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兵に捕えれた馬超は直ぐに解放された。 自邸へと連行され、そこでの謹慎を言い渡されて。 邸にあった武器の類は全て運び出されてしまった。 外へと通じる扉には、諸葛亮の命を受けた兵達が配置されている。 馬超が命に背くことがないようにする為だ。 馬超が散々に荒らした自室は、馬岱の手によってだろうか、殆ど片付けられていた。 広い室内には今や寝台くらいしかない。 そこに腰掛け、馬超は両手の中に己の顔を埋める。 未だに昨夜の酒が残っているのか、頭や鳩尾の付近が痛みを訴えていた。 だがそんな現実の痛みなどよりも、よほど心が悲鳴を上げている。 趙雲の裏切りを知ってあれほどの怒りと憎しみがあったのに、趙雲の顔を見た時、喜びが自然と湧き上がってきた。 生きていてくれさえすれば良いと思った。 それ程までに趙雲の存在は、馬超の中に今や深く根付いてしまっている。 それでも憎悪もまた消えてしまった訳ではない。 相反する感情に心が砕けてしまいそうだった。 趙雲が命果ててしまえば、この苦しみから解放されるのか。 そう何度も己に問い詰めてみた。 しかし答えは「否」だ。 趙雲がこの世から居なくなってしまう程に恐ろしいことなどない。 どんなに憎しみが募ろうとも、趙雲には生きていて欲しい。 今回は失敗してしまった。 だが、何としてでも趙雲を逃がしたい。 そうすれば彼は魏に降るのだろうか。 「そして、敵同士……か」 自嘲気味に呟いて、馬超は大きく息を吐き出す。 どの道を辿ろうとも恐らくこの苦しみから解放されることはないのだろう。 馬岱がその知らせを持ってきたのは、馬超が謹慎となって三日を過ぎた頃だった。 趙雲が近々処刑されるという噂が流布していると。 あれから何度か邸を出ようと試みた馬超であったが、武器を持たぬ生身一つでは、馬超といえどそれは容易くはなかった。 どんな時でも馬超の味方であった馬岱も、それだけは決して手助けしようとはしなかった。 馬超がこれ以上罪を重ねることを危惧してのことだ。 二度目は諸葛亮とて赦しはしないだろう。 本当は趙雲が処刑されるという情報も、知らせるべきかどうか馬岱は悩んだ。 だがいつまでも隠し通せるものではない。 だから馬岱は正直に告げたのだった。 激昂するかと思った馬超は、馬岱の予想に反して静かだった。 「そうか」 と呟いたきり、何も言おうとはしなかった。 それが殊更に馬岱の不安を掻き立てる。 ずっと一緒に育ってきたのだ。 感情を露にしている時よりも、こうした態度の馬超の方が余程恐ろしいことを知っている。 「岱……すまんな」 しばらくの沈黙の後、馬超が口を開いたかと思うや否や、獣のような素早さで馬岱へと飛び掛る。 咄嗟のことで身動きが取れず、何が起きたか分からぬうちに、馬超の拳を鳩尾に受けた馬岱の意識は遠のいていく。 馬超はその馬岱の身体を抱きとめると、自らの寝台へと移す。 そうして彼が身に着けていた剣を奪い去った。 武器さえ手にしてしまえば、邸を抜け出すことは然程難しくはない。 ただ牢を破った時と同様、邸に配置された見張りの兵達を殺すようなことは憚られ、気を失わすに止めた。 邸を出た馬超はしかし直ぐに城へは向かわなかった。 馬超が謹慎の身であることは城の人間は知っているだろう。 このような日も高いうちでは、あまりに人目に付き易い。 日が落ちたら、夜陰に紛れて侵入する心積もりでいた。 山手へと逃れた馬超は、その中に身を隠し、辺りが夜の帳に包まれるのを静かに待った。 ようやく夜も更けた頃、それを待ちかねていた馬超が動き始めた。 趙雲と会えるのはこれが最後かもしれない。 仮に再びまみえることになったとしても、その時は敵同士だろう。 いっそ趙雲を連れて、自分も共に逃げようか。 しかし魏に降るようなことは絶対に出来るはずも無い。 第一自分を騙していた趙雲に対し、これから先平静を保って接することができるだろうか。 色々なことが頭の中を駆け巡る。 だがそれを馬超は強く頭を振ることにより、消し去る。 今はただ趙雲が処刑されるよりも前に、救い出す。 それだけを考えていれば良いのだと。 城の裏手に着いた馬超は、そこで手早く火を起こす。 煙が立ち昇り、やがてそれに気付いた見回りの兵士達が騒ぎ出すのを見計らって、馬超は宮城へと侵入した。 脇目も振らず、馬超は趙雲が捕えられている地下の牢獄へと向かう。 だが、目的の場所の目と鼻の先で、馬超は立ち止まった。 何か様子がおかしい。 地下へと続く階段の前に立ち塞がっている筈の兵の姿がない。 馬超が邸を抜け出したことは当然諸葛亮の耳にも届いている筈だ。 とすれば、馬超がここにやって来るは当然見越して、より厳重に辺りを固めているはずだろうに。 彼が兵の配備を抜かるような男は到底思えない。 不審がる馬超の耳に、何者かが地下から昇ってくる足音が届いた。 さっと馬超は大きな円柱の影に身を潜める。 燭台を手に、現れたのは諸葛亮だった。 続くその後ろには幾人かの兵の姿もある。 「!?」 馬超はその中の兵の一人が持つ、白い包みを目の当たりにして、息を飲む。 何か丸いものが包まれたその布の下部は真っ赤に染まっていた。 それが何であるのかを悟ることは馬超には容易かった。 身を潜めていたことなど頭から消し飛んだ。 ふらりと馬超は物陰から足を踏み出すと、諸葛亮の前に姿を見せる。 兵達は馬超の姿を見、慌てた様子だったが、諸葛亮は相変らず涼しげな表情のまま、兵達を制する。 「それは……まさか―――」 馬超は震える手で、包みを指差す。 崩れ落ちそうな身体を馬超は必死で支えていた。 「貴方がご想像なさっている通りのものですよ。 裏切り者の首です」 平然とした口調でもって諸葛亮は残酷な言葉を紡ぐ。 馬超の目の前は真っ暗になる。 「間に……合わなかった……」 呆然と呟き、己を支えていられなくなった馬超はその場に膝を付く。 趙雲は刑に処されてしまったのだ。 その現実に気を失ってしまいそうになる。 だが―――。 「馬超殿……?」 自分の名を呼ぶ声に、馬超はゆるゆると顔を上げる。 聞こえるはずの無いその声。 自分の願望が聞かせた空耳かと思った。 しかし、視線の先には地下から姿を現した趙雲が確かに立っていたのだ。 縄を打たれている訳でもない。 周囲の兵達がそれに慌てた様子もない。 血に濡れた剣を手にした趙雲がいるにも係らず。 「お前……何故……」 「それは……」 呆然と呟き立ち上がる馬超と、戸惑った様子の趙雲。 そんな二人の間に割って入るように、諸葛亮の声が響いた。 「私からご説明しましょう」 諸葛亮は先に兵達に去るように命じる。 そうして馬超の方へとゆっくりと歩み寄ってきた。 「罠だったのですよ」 「罠?」 唐突に出された諸葛亮の言葉を理解できず、馬超は鸚鵡返しに問う。 「そう―――この国の情報が魏に流れていたことは貴方も気付いていたでしょう? 魏の間者にしてはあまりにも知りすぎていた。 恐らく内部の者の犯行だろうと私は踏んでいました。 ですがなかなか尻尾を掴むことが出来なかったですよ」 その裏切り者の正体が趙雲だったのではなかったか。 彼自らがそう言ったではないか。 そして捕えられた。 馬超の疑問に答えるように、諸葛亮は大きく頷いた。 「私は趙雲殿を捕らえた―――ですが、彼は囮だったのです。 内応者が流した情報以外のいくつかを、私がわざと魏へと流した。 そしてその罪を趙雲殿に被って頂いたのです。 真の内応者に自分以外にも裏切り者がいるということを知らしめる為にね」 馬超の頭の中は混乱するばかりだった。 囮…? 真の内応者……? 幾度も諸葛亮の言葉を頭の中で繰り返す。 「つまり、子龍は……この国を裏切ってなど…」 「えぇ、そうです。 趙雲殿は私の命に従って下さっただけなのです。 趙雲殿は曹操が是非にと欲した武将です。 その彼が内応者だとしれば本当の裏切り者は、必ず趙雲殿に接触してくると考えました。 趙雲殿を連れて魏に降れば、厚遇されるであろうことは想像に難くない。 このまま危険を冒して情報を流すよりも、確固たる地位が築けるのならば魏に身を置いた方が良いでしょうから。 欲に目がくらんだ者には、さらなる大きな欲を目の前にぶら下げてやれば良い。 刑が執行されるまでに、必ず趙雲殿に接触してくると思っていました」 ようやく馬超にも全容が見えてきた。 真の裏切り者は別にいた。 趙雲はその人物を炙り出すために、不義の臣を演じていたに過ぎないのだ。 そして牢の中で、その人物が接触してくるのを待っていた。 牢の中で趙雲が縄も鎖もうたれていなかったのは、諸葛亮の恩情だったのではない。 そう思わせておいて、その実は裏切り者が接触してきた時に、始末させるつもりだったのだろう。 あの粗末な寝台の下に、今趙雲が手にしている剣でも忍ばせておいて。 そして相手はまんまと諸葛亮の策に嵌り、そうして趙雲に斬られた。 趙雲が裏切っていたと知らされたあの日、捕えれた趙雲が馬超に向けて「すまぬ」と詫びたのは、魏と通じていたことではなかったのだ。 馬超を謀ることへの謝罪の意だったのだろう。 魏に通じていたと知って、大きな衝撃が馬超を襲うであろうことに対して。 馬超が趙雲を牢から連れ出そうとした時に、彼がそれに抵抗した理由も今ならば分かる。 決して逃げる訳に行かなかった。 真の裏切り者を誘き出す為には。 ―――そうして今日、舞台に幕が降りたのだ。 真実を知っても、馬超の心は晴れなかった。 とんだ茶番だと。 それに踊らされた自分もまた滑稽な道化ではないか。 趙雲に騙されていたことに変わりはない。 彼にとっては自分ですらも裏切り者の嫌疑の対象だったのだろう。 でなければ、真実を告げてくれていた筈だろうに。 「俺の事がそんなにも信用ならなかったのか……?」 苦しげに吐き出された馬超の言葉に、趙雲は激しく首を振る。 「違う!」 そう否定された所で、為されていた行為はそれとは真逆だった。 何が違うというのだろう。 「私が趙雲殿にそう命じたからですよ。 決して誰にも話してはならないと。 どこに人の耳があるともしれませんから……このことは私と趙雲殿、そして主公以外は誰も知りませんでした」 諸葛亮がそう諭すように言う。 劉備も知っていたということは、あの驚いた顔も、落胆した様子も全ては演技だったということだ。 「馬鹿みたいだ……」 馬超は皮肉げに口元を歪める。 と、その時。 馬超の顔が突如苦痛に歪んだ。 ずっと痛んでいた鳩尾の辺りが、更に焼けるような痛みを訴えてきたのだ。 その部分を両手で押さえ、馬超は再び膝を付く。 そこから何かせりあがってくるような感覚を馬超が意識した瞬間、口からどす黒い大量の血が吐き出された。 「孟起!?」 趙雲の驚愕し、そして悲痛な声が、馬超の意識が途切れる前に聞いた最後の声だった。 (続) written by y.tatibana 2006.04.12 |
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