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妻を娶った―――。 趙雲から届いた書簡に書かれていたその言葉。 馬超は書簡を手にしたまま、それを食い入るように見つめている。 全く予期していないことだった。 普通に考えれば、趙雲ほどの男が独り身のままでいる方がおかしいのだろう。 けれど、成都にいる頃から、彼に纏わる女の噂は耳にしたことがなった。 また趙雲からも好いた女がいるという話も聞いたことはない。 周囲が言うように、馬超も漠然と、彼がそういったことに興味がないのだと思っていたのだ。 北の任地に、そんな趙雲の心が揺り動かされる女がいたのだろうか。 彼が妻にと望んだのはどんな女なのだろう。 馬超の心をじりじりとした嫉妬が焦がす。 趙雲は親友よりも大切な存在を得てしまった。 今までは自分が趙雲に一番近く親しいという自負があった。 だから―――そんな関係を壊したくはなく、馬超は趙雲に想いを告げることができなかったのだ。 馬超は書簡を手にすると、荒々しく立ち上がる。 その手を振り上げ、荒れ狂う心のままに、床へ書簡を叩きつけようとした。 だが―――そこでふと馬超は手を止め、思い止まる。 趙雲へ本当の想いを伝えることが出来なかったのは、自分の意気地のなさからだ。 友としての関係を続けていこうと決めたのも自分自身なのだ。 それに対して趙雲に何の咎もない。 そして同時に思い出す。 彼が以前話してくれた―――幼い頃に両親を失くし、肉親の情に恵まれなかった彼の生い立ちのことを。 趙雲は家族というものを良く知らないのだ。 失ってはしまったが、馬超にはそれが確かにあった。 家族というものが齎してくれた温もりや優しさを身をもって知っている。 だからこそ一族を虐殺されて以来、喪失感のあまりその存在を忘れ去ろうとしていた。 その家族の存在を思い出させてくれたのは趙雲だ。 彼が家族というものと再び向き合えるように導いてくれた。 趙雲にしてみれば、そうやって家族との思い出がある馬超に対し、どんな気持ちで向き合ってくれたのか。 多少なりとも羨望の思いはなかったのだろうか。 それは馬超には分からない。 だが、趙雲にもようやく家族が出来た。 これからは彼の妻が、そしていずれは子が、彼にあの暖かな温もりを与えていくのだろう。 趙雲のことを想うのならば、それを祝福してやれなくてどうするのだと馬超は自問する。 彼が幸せでありさえすれば、それが何よりではないか。 それで心の靄が全て晴れた訳ではなかったが、馬超は書簡をそっと机へと戻した。 気持ちを落ち着けるように大きく息を吐き出す。 しばらく瞑目していた馬超だったが、やがて部屋を後にし、町へと出掛けて行った。 趙雲への婚礼の祝いの品を自らの手で揃える為に―――。 趙雲へ想いを忘れ去ることは出来ない。 だが、趙雲の婚姻が馬超の中で一つの区切になった。 彼を求めることより、彼の幸せを願おうと。 全てをそれで割り切れる訳ではなかったが、いつまでも立ち止まっていては駄目だ。 趙雲への想いに囚われたままでいることは、彼にとっても自分にとっても決して実のあることではないのだと―――心に言い聞かせて。 馬超の決意を後押しするかのように、その後、趙雲からの書簡は徐々に減っていった。 婚姻して、新たな生活が忙しいのだろう。 そこに寂しさを感じないわけではないが、趙雲を責められる筈もなかった。 そんなことがあって、しばらく馬超は長く続いている例の女の元へは足を向けてなかった。 久方ぶりに訪ねてみると、いつも笑みを絶やさぬ彼女が、いつになく暗い顔で馬超を迎えた。 そして開口一番にこう告げたのだ。 「もう貴方様との関係は終わりにしたいのです」 と。 虚を突かれたように、馬超は目を見開いた。 誰か別の男でも出来たか。 それとも―――馬超が自分に別の人間を重ねていることに耐え切れなくなったのか。 彼女は馬超に自分ではなく別に想う人間がいることを察しているようだったから。 「そうか……」 それ以上、どんな言葉を掛けることができようか。 自分は彼女に甘えてばかりで、彼女自身を見てこなかった。 いつも優しく笑みを湛えていたからといって、どうしてそれが彼女が傷ついていないことの証明になるだろうかと。 自分ではない誰かを想っている男のことなど、愛想を尽かしても当然だ。 踵を返した馬超の背で、女が低く呻いた。 女は慌てて、口元を押さえ、走り去る。 尋常ではないその様子に、馬超も後を追う。 井戸の傍に蹲った女は嘔吐しているようだった。 その姿が今はいないかつての妻の姿と重なった。 同じような場面に出くわしたことがあるのだ。 「まさか……俺の子か?」 驚愕を滲ませてその背に問いかければ、女はびくりと肩を揺らした。 そうして馬超の方を振り返ると、地に手を揃え、平伏すように頭を下げる。 「貴方様に決してご迷惑はお掛けしません。 私が独りで育ててまいります……ですから、どうか産ませて下さい! 貴方様の御子であることも絶対に他言など致しませんから、どうか……私のことはお忘れになって下さい」 ここに至ってようやく馬超は理解することが出来た。 女が何故突然に別れを切り出したのか。 彼女はやはり馬超が別の人間を想っていることを感じていたから、子供が出来ても馬超が喜ぶとは思えなかったのだろう。 けれど彼女は宿ったその命を育みたかった。 馬超に迷惑を掛けることだけは絶対に避けねばならない。 そう考え、馬超へ別れを告げ、ひっそりと独りで育てていく心積もりだったのだろう。 だが、彼女の家は決して裕福ではない。 慎ましやかな生活ぶりは見て取れる。 そんな何の後ろ盾もない女が独りで子を育てるということは、どれだけ困難なことだろう。 それでも彼女は決意したのだ。 その子を―――馬超の子を産みたいと。 愛しい―――と。 この時初めて馬超は、女に対して心の底からそう思った。 今までも決してぞんざいにしてきたつもりはない。 確かな愛情を感じていた。 しかしいつも心には趙雲がいて、彼を彼女に重ねることによってそれを感じていたことも否定できない。 けれど今は本心から彼女のことが愛しいと感じるのだ。 いつも彼女が何も言わぬのをいいことに、その優しさに甘え続けていた。 今度は自分が守っていかねばならい番だ。 彼女も、子供も。 きっと趙雲がいなければこうは思えなかっただろうと同時に思う。 彼が家族の温もりを思い出させてくれなければ。 家族は馬超の中で、永遠に罪悪感を突きつけるだけの冷たい象徴であっただろう。 もう二度と、妻や子のように守らなければならぬような存在を持つまいと思い続けていたに違いない。 再度趙雲がそれを手にする勇気を与えてくれたのだ。 その後、結果的に趙雲の後を追うように、馬超も婚姻した。 趙雲にも報告の書簡を送った。 彼はとても喜んでくれたようで、その返答と共に祝いの品が届けられた。 趙雲への想いは依然消えることはなかったが、馬超は妻となった女を今度は身代わりとしてではなく愛し、無事に子も生まれた。 忙しくも幸せな日々は過ぎて行き、趙雲が任地に赴いてから早十年近い時が流れた。 桃の花が蕾を付け始めたばかりのこの時期、まだ春は遠い。 けれど今日は昨日までの厳しい寒さが嘘のように、暖かな日差しが降り注いでいた。 馬超が邸の一室に入ると、彼の妻は寝台に半身を起こしていた。 窓からじっと外を見つめている。 「おい、起きたりして大丈夫なのか? 無理はするな」 咎めるような馬超の声に、彼女は馬超へと視線を移し、微笑みながらも首を振る。 「大丈夫です。 何故だか今日は嘘のように体調が良いのですよ」 馬超の妻は半年辺り前から、病を患い臥せってたのだ。 薬師からは春先まではもたないだろうとも言われていた。 どれだけ馬超が頑張ったところで、病にだけは太刀打ちできない。 だが馬超は妻の回復を信じて、献身的に彼女を看ていた。 それが良き妻、良き母として馬超や子を支え包んでくれた彼女に対して出来る、今唯一のことだった。 彼女は寝台の傍らに立った馬超を見上げると、一層笑みを深くした。 「今日はとても良い事が起こりそうな気がするのです」 「良い事?」 「えぇ……貴方様にとってとてもとても良い事が。 私のそういう予感は昔からよく当たるのですよ」 馬超にはそのような感覚は一切ない。 まして妻が回復する以外に、今の自分にとって良い事などあるだろうか。 馬超が小首を傾げた所で、扉を叩く音がする。 返答すれば、家令が頭を下げ、姿を見せた。 「どうした?」 「お客様がお見えになられているのですが……」 今日は馬超の執務は休みで、誰かが訪ねてくるような予定などなかった筈だ。 城で何かあったのだろうか? 「一体どなたが参られたのだ?」 馬超の問いかけに対し、家令が告げたその名を聞いた時、馬超は我が耳を疑った。 それはここにいるはずのない人物だったから……。 門扉の前に佇む人影に、馬超は胸の鼓動が激しく脈打つのを止められなかった。 遠目に見ても、一目で分かる。 懐かしい―――そして決して忘れることの出来ない彼の人の姿が確かにそこにある。 彼のことを思い出さない日はなかった。 相手は門扉の向こうに馬超の姿を認めると、ゆっくりと微笑んだ。 それは馬超の記憶の中にあるのと寸分違わぬ笑顔だった。 「久しぶりだな、孟起」 そこに居たのは紛れもなく、趙子龍―――その人であった。 (続) written by y.tatibana 2007.03.11 |
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