終幕の果て 1
周囲は喧騒に包まれていた。
響く怒号と混乱の声。
伏兵として馬超の部隊が潜んでいた場所に、突如敵である魏兵が現れたのだ。
「兄上!」
傍らの馬岱が声を上げ、馬超は分かっているというように頷いて見せた。
襲い来る敵兵を己が槍でなぎ払いながら、馬上の馬超は混乱を鎮めるべく声を張り上げた。
「落ち着け!
体勢を整えつつ、敵を押し返せ!」

そうしながらも馬超の頭の中には何故だという疑問がまず湧き上がる。
そして、またか―――と。
こうして自軍の動きが読まれていることが、ここ何度かの戦で幾度もあったのだ。
最早偶然では済ませられまい。
こちらの情報が魏に流れているのだ―――





ようやく成都の自邸に帰り着いた馬超は、ほっと息を吐き出し、肩の力を抜く。
馬岱の助けもあり、部隊の被害は最小限に食い止めることが出来た。
国境付近に攻めあがってきた魏軍を何とか止めることに成功し、やがて双方が兵を引いたのだ。

今回は大事には至らなかった。
しかしこう何度もこちらの動きが敵に察知されていては、兵達の士気の低下に繋がる。
不安も増すばかりだろう。
そうなってしまっては、此度の戦のようにはいくまい。
甚大な損傷を蒙ることになってしまう。
手遅れにならない内に何らかの手を打たねばなぬだろう。

しかし……。
一体どのようにして情報が漏れているのか。
考えられることは二つ。
魏の間者が紛れ込んでいるのか。
そうしてもう一つは―――

「兄上!大変です!」
馬超の思考を中断させる大声を上げて、馬岱が馬超の自室に駆け込んできた。
どうしても今日中に片付けておきたい執務があるからと、馬岱はこちらに戻って直ぐ城へと向かったのだ。
少しでも休めば良いものを……と馬超は苦笑して従弟を見送ったのだ。
そういう生真面目な所はあいつにそっくりだと、ある人物の顔を思い浮かべながら。

その馬岱が真っ青な顔色で慌てて戻ってきた。
しかもいつも礼儀正しい馬岱が、断りもなくここに駆け込んでくるようなことは今まで一度もなかった。
只事ではない。
瞬時に馬超はそれを悟る。

「ち……趙将軍が先程捕えられたのこと!」
その言葉の意味を、馬超はすぐには理解できなかった。
「な…に……?」
呟く馬超に、馬岱は苛立たしげに繰り返す。
自分自身も混乱して、もどかしいのだというように。
「ですから趙将軍が捕えられたと申し上げているのです、兄上!」

馬岱の言葉を馬超はゆっくりと反芻する。
何度かそれを繰り返し、やがて馬超は小さく笑った。
「岱……お前、俺を担ぐつもりか?
だが、慣れぬことはせぬ方が良い。
そのような戯言で俺は騙せはせんぞ」
この堅物の従弟にもそんな悪戯心が芽生えることがあるのかと。

しかし如何せん馬鹿ばかし過ぎる。
現実味がまるでないのだ。
張飛が酒家で暴れて店を破壊したとか、日頃の激務が祟って諸葛亮がとうとう倒れた―――というのであればいざ知らず。

戦場でならば捕えられるということもあるだろう。
もちろん敵方の手によって。
だが先の戦いは終わったのだ。
趙雲も出陣してはいたが、馬超共々無事に帰還した。
互いの無事を喜びながら。
馬超と同様に敵に動きを悟られていることを危惧してではあったが。

その趙雲が捕えられたという。
それはつまり味方の―――蜀漢の人間によってということだ。

在り得ない。
なにゆえに趙雲が捕えられなければならぬのか。
生真面目な堅物で、ただ劉備の大義の為だけに身も心も尽してきた男なのだ。
脇目も振らず、妻を娶ることもせずに。

それは馬超にとって幸運なことではあったのだが……。
趙雲が妻帯していたなら、絶対に自分と関係を持ちはしなかったと馬超は思う。
妻を持ちながら、他の人間と、まして男と肌を合わせることなど趙雲はしない。
そういう男だ。
妓楼に赴き女を抱き、同性しかいない戦地においては男を相手にする―――そんな妻帯者も数多くいるのが誰もが知る事実なのだが。

悪く言えば頑固で融通が利かない。
だが、良く言えば、純粋で真っ直ぐなのだ。
その曇りのない綺麗な瞳に、馬超は惹かれ、目を離せなくなっていた。

今の関係に至るまでの道のりは、決して平坦ではなかった。
初めは趙雲に己の気持ちを伝えれば、それを性質の悪い冗談だと取られ怒らせてしまった。
何度も言葉を重ね、信じてもらうまでに相応の時が必要だった。
そこから趙雲が自分へ同じ想いを寄越してくれるようになるまで、更に多くの時を費やした。
しかし、それが無駄だと思ったことは一度もない。
時には酒を飲み、そして時には共に戦場に立ち―――様々な経験を共にし、言葉を重ねる内に、より深く互いを知ることが出来たのだから。
そうして知った趙子龍という男は、決して味方の手によって捕えられるようなことをしでかす人間ではない。

だからこそ趙雲が捕えられたという馬岱の話から、馬超が導き出した結論は一つだったのだ。
馬岱が自分を騙そうとしているのだと。
いつも心労ばかり掛けられているから、偶には驚かしてでもやろうかと思っただろう。
はっきりと告げられたことはないが、馬岱は自分と趙雲との関係に気付いているようだから。

「残念だったな、岱。
俺を嵌めるつもりなら、もっと考えろよ」
馬超は笑顔を見せるが、馬岱はそれを否定するように大きく首を振る。
「違います、兄上!
私も冗談であったならば、どれだけ良いだろうと思います……。
ですが、本当に……趙将軍は捕えられたのです……信じて下さい……兄上」
段々と馬岱の声は勢いを失くし、小さなものになっていく。
みるみるうちに馬岱の瞳は潤み、堰を切った涙が零れ落ちる。

ここに至って馬超の顔が真剣みを帯び始めた。
馬岱が涙を流してまで、馬超をからかおうとしているとはとても思えない。
とてもそれが演技のようにも見なかった。
「真か……?」
「は…い……」
ようやく馬超に伝わり気が抜けたのか、馬岱はその場に崩れ落ちた。
膝を付き、涙を流し続ける。

「な……ぜ?
何故だ!?岱!
あいつがどうして捕えられねばならんのだ!」
馬超は身を屈め、俯く従弟の両肩を掴むと、がくがくと揺さぶる。
涙に濡れた顔を上げ、それを拭うと、馬岱は馬超を見遣る。
馬超とは逆に徐々に馬岱は冷静さを取り戻してきた。
「反逆罪……だと。
ここしばらくの戦でこちらの情報が魏へ筒抜けだったのは、趙将軍がそれを魏へと漏らしていたとのこと。
私が城へ参った時、縄を打たれ、連行される趙将軍を見たのです。
それを出迎えるように丞相が険しい表情で居られて……事情をお伺いして慌てて戻ってきたのです」
「嘘だ!」
馬超は馬岱の肩から外した己が手を握り締めると、床へとそれを叩きつけた。

間者でなければ、蜀の人間が魏と通じているのではと先程考えはしていた。
しかも前もって作戦を知ることの出来る人間ともなれば、一兵卒では在り得ない。
それなりに中枢に近い人間でなければ。
だが―――

「あいつがこの国を裏切るなどと……馬鹿げている!
主公が放浪されていた時からずっと、一身に働いてきた男だぞ!?
そんなあいつが敵と通じてる筈がない!」
馬岱を怒鳴りつけた所で、どうなるものでもない。
だが馬超はただただ混乱していたのだ。
趙雲が裏切り―――その上、その相手があの曹魏であったと聞かされて。
様々な感情が綯い交ぜになって、馬超の心中は滅茶苦茶だった。

馬岱は最早掛けるべき言葉を持てず、馬超の荒い息遣いだけが室内に響く。
重苦しい沈黙を破ったのは、家人の扉を叩く音。
耳には入っていないのか口を開こうとしない馬超の代わり、馬岱が答える。
「何か?」
「先程城から使いの方が参りまして、馬超様と馬岱様には取り急ぎ登城して頂きたいと…。
火急の用件で、皆様お集まり頂くそうです」
馬超が弾かれたように顔を上げる。
それが何を意味しているのか、この場において分からぬ筈がない。

「兄上……」
心配そうに自分を見遣る馬岱に、馬超は厳しい表情のまま告げた。
「俺は信じぬぞ、岱。
きっと何かの間違いだ。
子龍とてそう申すに決まっている。
行こう―――帰って来る時には子龍も一緒だ。
三人でとんだ間違いだったなと、肴にでもしながら酒を飲もうぞ」
馬超は立ち上がった。
そうして馬岱を伴い、城へと出向いたのだった―――





馬超達が到着した時には、広間にはある程度の階級以上の文官や武官の多くが既に集まっていた。
空気は非常に重く、不安気にぼそぼそと囁きあう者や、憮然と腕を組み空を見据える者もいる。
なぜここに集められたのか、大多数の者が知っているようだ。
上座近くには劉備の義弟である張飛が呆けたように腕を組んで座り、諸葛亮の傍に控えた姜維の顔は遠目に見ても青白かった。
ここに居る多くの人間が馬超同様に信じられぬのだろう。
まさか趙雲が裏切るなどと―――

「みな、お静かに」
諸葛亮の鋭い声が響けば、途端に波打つような静けさが周囲を包む。
彼の感情を読み取らせぬ表情だけがいつもと何ら変わらぬものだった。
壇上には劉備が座していたが、こちらは普段の柔和な面持ちからは一変して険しい。
「戦から戻られたばかりの方もいるにも係らず、急遽お呼び立てして申し訳ありません。
もう既にご存知の方もおられると思われますが、ここ幾度かの戦で、魏へとこちら側の情報が漏れており、どうやら内応者がいたようなのです。
本日とうとうその人物を特定し、捕えることに成功しました。
これへ……」
諸葛亮の合図と共に、広間の扉が開き、後ろ手に縄を掛けられた男が、幾人かの兵に引っ立てられて来る。

馬超はごくりと喉を鳴らした。
それは見間違えようもなく、趙雲その人だった。
俯くでもなく、毅然とした様子でまっすぐ前を見据えた趙雲が、劉備の前へと連れ出される。
膝を折らされ、両肩の上に槍の柄を載せられ押さえつけられた。

馬超は食い入るように趙雲のその横顔を見つめる。
意志の強い綺麗な瞳は、そのままだ。
やはりその趙雲が内応していたなど信じられない。

「子龍……そなたが魏と通じていたなどと……。
私には到底信じられぬ。
これは何かの間違いであろう?」
劉備もまた馬超と同じ心情なのだ。
戸惑いを露に、趙雲へと問いかける。

そう―――何かの間違いなのだ、これは。

劉備を見上げていた趙雲はしかし、澱みなく明瞭としたした声で答えた。
「私は魏へこの国の情報を流していました。
裏切っていたのは―――私に間違いありません」
と。





(続)





written by y.tatibana 2006.01.09
 


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