終幕の果て 3
蜀にとって―――そして馬超のとって、趙雲の裏切りという信じがたい事実が齎された一日は終わりを告げた。
陽が昇り新たな日が始まる。
だが馬超の心は未だ厚い帳が下りたまま。
光射すこともなく、馬超は深い絶望の淵に立っているのだった。





「兄上、入りますよ」
馬岱が何度扉を叩いても、声を掛けようとも中から返る答えはない。
とうとう業を煮やした馬岱は、返答を待たず扉を開けた。
「!?」
足を踏み入れたその瞬間、馬岱は目を見開き立ち竦む。

室内は滅茶苦茶に荒らされていた。
まるで賊にでも押入られたかのように。
部屋を彩っていた豪奢な調度品の数々は、その見る影もなく無残に破壊され、陶磁器類も叩き割られて、破片が方々に散っている。
空気に色濃く滲んだ酒の香りが、馬岱の鼻腔を刺激した。

そうして馬岱の瞳は、唯一壊されることなく残された寝台へと向けられる。
寝台の側面に背を預け、床に足を投げ出す格好で馬超が座っていた。
だがその表情は酷く虚ろだ。
ぼんやり視線を漂わせながら、酒瓶から直接酒を呷る。

馬超の自室の酷い荒れようは、間違いなく彼自身の所業によるものだろう。
そしてその原因もまた考えるまでもないことだった。

趙雲の裏切り―――

それが馬超に大きな衝撃と、そして傷を齎した。
昇華しきれず、持て余した感情を叩きつけるが如く馬超は室内の物を破壊し尽くしたのだ。

「兄上、もうお止め下さい」
馬岱は延々と酒を摂取し続ける従兄へと歩み寄り、その手から瓶を取り上げる。
「返せ……」
馬超は目の前に立つ馬岱を見上げるが、その瞳に精気はない。

一頻り室内を荒らして以後、今この時まで馬超はひたすらに飲み続けていたのだ。
酒に強いとは言えども、もはや限界を越えていた。
最早美味いとはもちろん思えない。
頭がずきずきと痛み、鳩尾の辺りにもきりきりと締め付けられるような感触があり何とも気持ち悪い。
それでも何かに没頭していなければ気が狂ってしまいそうだったのだ。

ここまで弱りきった馬超の姿を見たのは、馬岱にも初めてのことだった。
一族を失った時でさえ、まだ完全にその瞳に光を失ってはいなかったのに―――
そして趙雲と出会ってからは、徐々に明るさを取り戻し、今では錦馬超という名に相応しい雄々しい姿を再び見せてくれるようになった。
それなのに……。
幸せだったからこそ、今の衝撃は計り知れないものがあるのだろう。

昨日と同じく馬岱はやはりどんな言葉を掛ける事もできなかった。
どうすれば、馬超は立ち直ってくれるだろうか。
ずっとそれを考えていたが、一向に何も浮かんではこない。
そんな自分が歯がゆくてならい。
しかしどうすることも出来ず馬岱は肩を落す。
澱んだ空気を入れ替える為、馬岱は室内の窓を開けた後、
「……水を持ってきます。
少し酔いを醒まされませんと……」
そういい残すと、とぼとぼと部屋を出て行った。

一人残された部屋で、馬超はやはり茫洋とした瞳で虚空を見つめていた。
時折来る眠りの狭間に見る夢は、趙雲の姿だった。
どれ程深く趙雲が自分の心に根付いていたかを思い知らされる。
唐突にこんな終わりがくるとは予想もせず。

開け放たれた窓から、冷たい風が吹き込んでくる。
それが徐々に馬超の意識を覚醒させる。

この先、どうなるのだろうか―――

ふと今後の趙雲の処遇のことが頭を過ぎる。
五虎将という蜀の軍の要でありながら、それを逆手に敵国へと情報を流していた。
国に与えた影響は果たしていかばかりか。
それを考えれば結果は自ずと見えてくる。
―――極刑は免れないだろう……と。

自分を裏切り、自分の心を踏み躙った趙雲のことを許せる筈もない。
よりによって魏と通じていたなどと。
趙雲に対するに激しい怒りと憎しみが馬超の中で渦を巻いている。

その趙雲が刑に処されてしまえば、己の心も再び平穏を取り戻すことができるだろうか。
自身でもどうしようもない荒れ狂う感情を消し去ることができるのか。
趙雲がこの世からいなくなってしまいさえすれば―――





「……兄上?」
水を持った馬岱が再び部屋に現れた時、そこに馬超の姿はなかった。





城の地下にある牢。
堅く閉ざされた扉の向うには、幾人かの衛兵が見張りについている。
狭く暗い空間の中には、今にも朽ち果てそうな寝台と呼ぶにもおこがましい寝床がある。
そこに腰掛けた趙雲は、目を閉じ、静かに何かを瞑想しているかのようだ。
手足を拘束されていないのは、諸葛亮、あるいは劉備のせめてもの恩情なのかもしれない。

そんな静かな空気が、突然にわかに騒がしくなる。
趙雲はいち早くそれを感じ取り目を開ける。
最初は遠かったそれが、徐々に近付いてくるのを感じる。
この時には流石に衛兵達も気付いたようで、何事かと囁き合う声が趙雲の耳にも届いた。

「……め下さい!
お止め下さい!」
必死に言い募る声がはっきりと近付いてくる。
牢のある地下への階段を降りてくる幾人かの足音。

「退け」
対照的に冷たく響いたその声に、趙雲の表情が始めて動いた。
それはよく聞き覚えのある、趙雲にとっては特別な男のものだったのだ。
「ここに立ち入ってはなりません!馬将軍!」
「退けと言っている」
もう声は間近まで迫っていた。
「うわっ…!」
男の叫び声が聞こえると同時に、人の倒れた気配がする。

音しか聞こえないが、趙雲が事態を悟るには充分だった。
馬超が無理矢理にここへ侵入してきたのだと。
そうして止めようとした兵を倒してしまったのだと。
思わず趙雲は寝台から腰を上げた。

「馬将軍!?」
外の衛兵達が驚きの声をあげつつ、武器を手にする気配があった。
緊迫した空気が周囲を支配する。
「お引取り下さい、馬将軍」
衛兵の一人がそう進言するが、馬超がそれを聞き入れる素振りなど微塵も無い。
「邪魔だ」
声と共に打ち合わされる武器の音。

幕は直ぐに下りた。
馬超に一兵士が敵うはずもない。
数人の呻き声を最後に、周囲には再び静寂が訪れる。

その空気を震わせて、牢の錠を外す音が響いた。
趙雲は入り口を凝視したまま、立ち尽くしていた。
ギギギ……と軋みを上げながら重い扉が押し開かれる。
ゆらりと現れた影は剣を手にして、ゆっくりと牢の中へと入ってきた。

「孟……起」
趙雲が呆然と呟くのに、馬超は口の端を吊り上げ、冷たく笑った。
「城の中でお前が俺の字を呼んでくれたのは初めてだな。
例え牢の中でも堅苦しい態度は同じかと思ったのだが」
趙雲は何度が首を振る。
今はそんな場合ではなかろうと。
「お前……まさか外の兵達を殺したのか……?」
許可されていない牢に押し入っただけでなく、その守りの兵たちも手に掛けたとなれば、馬超も只では済まない。

だが、馬超は嘲るような笑みを崩しはしなかった。
「お優しいことだな、子龍。
如何に俺とて罪無き者達を手に掛けはしないさ……気を失っているだけだ。
俺が許せないのはただ一人―――
言うと、馬超は手にした剣先を趙雲の喉元へと突きつける。

しかしこれに対して趙雲が驚く素振りをみせることはなかった。
曇りのない綺麗な瞳で、馬超の視線を受け止める。
馬超が惹かれたそのままに。

「私を殺すのだな?孟起……」
馬超に自分がした仕打ちを考えれば至極当然のことだ。
それほどまでに深い傷を負わせたのは自分だ。
彼の憤り、怒り、そして憎しみが痛いほどに伝わってくる。

馬超は趙雲に剣を突きつけたままに問う。
「どうしてこの国を裏切った?」
「……それを聞いてどうなる?
どれだけ言葉で飾り立てようとも、現実はなにも変わらん」
趙雲は凪いだ瞳のまま、静かな口調で告げる。
「俺のことも嘲笑っていたのだろう?
馬鹿な男だと」
「違う!それだけは絶対にない!」
ここに至って初めて趙雲が感情を露に否定する。
だがそんなもので馬超の心が晴れる訳もなかった―――言葉ではなんとでも言えるのだ。

馬超は一度目を閉じると、迷いを断ち切るように首を振った。
そして趙雲に剣を突きつけていた馬超の体が動いた。
だがそれは趙雲の予想を大きく裏切るものであった。
剣が趙雲に突き立てられることはなかった。
剣を持つのとは別の馬超の手が趙雲の腕を捕らえたのだ。

「孟起……?」
馬超の意図することが分からず、流石の趙雲も戸惑いを見せる。
だが馬超はそれを意に介することはなく、趙雲の腕を捕えたまま、出口へと向かう。
「孟起、お前何を考えている?」
趙雲が馬超の手を振り解こうと抗う。
するとようやく馬超が足を止めた。
「逃げるに決まっている。
お前はこの国を裏切った―――その先にあるものが何であるか分かっているだろう?
……俺が逃がしてやる」
「!?
……お前、自分が何を言っているのか分かっているのか?
そんなことをすればお前も罪を背負うことになるのだぞ!
第一何故、お前が私を助けるのだ?
私を殺すつもりだったのではないのか?
私のことが憎いのだろう?」
趙雲は渾身の力で馬超の手を外した。

そのまま正面から馬超を見つめる。
剣を突き付けられた時には、馬超の憎しみを確かに感じていたのに―――
それなのに何故だと、趙雲はただ困惑する。

「殺してしまえれば、楽だったのにな……」
馬超は自嘲気味に微笑んで、ぽつりと漏らす。
「さっきまでは本当にお前を殺すつもりだった。
お前に対する怒りや憎しみで気が狂ってしまいそうだった。
今もそれが消えた訳じゃない。
けれど……お前の顔を見ているうちにどうしてもお前を失いたくないと思った。
その気持ちが抑えきれなくなった」
「孟起……」
趙雲はただ馬超の字を口にすることしか出来なかった。
馬超の寄せてくれる深い想いに。

馬超はそんな趙雲の腕を再び取る。
そうして引き摺るようにして強引に出口の扉へと誘う。
「駄目だ、孟起!」
しかし馬超は耳を貸そうともしない。
「孟起!」
趙雲は馬超の手を振り解こうと抗いもがく。
この上馬超にまで罪を負わせる訳にはいかない。

「そこまでです」
その時、二人の間に割って入った静かな、けれど厳しい声があった。
入り口には羽扇を手にした諸葛亮が立っていた。
背後には数人の兵の姿も見える。
「見張りの兵が慌てて駆け込んで来たので何事かと思えば……。
馬超殿、ご自分が何をなさっているか分かっているのですか?
趙雲殿は囚われの身―――これ以上の狼藉は許しませんよ」

ちっと馬超は小さく舌を打つ。
剣を握る手と趙雲を掴む手に力を込める。
強行突破を図ろうかと馬超は考えるが、それを見越したように諸葛亮は口を開く。
「地上には張飛殿も控えて居られます。
諦めなさい、馬超殿」
ぐっと馬超は唇を噛む。
文官である諸葛亮や一兵卒だけならば如何様にでもなろうが、拒む趙雲を無理矢理伴って張飛とまみえるのは無謀だろう。
大きく溜息を吐き出すと、馬超は剣と趙雲、その両方から手を離す。

それを認めて諸葛亮は背後の兵へと目配せを送る。
幾人かの兵が馬超を後ろ手に縛り上げると、両脇を固め、歩くように促す。
肩越しに馬超は振り返るが、趙雲との間を塞ぐように諸葛亮が立っており、彼の顔を見ることはできなかった―――





後に取り残されたのは諸葛亮と趙雲だけだった。
「丞相……」
趙雲が控えめに声を掛ける。
諸葛亮が振り返ると、辛そうに顔を顰めた趙雲と目が合った。
だが諸葛亮は何も言わない。

沈黙の中、先に口を開いたのは趙雲だった。
「……丞相、孟起のことは何卒…」
趙雲の言葉に諸葛亮は羽扇を口元へとあてる。
くすりという笑い声がそこから漏れた。
「孟起……ですか。
貴方のそんな顔を見るのも、貴方が私に何かを頼むことも、長い時の中で初めてですね。
馬超殿は貴方にとってどれ程の位置にいるのでしょうね?」
揶揄するような口調に、趙雲は反射的にかっと頬を火照らせる。
それを見て、諸葛亮はまた笑みを深くする。
「分かっていますよ。
兵を殺した訳ではありませんし、馬超殿を捕えるようなことはしません。
但し、牢を破ったことを不問に付す訳にはいきません。
暫くは邸で謹慎して頂く事になるでしょう」
それを聞いて、趙雲はほっと胸を撫で下ろす。

しかし、対照的に諸葛亮の顔がそこですっと引き締まった。
それを感じ取った趙雲もまた同様に。
「あと少なくとも五日です。
―――それが期限です」
何をとは趙雲は問わなかった。
既に承知していることなのだ―――捕えれたその日から。

静かに趙雲は頷いた。





(続)





written by y.tatibana 2006.03.18
 


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