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陽が昇り始めたばかりの城の修練場。 朝靄が漂うその場所で、槍が空を切る音が響く。 その場所へと向かっていた馬超はその気配を感じ取り足を止めた。 このように朝は早いというのに、先客がいるとは珍しい。 馬超は霞む視界の向こうへと再び歩き出す。 やがて相手が認識できる距離になると、それまで槍を振るっていた人物も馬超に気付いたのかまた手を休める。 「子龍であったか」 馬超が声を掛ければ、その相手―――趙雲も額の汗を拭いながら、馬超を見る。 「孟起、随分と早いな。 まだまだ誰も来ぬと思っていたよ」 「それは俺の台詞だ。 一体どうした? このような朝も早くから」 「……随分と筋力が落ちてしまったからな……。 早く元に戻さなければと思って」 手にした槍を見つめて、趙雲は微かに笑った。 照れた様に。 でもどこか寂しげに。 「良くあんな状態で戦場に出て、無事だったものだ。 お前が随分と助けてくれたのだと副官から聞いたよ。 本当に済まなかった」 頭を下げる趙雲に、馬超はゆるゆると首を振った。 「もうそのことはいいと何度も言ったはずだろう。 ―――あぁ!もう!そんな湿っぽい話は止めだ! どうだ、子龍、久々に手合わせ願えんか?」 と、趙雲同様に手にした己の槍を馬超は眼前に掲げる。 すると趙雲も頷いて、槍を構えた。 何度か打ち合ってみて、変わらぬ趙雲の見事な槍捌きに馬超は舌を巻く。 だが―――やはり力が足りない。 趙雲自身も先程言っていたように、筋力が落ちているせいだろう。 以前のような力強さがそこにはない。 ぐっと足を踏み込み繰り出された趙雲の攻撃を、馬超は己が槍で受け止める。 そのまま思い切り弾き返す。 と、その勢いで趙雲の手から槍が離れ、二人から少し離れた地面へと落ちた。 ふぅっと息を吐くと、趙雲は落ちた槍の元へ行き、それを拾い上げる。 馬超の方を振り返った趙雲の顔には苦笑が浮かんでいた。 「やはり……だいぶ筋力が落ちているな。 弾かれた力を受け止め切れなかった……」 「お前ならば直に元通りになれるさ。 ―――って、お前……その頬の所……」 そう言って馬超は趙雲の顔を指差す。 だが、趙雲はきょとんとした表情でいる。 「え? 私の顔が何か……?」 趙雲は馬超に示された頬へと手を遣り、それを眼前へと移動する。 血だ。 赤いそれが僅かだが指先に付着していた。 「俺の槍の先端が掠めてしまったみたいだな……すまん、大丈夫か?」 互いに訓練用の槍ではなく、自分の得物を使用していた。 その為に馬超が趙雲の槍を弾いた時に傷付けてしまったようだ。 趙雲は血の付いた手を見つめている。 どこか茫洋とした眼差しで。 「子龍……?」 訝しむ馬超が声を掛ければ、はっとしたように顔を上げた。 一瞬。 趙雲がまたあの時の彼に戻ってしまうのではないかという不安が馬超の胸を過ぎった。 ぼんやりと光の宿らない瞳が、あの時の彼の姿と重なった。 「いや、何でもない。 出血も大したことないようだし、大丈夫だ」 趙雲は笑って、そう言い切る。 あの時も、そうやって趙雲は笑顔を見せていた。 回廊で彷徨う彼の姿を馬超が見つけた時―――ただ寝惚けてしまっただけだと。 けれど結局、あれが全ての始まりであり、兆候であったのだ。 趙雲の心が崩壊していく……。 馬超の顔付きがみるみる険しくなる。 黙して、じっと睨みつけるようにして趙雲を見ている。 馬超の態度に趙雲は全てを察したのであろう。 大きく頭(かぶり)を振る。 「孟起……私はもうあの時のようなことにはならないよ。 もし仮に心の均衡が崩れそうになったなら、今度こそお前に相談する」 そう言い切られてしまっては、馬超としてはもう言い返すことはない。 不安を抱えながらも、馬超は頷きを返すだけだった。 その後、馬超が心配したようなことは起こらなかった。 趙雲は徐々に執務に復帰していき、彼の部隊の調練も彼自身がしっかりと行っていた。 全ては自分の思い過ごしだった。 あの事があってから随分と過敏になっているようだ。 馬超はそう苦笑する。 そんな矢先のことだった。 久しぶりに趙雲が馬超の邸を訪ねてきた。 手に酒瓶を携えて。 「良い酒が手に入ったんだ。 お前とも長い間飲んでなかったからな……どうだ?」 「歓迎するぞ」 「私ではなく酒をか?」 趙雲がくすくすと笑いながら言うのに、 「もちろんだ」 そう間髪入れずに馬超も返すのだ。 一頻り笑った後、馬超と趙雲は客間へと移動した。 注しつ注されつ。 互いに酒を酌み交わしながら、軍務のこと、内政のこと、日常のこと―――様々な話に花が咲く。 止まっていた時間を埋めるかのように。 以前はこうしてよくこうして酒を飲んだものだった。 また親しい友人として、あの頃と同じように歩んでいけるだろう。 それは二人の胸に同じようにある気持ちだった。 「随分と長居をしてしまった。 そろそろお暇させてもらうよ」 趙雲は杯を置くと、立ち上がる。 同じように席を立った馬超を趙雲は制する。 「気遣いは無用だ。 見送りなどいらぬよ。 ではまたな、孟起」 言って趙雲はさっさと客間を出て行く。 その直後、 「きゃっ!」 という女の短い悲鳴が聞こえ、何かが派手に床に落ちる音がする。 趙雲はまだ扉を閉め切ってはおらず、その後姿が馬超からも見える。 何事かと馬超は足早に扉へと近付く。 そこには青ざめ立ちすくむ女と、左袖から胸元にかけて衣をしとどに濡らした趙雲がいた。 床には手桶が落ち、ばら撒かれたものからは湯気が立ち上っていた。 湯を運んでいた家人の女と、客間を出た趙雲が丁度出会い頭にぶつかったらしいことは容易に察せられた。 趙雲の様子は落ち着いていて、大丈夫かと蒼白の女に問いかける。 だが女は小刻みに震えているだけだった。 馬超はそこで異変に気付く。 ただの湯であったのならば、これほどまでに女が怯えるはずがない。 とするならば―――。 馬超は趙雲の腕を掴み、濡れた袖部分を捲り上げる。 「―――っ!」 馬超は眉根を寄せ、息を呑む。 湯を被ったと思われる趙雲の左腕は真っ赤だった。 酷い熱傷を負っているのは一目瞭然だ。 女が運んでいたのは沸き立ったばかりの熱湯だったのだろう。 「孟起?」 にも関わらず趙雲は平然としているのだ。 苦悶の声を上げるでもなく、己の腕の掴む険しい表情の馬超を不思議そうに見ている。 いくら痛みに慣れている武人とは言え、彼の様子はあまりにもおかし過ぎた。 自分の身に起こったことを全く理解していないようだ。 「子龍!何故そうも平然としている!? お前この状態が分かっているのか?」 馬超は趙雲の腕を彼に見せ付けるように持ち上げる。 それを目の当たりにして、趙雲が大きく目を見開いた。 この時になってようやく自分が火傷を負っていると気付いたように。 「来い!」 無事だった趙雲の右腕を取り、馬超は早足で趙雲を引きずるようにして連れて行く。 廊下を抜け、扉を開けた先には中庭があった。 その隅に設えられた井戸へと馬超は歩を進める。 そこで趙雲の腕を離すと、井戸から水を汲み上げ、それを袖を捲り上げた趙雲の左腕へと掛ける。 何度もそれを繰り返し、趙雲の腕を冷やす。 そうしてその後、水を汲んだ桶の中に趙雲の腕を浸すのだった。 無言のまま次に馬超は趙雲の衣の袷を強引に寛げる。 しかし胸部は腕ほどの酷さはなかった。 僅かに肌が赤らんでいるだけだ。 自分の懐から出した布を井戸水で絞ると、それを趙雲の胸へと押し当てる。 「孟起……」 呆然と呟く声。 趙雲の顔を見れば、酷く戸惑った表情があった。 「私は一体どうしてしまったんだろう? 自分でも分からないんだ。 全く痛みを感じない……痛みだけじゃなく、感覚全てが曖昧だ。 あの時も……お前と手合わせして頬に傷を負った時も、痛いとか肌が斬られた感触もなかった。 掠り傷だったから感じなかっただけだろうとあの時は思っていた。 けれど―――日常生活を送っていても、現実感が得られない。 ふわふわと幻想の中を漂っているようなんだ。 気のせいだと思おうとした―――そう思いたかった」 趙雲は左胸に押し当てられた馬超の手の上に、右手を重ね合わせた。 「私はちゃんと生きているよな?孟起。 お前の手に私の鼓動は伝わっているか?」 「当たり前だろう!」 そこからは確かに脈打つ趙雲の鼓動が伝わってくる。 けれど趙雲の瞳は不安に揺れていた。 重ねている手も微かに震えている。 生きているのに、何も感じられない―――その空虚。 己の存在の確かさに疑問を覚えても不思議ではない。 「お前はちゃんと生きている。 俺にはその証拠がしっかりと伝わってくる!」 趙雲の心が甦って、それで全てが終わったのだと思っていた。 だが―――まだ完全ではなかった。 未だ彼の心の罅は完全に修復されてはいないのだ。 頭では真実を受け入れていても、まだ彼の心はそれに付いて行けぬのだろう。 「……」 趙雲は何度も頷いてみせる。 そして決意を込めるように馬超に重ねた手にぐっと力を込める。 彼も戦っているのだ。 完全に己を取り戻すために。 以前のように崩壊する心に流されず、今度は立ち向かっている。 必死で。 趙雲の腕が充分に冷やされたのを見計らって、馬超は桶に浸していた趙雲の腕をそこからそっと出した。 趙雲自身が痛みを感じていないとは言っても、実際にはひりひりと刺すような痛みがある筈なのだ。 ましてやその傷から破傷風にでもなれば大変だ。 家人に持ってこさせた傷薬と白い帯でもって、丁寧に手当てを施す。 「殿が亡くなって、壊れ始めた心の中で私は思った。 あの方の居ないこの世に何故私は生きているのだろうと。 生きていても仕方がないではないかと。 ―――その想いが今でも私を捕らえて離さないのかもしれない。 私はちゃんと克つことが出来るだろうか。 生きているのだと昔のように実感できるようになれるだろうか」 呟く趙雲の姿が酷く弱々しく見えた。 ともすればその存在が消えてしまいそうな程に。 馬超は思い切り趙雲の身体を抱き締めた。 趙雲を攫おうとする何かから彼を守るかのように。 もう二度と馬超は失いたくはなかった。 大切な友人を。 暖かな温もりは確かに馬超の腕の中から感じられる。 彼の鼓動も、息遣いも―――彼が生きている証拠がある。 けれど趙雲自身はそれを感じ取れないのだ。 「子龍、来い!」 何を思ったか、馬超は趙雲から身を離すと、再び彼の手を引き、邸の中へと戻る。 向かった先は、馬超の自室であった。 そしてそのまま趙雲の身体を寝台へと組み敷いた。 驚く趙雲を余所に、馬超は趙雲の衣の帯を解く。 「も……うき!?」 「……」 馬超は無言で、露になった趙雲の肌へと口付けを落とす。 「止め……っ! 孟起!! 一体どうしたんだ、急に……!?」 混乱しつつも趙雲は、圧し掛かる馬超の身体を押し返そうと試みる。 だが馬超の身体は微動だにしない。 筋力の落ちている今の趙雲の力では、馬超には到底叶わないのだ。 「も……っ」 馬超の名を再度口にするより前に、趙雲の唇に馬超のそれが押し当てられた。 歯列を割り、馬超の舌が躊躇うことなく進入してきて、趙雲の舌を絡め取る。 口付けは深く執拗だった。 散々趙雲の咥内を貪った後、ようやく唇が離された時、二人の間からは細い糸が引いた。 趙雲も、そして馬超もまた息が上がっていた。 「孟……起……何故……このような……」 「分からせて……やる。 お前は……ちゃんと生きているんだってことを!」 言うや否や再び唇が重ねられる。 浅く、時には深く―――幾度も口付けを繰り返しながら、馬超は空いた手で趙雲の衣を脱がす。 趙雲はやはり馬超から逃れようとするが、体重を掛け押さえ込まれて身動きできなかった。 唇だけには留まらず、額、瞼、首筋、胸元……あらゆる所に馬超の唇が落とされる。 趙雲に証を刻み込むように。 そう―――赤く色付いていく生きている証を。 趙雲の頭に徐々に霞が掛かる。 それに従い、抗う力も失われていく。 何も感じなかった筈なのに、今は何かが趙雲の身体と心を侵蝕し始めていた。 それは確かな快楽の波であった。 馬超の息遣いや口付け、手でもって施される愛撫。 それらに反応するようにまず跳ね上がる身体。 そしてそれは徐々に心にも伝わってくる。 「あ……っ!」 無意識の内に声が出た。 甘い吐息と共に漏れた嬌声。 もっとと強請るように趙雲は馬超の首へと自らの腕を廻のだった―――。 がくがくと強い力で身体を揺さぶられる。 その度に趙雲は快楽に喘いだ。 身体の内に受け入れた馬超の楔。 今はその存在をはっきりと趙雲は感じる。 力強く脈打つその熱さ。 甦ってくる感触。 幻想の中に置き忘れたままだった感じる心。 馬超と触れ合っている部分全てが熱を帯びている。 「あつ……熱い……も……うき」 汗で張り付いた趙雲の前髪を掻き揚げてやりながら、馬超は微笑んだ。 「それが……生きている証拠だ……。 お前は……ちゃんと生きている」 ドクドクと打つ己の鼓動。 それもまたしっかりと感じられる。 視界が霞む。 抑えきれない涙が溢れてきて、零れ落ちた。 劉備を失った時も出なかったそれが。 ようやく時を経て、流される。 馬超の動きが激しさを増す。 最奥に熱い迸りを感じ取ると同時に、趙雲もまた果てた。 覆いかぶさってくる馬超の重みも。 触れ合う肌の感触も。 温もりも―――最早全てを感じることが出来る。 生きている。 その実感が湧き上がる。 もう今度こそ―――大丈夫。 「すまない……孟起」 「侘びなどいらん、お互い様だ」 その素っ気無さがいかにも馬超らしい。 そんな言葉とは裏腹に、うつらうつらと眠気に襲われる趙雲をそっと抱きこむのだ。 安心して眠れというように。 まだまだ話したいことはあるのに、馬超の鼓動が子守唄のように趙雲を眠りへと誘う。 「……」 眠りに落ちる瞬間呟いた趙雲の言葉は、馬超に届いただろうか。 ―――ありがとう。 その感謝の言葉が。 (終) written by y.tatibana 2005.09.04 |
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