真実と幻想と5
久方ぶりに、この部屋の主によって窓が開け放たれる。
吹き込んでくる心地よい夜風に、窓辺に立った趙雲は僅かに目を細めた。
そのまましっかりとした足取りで部屋の奥に設えられた棚へと向かうと、小さな器と白い布を手に取り、椅子に腰を下ろした馬超の元へと戻ってくる。

「すまなかった……傷、痛むか?」
馬超の赤く染まった右の肩口に趙雲は視線を落とす。
「いや、大したことはない」
とは言うものの、未だに血が滲み出ている。
先程までは趙雲を取り戻すのに必死で、本当に痛みなど感じていなかった。
だが今になってじくじくと鈍い痛みが襲ってくる。
思いの他、深く切れてしまっているらしい。

趙雲はそんな馬超の衣の襟元を寛げ、その傷口を見て眉根を寄せた。
すまんともう一度詫び、棚から持ってきた白い布を手に取る。
水差しの水を傷口にかけ、手にした白い布で馬超の肌についた血を清めていく。
それが終わると、布と共に持ってきた器の蓋を開ける。
どうやら傷薬が入っているらしい。
それを手早く馬超の傷へと塗りつけた。

それら一連の様子を馬超はじっと見つめていた。
手馴れた様子で怪我の手当てを行う趙雲は、正しく以前の彼そのものであった。
茫洋としていた瞳も、今はしっかりと意思の光が宿っている。

彼を取り戻したのだ。
自分にとって唯一の友人を。

そう馬超は改めて確信する。
趙雲が心を失って今日に至るまで時、馬超にとってそれは憤りと後悔……そして哀しみの日々だった。
だが趙雲がまさに眠りから覚めた今となっては、そんなことなどどうでも良いと思える。

「お前も大丈夫か?」
趙雲の様子を窺っていた馬超がようやく口を開く。
訊ねられたことの意味が分からず首を傾げる趙雲に、馬超は苦笑して彼の頬を指差した。
「手加減なしに、思い切り殴りつけてしまったからな」
言われて初めて気付いたように、趙雲は自分の頬に手を当てる。
熱を帯びて、腫れているようだった。
「いや、私は大したことはない」
そう言って馬超を安心させるように趙雲は微笑んで見せた。
その趙雲の笑みを見て、馬超はほっと胸を撫で下ろすのだった。





やがて馬超の手当てを終えた趙雲は、馬超の向かいの椅子へと腰を降ろす。
二人の間に置かれた卓の上には、鞘に収められた剣が置かれていた。
趙雲はしばらくその剣にじっと見入っていた。

それは趙雲が心を無くすほどに―――彼にとって全てだった人物の持ち物。

「殿が亡くなった……その現実を私は受け入れられずにいた」
そうぽつりと趙雲が語り始める。
「関羽殿と張飛殿が亡くなって、殿が呉に進軍すると仰られた時、私はそれを止めた。
呉と争うことはあの時、得策ではないとそう思ったからだ。
それは今でも間違ったとは思わない。
けれど義兄弟であるお二人を失った殿の悲しみと怒りの前には、私の言葉など届かなかった。
進軍を止める私に殿はひどくお怒りになられた。
もう二度と顔も見たくないと仰られて……」
趙雲は切なげに目を細めると、そっと卓の上の剣に触れる。

その場に馬超は居合わせてはいなかった。
そこであった出来事を聞いたのは、後日馬岱からであった。
趙雲の口から馬超に語られることはなかったし、馬超もまた触れぬほうが良いだろうと判断して、聞くこともしなかった。

その後、劉備は出兵した。
結果は、惨敗。
そして成都に戻ることも叶わないまま、白帝城にてその生涯を閉じたのだ。

「あの日以後、殿は決して私に会っては下さらなかった。
白帝城で病の床につかれてた時も、私が面会を許されることはなかった。
余程お怒りだったのだろうな。
そうしてある日殿が亡くなられたのだと知らされた。
私に齎されたのはその結果だけだ―――殿の亡骸を目にすることもなかった。
私の記憶の中にある最後に見た殿は、しっかりとご自分の足で立っておられた」

一度そこで趙雲は目を閉じる。
過去の記憶を辿るように。

「そんな私の記憶と現実との歯車が、自分でも気付かぬうちに徐々に狂い始めていたのだろう。
殿が亡くなられて忙殺される日々の中で、私の心はそれに附いてはいけなかった。
段々頭に靄がかかったようになって、殿を探して彷徨い始めた。
意識が途切れ途切れになり、自分がおかしいと気付いたけれど、それを止めることは出来なかった。
そして―――あとはお前も知るようにあの体たらくだ」
趙雲は目を開けると、馬超へと視線を移し、力なく笑って見せた。
情けないだろうと言うが如く。

「あの日……俺が戦に発つ数日前に、お前が俺に言おうとして止めたのは何だったんだ?
俺に宛てた書簡のような言葉を告げようとしていたのか?」

趙雲が馬超に宛てた書簡。
そこには自分が自分で無くなったら殺してくれと書かれていた。

一瞬趙雲は目を瞠る。
そうしてひとつ溜息を落とすのだった。
「そうか……あの書簡、お前の手に渡ったのだな。
壊れていく自分を自身では止められなくて、お前にあの書簡を書いた。
自分勝手だったと思っている……お前の気持ちも考えずにあんなことを……。
だが、私が修練場でお前に言いたかったのはそのことではなかったんだ。
ただ―――聞いて欲しかった。
胸に渦巻く悲しみや苦しみを……吐き出してしまいたかった。
そんな弱い私をお前は軽蔑するかもしれない―――それでもお前にしか話せないと思った」
「軽蔑なんてしない」
馬超は大きく頭を振って、それを否定する。

それは馬超にも覚えのあった感情だからだ。
一族を殺されて、故郷を追われて―――心も身体も疲弊しきっていた。
けれど残った人間を率いる立場にある馬超には休む暇もなければ、弱音を吐き出すことなどできようはずもない。
蜀に降って、ようやく留まる場所を得たけれど、心は憎しみと哀しみに押し潰されそうだった。
それがこの国の人間との軋轢を生み、溝を深めた。

あのまま過ごしていれば、自分もまた心を病んでしまっていただろうと馬超は思う。
そこから救い出してくれたのが趙雲だった。
手を差し伸べ、共に歩んでいこうと。
胸の中の蟠りを全て吐き出してしまえ、自分がそれを受け止めるからと……言って趙雲は笑顔を向けてくれた。

最初はもちろん心を許すことなどできなかった。
同情などたくさんだと、差し伸べられた手をにべもなく拒んだ。
けれどそれでも趙雲はなにかれとなく馬超に心を砕いてくれた。
趙雲の強い光を宿した瞳が、徐々に馬超の心の闇を照らすようになり、馬超にとって唯一の友と呼べる関係になった。

武人と言えども人形ではない。
悲しみや苦しみに心が押し潰されそうになることもあるのだ。
それを乗り越えることは本人にしか出来ないけれど、その手助けをすることは他の人間でも出来る。

「やはり……あの時お前の言葉に何としてでも耳を傾けておくべきだった。
お前が俺を頼ってくれたのに、俺はそれに応えることは出来なかった。
すまん……」
馬超が深く頭を下げるのに、趙雲は慌てて首を振った。
「お前に謝ってもらうことなど何一つないんだ、孟起。
全てはあの方の死を受け入れることの出来なかった私の責だ」
馬超が顔を上げると、趙雲は寂しげな微笑を浮かべていた。

劉備と趙雲との間にどのような関係があったのか、馬超は知らない。
君主と配下してだけの関係だったのか。
もしかすればそれ以上の関係があったのかもしれない。
それを詮索する気は全くなかった。
ただ二人の間に深い絆と相手を想う気持ちがあったことは確かだろう。

「俺は―――劉備殿が本当はお前に会いたかったんだと思う」
「孟起?」
「劉備殿はお前の制止も聞かずに呉に進軍して、その結果大敗し、病の床に就かれた。
お前に合わせる顔があるか?
なにより病床の弱った自分の姿をお前にだけは見せたくなかったんじゃないか?
お前には威風堂々とした自分の姿だけを覚えていて欲しかったのではないか?
だから会いたくても会えなかった」

自分を劉備の立場に置き換えてみた時、馬超は自然にそう思えたのだ。
大切に想えばこそ、見せたくはない姿というものがある。
それが相手にとって正しいことなのかそうではないのかは分からないけれど。

「孟起……でもそれは……」
「分かっている」
趙雲が言わんとしていることは分かる。
「都合の良い考えだと言うのだろう?
劉備殿はもうこの世にいないのだ、真意を問い質すことはできん。
だがそう思うことも残された者の自由だ。
どうせなら良い方に思っておけ。
誰に責められる謂れもあるまい」
きっぱりと強い口調で言い切り、馬超は笑顔を見せる。

趙雲はそれを呆然と見つめていたが、やがて釣られるように唇の端を持ち上げた。
それは先程まで見せていた哀しみを含んだそれではなく、穏やかなものだった。
「そうだな……そう思うことにする。
孟起、本当にありがとう。
私はもう大丈夫だ」





これで全てが元通りになった。
馬超も―――そして趙雲自身もそう思っていた。
けれど。
まだ完全に終わってはいなかったのだ。
それをしばらくして、二人は知ることになるのだった。






(続)





written by y.tatibana 2005.08.21
 


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