でいいからお会いしてみたかったのですよ。 本当に今日は身体が嘘のように軽くて……。 あの時貴方様の言葉を遮ったのは、私如きのことであの方にお気遣いをさせてしまっては申し訳ないと思ったのです」 どうして彼女に趙雲のことが分ったのか。 馬超にとって特別な存在であると。 そう問えば、彼女はくすくすと笑った。 「だって、訪ねて来られたあの方の御名を聞いた時の貴方様の目が―――驚くばかりでご自身では意識していらっしゃらなかったでしょうけど、とても切なげで……。 けれど同時に全身からは嬉しさのようなものが抑えきれずに溢れておいででした。 あれで分らぬ人間はおりませんよ。 やはり私の予感は当たっていたでしょう? とても良いことが起こるって」 言って、少女のようにはしゃいでみせる。 馬超が趙雲と久方ぶりに会えたことを、自分のことのように心底喜んでいるようだ。 夫が自分以外の誰かを未だに心に留めていることに、不安や怒りはないのだろうか。 思えば彼女は出会ってから今日に至るまで、そのことに不平や不満をぶつけてきたことは一度もない。 馬超の疑問に対して、彼女は笑顔で答えるのだ。 「私は本当に幸せ者です。 貴方様の妻となり、子供にも恵まれた。 心の中に私ではない方が存在していたとしても、貴方は懸命に私を愛して下さいました。 それを偽りだったとは思いませんし、私にとっては充分過ぎるほどのことをして頂きました。 貴方様の心を全て欲しいと思ったことはありません。 私はそんな貴方様の心を含めて、お慕いしておりましたから」 本当に自分には過ぎた妻だと、馬超は改めて思う。 抱きしめれば、元々細かった身体は病により更に痩せてしまったようで、居た堪れなくなる。 「趙雲様と久方ぶりにお会いになられて如何でしたか?」 馬超に身を委ねたまま、彼女は問いかける。 それに即答することは馬超には出来なかった。 会えて、本当に嬉しいと思った。 そして子供を見つめる彼の横顔に、離れていた時の長さを思い知らされ、やるせなさが募った。 彼との距離が遠くなってしまったと。 それでもやはり彼のことが好きだと、愛しいという気持ちは全く薄れてはいなかった。 だが―――何かが違った。 彼に対する自分の感情に以前とは違う変化を感じたのだ。 それが何であるのか、この時はまだ馬超自身も掴めずにいたのだった。 春を待たずに、馬超の妻は逝った。 その喪失感と哀しみは、馬超を打ちのめす。 また守ることが出来なかったと。 病であったのだから、彼自身ではどうしよもないことだったとしても、馬超は自分を責めずにはいられなかった。 失意に暮れる馬超をそっと抱きしめてくれた者がいた。 それは趙雲であった。 何も言わずに包み込むように、馬超を優しく抱擁する。 思えば昔から馬超が崩れそうになる時、彼はいつもそうしてくれた。 その温もりに、馬超の目から涙が零れ落ちた。 「俺は本当に妻に幸せを与えてやれたのだろうか? 愛してやれていたのだろうか?」 呟くような馬超の問い掛けに、趙雲は宥める様に馬超の背を撫でる。 「その答えは他人から与えられるべきものじゃない。 お前がどう思うかだよ、孟起」 心の中には決して忘れることの出来ない別の存在があった。 だが自分なりに、彼女のことはとても大切に思っていたし、愛していた。 そして彼女からは沢山の幸せを貰った。 彼女もまた幸せだと言ったその言葉を信じたい。 「お前がそう思うのならば、彼女も同じように幸せだったのだろう。 今は泣きたいだけ泣けばいい。 けれどお前にはまだ守らねばならぬ存在がいることを忘れるなよ」 馬超ははっとする。 そうだ―――自分にはまだ守るべき家族がいるのだ。 母を失った我が子達が笑顔で過ごしていけるように……。 感傷に浸ってばかりいてどうするのだと、己を叱咤する。 だが今日だけ……今日だけは―――。 馬超は趙雲に抱きしめられるに身を預けたまま、最後の涙を流すのだった。 (続) written by y.tatibana 2007.04.07 |
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