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馬超が鞘から引き抜いた剣が、窓から差し込む月明かりを浴びて、鈍く光る。 趙雲はそれを前にしても、焦るでもなくぼんやりとただ繰り返すだけだった。 「あの方はどこ?」 と。 馬超はそれには答えない。 すると趙雲はもう馬超のことなど目には入らぬ様子で、寝台から降り立つと、戸口の方へ向かおうとする。 そうしまたて当て所もなく、求める人物を捜し求めて彷徨い歩くのだろう。 先帝劉玄徳の姿を―――。 だがその趙雲の腕を、剣を持っているのとは逆の手で馬超は捕らえた。 一回りは肉の削げ落ちた感のある腕……。 それは当たり前のことだった。 戦場に立つ以外は、この閉ざされた邸の中で眠らされているのだから。 ここは住居とは名ばかりの趙雲を捕える巨大な檻だ。 このままではそう遠くない未来、彼は槍を持てなくなる。 ―――だが、その前に戦場で命を落とす方が早いだろう。 そう馬超は予測していた。 相手の攻撃を受け止め、払うだけの力が日を追うごとに失われていっているのだから。 行動を遮られ、趙雲は再び馬超へと視線を向ける。 「あの方の居場所を知っているのか?」 「……」 だがやはり馬超は黙したままだ。 ならば離せとばかりに、趙雲は己を繋ぎ止める馬超の手を振り払おうとする。 しかし馬超の力は強く振りほどけない。 趙雲の瞳が途端に険を帯びる。 「離せ!」 趙雲が声を上げた時、馬超がようやく動いた。 捕らえていた趙雲の腕を引き、そのまま思い切り彼の身体を壁へと叩きつける。 背中を強かに打ちつけ、呻く趙雲に向け、馬超は剣を振り上げた。 そして、躊躇いなくそれを振り降ろす―――。 はらりと―――幾本かの黒髪が床へ落ちる。 剣は、趙雲の身を傷付けてはいなかった。 趙雲の顔のすぐ脇の壁に突き立てられていた。 その拍子に髪が切れたようだ。 「劉備殿は死んだ」 趙雲にとって絶望的な一言を馬超は冷静な口調でもって告げる。 真実を知ってしまえば、今度こそ完全に趙雲の心は壊れてしまう―――そう薬師から口止めされていたにも関わらず。 誰もが触れずにいたその事実を。 趙雲の姿に苛立ちや悲しみを覚えていた馬超もまた今まではそのことを口にしたことはなかった……。 廃人になってしまうよりは、現状のままの方がましだと思っていた。 けれど。 趙雲もまたこんな状態のまま生きていたくはないのだ。 趙雲の自分に宛てた書置きを見て、馬超は衝撃を受けた。 そして自身へと問いかける。 このまま腫れ物に触るように趙雲に接し続けていれば何かが変わるのか。 少しでも良い方向に向かうのだろうか。 そう自問した答えは否だった。 何も変わりはしないではないか。 今の趙雲は生ける屍だ。 劉備が生きているという幻想に縋って、探し続けるだけの。 ならば自分が壊してやろうと。 夢の中に囚われたままの趙雲の檻を。 それによって、趙雲の心が完全に失われることになっても。 だが馬超は信じていたのだ。 趙雲の心はそんなことで砕けたりはしない。 真実を知っても、今度こそそれを認識し、立ち上がれる強さがきっとあるはずだ。 孤独の中に放り出されていた自分を救ってくれたのは趙雲のあの力強い瞳だった。 趙雲の強さを誰よりも身を持って知る自分が、それを信じなくてどうするのだと。 けれど、もし……最悪の結果が齎されることになれば、その時は―――本当に趙雲を殺すつもりだった……。 馬超の言葉に、趙雲は小首を傾げる。 その意味が分からぬことを示すように。 それを見て馬超は再度繰り返す。 「劉備殿は死んだ」 のだと。 「死……んだ?」 ぼんやりと呟きを漏らした趙雲の表情がみるみる強張っていく。 ようやく馬超の言葉が趙雲の内部へ入ってきたのだ。 「嘘だ……」 激しく頭を振り、趙雲は馬超を睨みつけた。 「嘘を言うな!」 「嘘などではない。 その剣を見ろ」 言って、馬超が指し示したのは、趙雲の真横の壁に突き立てられた剣だった。 「あ……あ…」 意味を成さない喘ぎが趙雲の口から漏れる。 趙雲の視線はその剣に釘付けだった。 忘れるはずもないその剣。 いつもあの方が携えていた。 遠い昔―――桃園で漢室の復興を決意した時に手にした大切な剣だと教えてくれた。 簡単に手放すことなど考えれない。 なのに、その剣が何故ここにあるのか……。 「劉備殿は死んだのだ。 だから、その剣は劉禅殿からお借りしてきた」 追い討ちをかけるように馬超は言う。 受け入れ難いその言葉が趙雲の中を侵食していく。 身体が無意識の内に震えだす。 「嘘だ!」 趙雲は憎しみに満ちた目を馬超へと向けると、彼へと掴み掛かる。 「お前が……お前があの方をどこかに連れ去ったのだろう? どこに隠した!?」 趙雲は馬超へと飛び掛る。 痩せてしまった趙雲の身体のどこにそのような力があるのか―――凄まじい力で馬超は床へと押し倒される。 馬超の上に馬乗りになった趙雲は、馬超の胸倉を容赦なく掴み締め上げてくる。 ぐっと喉が詰まり、息が出来ない。 もちろん馬超はこんな所で死んでやる訳にはいかなかった。 膝を曲げ、馬乗りになった趙雲の腹を蹴り上げる。 うっと短い呻き声と共に馬超を締め上げる趙雲の手が緩み、馬超はその隙に趙雲を己の上から撥ね退けた。 床に投げ出された趙雲であったが、すぐに体勢を立て直すと、馬超へと向かってくる。 馬超を殴りつけようとした拳を馬超は避け、逆に趙雲を殴り飛ばす。 その反動で趙雲の身体は床へと倒れ伏す。 「お前が真実を受け入れるまで、何度でも言ってやる。 劉備殿は死んだ! もう幻想の中に逃げ込むのは止せ!」 「煩い!」 馬超に殴られた趙雲の頬は赤く腫れている。 けれどその痛みなど今の趙雲にとっては感じるべくもなかった。 頭も心もぐちゃぐちゃで、何も分からない。 ただあるのは目の前の男に対する激しい憤りだった。 素早い動きでもって趙雲は立ち上がり、壁の剣を抜き去ると、それでもって馬超へと斬りかかる。 「―――っ!」 趙雲の眼前に広がる朱色。 床が赤く染められていく。 それは馬超の肩口から流れ出している。 その錆びた匂いを趙雲は良く知っている気がした。 馬超は傷ついた右の肩口を押さえ、身を起こす。 急所への一撃は避けることができたが、完全にかわすことが出来ずに肩を負傷したのだ。 趙雲は剣先から滴る血をそのままに、再び剣を振り上げる。 だが馬超には痛みも恐怖もなかった。 今はただ趙雲に劉備の死を理解させ、そして本当の彼を取り戻す―――そのことしか頭にはなかった。 「子龍! いい加減にしろ! 劉備殿はもうこの世のどこにもいないのだ。 その剣が何よりの証拠だ!」 馬超の叫びに、趙雲の身体がびくりと反応した。 あの方が死んだ。 そんなことは戯言だと思う気持ちと、今手にしているこの剣がここにあるという現実が鬩ぎ合う。 あの方の死……それを自分は見ていない。 病床に伏して以後、決して会ってはくれなかったから。 けれど、大いなる決意と、大切な思い出が詰まったその剣をあの方が手放すということがあるだろうか。 それを混乱する意識の中で考えた時、辿りつく答えは一つしかなかった。 どこを探しても―――もうあの方の姿はない。 それが真実。 酷く残酷な現実。 何かが自分の中で崩れていく気がした。 あの方の為に生きてきた。 道標だった。 それを失ってどうして自分は生きているのだろう。 もう、何もかも本当にどうなっても良い。 意識も、感情も、自分を形作るもの全てが闇に飲まれていく。 その流れに身を任せるように、趙雲は瞳を閉じた。 身体が傾ぎ、倒れゆく。 だが、床に叩きつけられる筈だったその身体を、馬超がしっかりと抱きとめた。 「お前はまたそうやって逃げるのか!? 劉備殿は死んだ―――だがそれで何もかもが終わったのか?」 そう問う馬超の声に、沈みかけていた趙雲の意識が掬い上げられる。 うっすらと目を開けるが、抱きしめられている為に、馬超の顔は見えなかった。 「劉備殿の大義……それすらも消えてしまったのか? お前もそして俺も、皆、劉備殿の大義の許に集ったのではないのか? 劉備殿が目指した世は未だ訪れてはいない。 その遺志を継いでいくことが、我らの使命ではないのか?」 「あの方の……大義……」 ぼんやりと趙雲は繰り返す。 甦ってくる懐かしい声がある。 ―――漢室を復興し、皆が安心して暮らせるような平和な世を作ろうぞ。 その言葉が始まりだった。 劉玄徳という人物に身命を賭して仕えようと決めた。 その大義を成しえる為に。 そうだ……。 あの方の志は今も胸の中で生き続けている。 それは決して消え去ることのないものだ。 どうしてそれを忘れてしまったのか……。 そして例え今劉備に会えたとしても、この姿を堂々と見せることができるだろうか。 全てを放棄して、逃げようとしている今の自分を。 当然会わせるべき顔などないではないか。 ぼんやりとしていた趙雲の瞳に光が戻ってくる。 ずっと霧の中を彷徨っていた曖昧模糊とした意識も、徐々に鮮明になっていく。 長い長い夢から覚めたように。 そうして―――。 何処にも行かせまいとするかのように。 何かから守ろうとするように。 抱きしめる馬超の存在を趙雲ははっきりと意識した。 握っていた剣が手から滑り落ちる。 「も……うき…」 その名を呼べば、馬超の身体が一瞬驚愕したように固まった。 「孟起」 今度はしっかりと馬超の字を口にして、趙雲は馬超の背に腕を回す。 その瞬間、馬超は趙雲を取り戻したのだと―――そう思った。 (続) written by y.tatibana 2005.08.07 |
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