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趙雲は己の背徳行為をはっきりと認めた。 しんと辺りは静まり返っている。 馬超もその例に漏れず、目を見開いたまま、食い入るように趙雲の毅然とした横顔を見つめる。 ただ頭の中が混乱していた。 「子龍、てめぇ!」 そんな中、真っ先に沈黙を破ったのは、張飛だった。 弾かれたように立ち上がると、趙雲の元へと駆け寄り、その胸倉を乱暴に掴み上げる。 趙雲はされるがままになっていて、抵抗する素振りはない。 衛兵がそれを止めようと試みるが、憤った張飛をとても御すようなことはできなかった。 拳を振り上げ、張飛が趙雲を殴りつけようとする。 だがそれよりも先に劉備の声が割って入った。 「止めよ!翼徳!」 流石に劉備の言葉には背く訳にもいかず、張飛は寸でのところで拳を止める。 だが趙雲を解放せぬままに、張飛は不満げに鼻を鳴らす。 「どうして止めるんだ、兄者! こいつは俺達を裏切っていやがったんだ! ずっと昔から一緒にやってきて、俺はこいつを弟のように思っていた。 兄者だってそうだろう? それを―――こいつは…っ!」 「止めないか」 再度静かに、けれど有無を言わせぬ強さを含ませて劉備は張飛を制す。 それでも荒ぶる気持ちはなかなか鎮まらないのか、ぎろりと怒りを滲ませて張飛は趙雲を睨みつけていた。 趙雲はそれを逸らすでもなく、真っ直ぐに受け止める。 やがて張飛は舌打ちすると、胸倉を掴んでいた趙雲を床へと叩き付ける様に解放する。 それを機に一気に座が騒めき出す。 ようやく誰もが驚愕という呪縛から解き放れたのだろう。 声高に趙雲をなじり、非難する者がいる。 先程の張飛と同じように、彼に掴み掛かろうとして、周囲に押し止められる者もいる。 そんな中でも、馬超は未だ動けずにいた。 まるで夢の中にいるかのように、現実感を持てないのだ。 「孔明」 その劉備の呼び掛けだけで、諸葛亮は全てを察したのだろう。 微かに頷きを返すと、衛兵に趙雲をこの場から連れて行くように命じる。 このまま彼をこの場に留めていれば、収拾がつかなくなることを危惧したのだ。 何故趙雲が魏と内応していたのか。 いつから裏切っていたのか。 今後どうするつもりであったのか。 訊ねねばならぬことは様々あったろうが、この状況ではとてもそれは儘なるまい。 姿を見せた時と同じように両脇を衛兵に固められ、趙雲は連行される。 趙雲は周囲の喧騒など耳に入っていないかのように、立ち止まることなく前を見据えたまま歩く。 縄を打たれていたも、しっかりとした足取りであった。 呆然としたままの馬超の目の前を、趙雲が通り過ぎようとした時、 「趙将軍」 反射的に馬超はそう声を掛けていた。 公私の区別をはっきりと分ける趙雲の性格を尊重して、公の場で馬超は彼の字を口にはせぬよう心掛けていた。 しかしこの期に及んでも、まだそう呼べるだけの冷静さが残ってる自分が、馬超には酷く滑稽に思えた。 そのまま過ぎ去るかと思った彼はしかし、馬超の声に応じるように足を止めた。 ゆっくりと趙雲の視線が、馬超へと移される。 そこにあるのは、いつも見慣れた彼の瞳。 綺麗で曇りのない―――馬超が惹かれたそのままだ。 しかし二人の距離は遥か遠いものとなってしまった。 こんなに近くにいるのに、昨日までの自分達とは立場を大きく違えてしまったのだ。 無意識のうちに呼び止めたものの、馬超はその先に続けるべき言葉を持たなかった。 聞きたいことも、言いたいことも様々あるのに、それらは頭の中をぐるぐると駆け巡るだけで、音にはならない。 そうして立ち尽くす馬超に向けて、趙雲が口を開いた。 「すまぬ」 そう言って、趙雲は深々と頭を下げる。 たった一言。 その短い謝罪の言葉だけを残し、趙雲は再び歩き出す。 そうして、もう二度と馬超の方を振り返ることもなく、趙雲は広間から姿を消したのだった―――。 「お静かに」 ざわめく場に、諸葛亮の凛とした声が響く。 劉備は沈痛な面持ちで、大きく息を吐き出しながら、幾度か首を振る。 まだ趙雲の裏切りが信じられぬのだろう。 「孔明……真に子龍が魏に通じていたのか? 私にはとても信じられんのだ」 戸惑いを隠せない劉備とは対照的に、諸葛亮の表情は常通りの冷静さだった。 「残念ながら、間違いはないかと。 趙雲殿の邸から、魏の人間と遣り取りを交わした書簡がいくつか見つかりました。 本人も認めた上に、そのようなものが発見されたとなれば、最早疑いようもありません」 諸葛亮は趙雲邸から押収した書簡を元に、彼が関わったとされる内応の内容が知らされる。 馬超は耳を塞いでしまいたい衝動を懸命に耐えていた。 そんなもの聞きたくもなかったのだ。 趙雲が裏切ったのだという現実を突きつけられる行為は。 「この他にもこれまでの戦で魏に情報が漏れていると思われることが幾度かありましたが……書簡等の証拠が見付からなかったものもあります。 ですが、それも趙雲殿の仕業と見て差し支えないでしょう。 詳しくはこれから調べるつもりですが」 「そうか……」 憔悴しきったように呟く劉備に、諸葛亮はお心をお落としなさいませんようと言葉を掛ける。 「お疲れになられたでしょう。 何卒お休みください、主公。 今日はこれにて解散といたします。 今後の趙雲殿の処遇に関しては、追々お知らせ致します」 それを最後に、場は解散となった。 どうやって邸に戻ってきたのかも、覚えていない。 気が付けば、寝台に身を横たえ、ぼんやりと先程までのことを反芻していた。 しかしいくら繰り返そうとも、現実を受け入れられない。 扉を叩く音がし、馬岱が姿を見せる。 その表情は暗い。 手にした盆の上に、酒器が載せられている。 それを馬超の寝台の傍らにある卓に置く。 酒でも飲んで気を紛らわせということなのか、それとも落ち着けということなのか、馬超には分からなかった。 どちらにせよ、今はとても飲む気分にはなれない。 馬岱は黙って、馬超の傍に立っている。 どう声を掛ければ良いのか分からぬのだろう。 馬超は静かに首を振った。 今は一人にしてくれと示すかのように。 馬岱はしばらく寝台に伏せる馬超を見つめていたが、やがて部屋を出て行った。 本当にお前はこの国を裏切っていたのか? そして俺と関係を持ち、今まで何食わぬ顔で付き合いを続けていたのか? 魏により一族を失った俺と―――。 そう問いかけてみたところで、返る答えは当然ない。 魏と通じていたという書簡が見付かり、本人も肯定した。 諸葛亮の言う通り趙雲の背徳は、最早疑うべくもないのに―――未だに信じられない。 馬超は何を思ったか、突如寝台から身を起こした。 そうしてそのまま自室を後にしたのだった。 通いなれた道を辿り、馬超は門扉の前に立つ。 その向うに見えるのは、趙雲の邸。 馬超は激しく門扉を叩いた。 しかし辺りはひっそりと静まり返り、中からの応答もない。 いつもならば直ぐに家人が、もしくは主自らが出てくるのに。 突然馬超が訪ねて来れば、いつも趙雲は眉根を寄せ、呆れたように深々と溜息を吐く。 「何用だ?」 不機嫌そうに問われても、それしきで馬超は怯みはしない。 「子龍に会いたいから来たに決まっているだろう。 お前の顔が見たかったんだ」 さらりと正直に気持ちを告げれば、趙雲はますます渋面を作る。 だがその目元が微かに染まっていることに、馬超は気付いていた。 戦場では圧倒的な強さを見せる蒼き龍の化身だが、こと恋愛に関しては全く慣れてはいないのだ。 だから照れ隠しの為に、こうしてわざと素っ気無い態度として現れる。 本気で迷惑がっている訳ではないのだ。 その証拠に何だかんだと言いながら、馬超を邸の中へ―――彼の自室へといざなってくれる。 不器用ながら、同じ想いを寄せてくれる趙雲が馬超には愛しく思えた。 一族を殺され、妻子も失い―――何も信じられるものなどなかった。 もう前を見ることは出来ないと思っていた。 絶望の淵から救い出してくれたのは、趙雲の瞳だった。 その綺麗な瞳が一心に信じるものを、自分も信じてみようと、もう一度進んでみようと思えたのだ。 それなのに―――。 馬超は未だ門を叩き続けていた。 今にも趙雲が「煩い!」とでも怒りながら、いつものように姿を見せるような気がして。 だがいくら繰り返そうとも、現実は残酷だった。 ようやく手を止めた馬超は、ずるずるとその場に崩れ落ち、膝を付く。 もういい加減に認めねばなるまい。 趙雲はこの国を……そして自分を裏切った。 端から趙雲は自分のことなど何とも思っていなかったのかもしれない。 全ては趙雲の戯れだったのか。 馬鹿な奴だと影で嘲笑っていたのだろうか。 くくく……。 と、馬超の喉元から押し殺したような嗤いが漏れる。 まんまと騙され続けていた自分の愚かさに自嘲する。 幸せだと感じていた日々は全て偽りだったのだ。 ただ狂ったように馬超は嗤い続けた。 ―――また全てを失った。 (続) written by y.tatibana 2006.01.28 |
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