真実と幻想と2
成都に帰還し、馬超が真っ先に向かったのは丞相府であった。
厳しい面持ちで部屋に入ってきた馬超を、対した丞相諸葛亮は涼しげに見遣る。

「先の戦、お疲れ様でした。
これでしばらく北方も落ち着いてくれることでしょう。
貴方のご活躍も聞き及んでおりますよ」
「……俺が来たのはそのような話をする為ではない」
不機嫌さを表すように、馬超の声は低い。
しかし、机の前に座したままの諸葛亮は、さして焦る風でもなく、優雅に羽扇をはためかせる。
「さて……ではどのようなご用件なのでしょう?」
「分かっているくせに、惚けるな!
子龍のことだ!」
「趙雲殿の……?」
諸葛亮ははてとばかりに首を傾げてみせる。

あくまでも白を切り通そうとする諸葛亮を、馬超は険悪な瞳で睨みつけた。
「貴殿の茶番に付き合っている暇はない。
俺は何度も言った筈だ。
あいつを戦場に出すなと」
すると諸葛亮は傍らに控えていた姜維に目配せを送る。
姜維はそれで諸葛亮の意図を汲み取り、部屋にいた人間を全て外へと出す。

諸葛亮と馬超の二人になった時点で、ようやく諸葛亮は羽扇を机へと置いた。
表情にも真剣みが宿る。
「他の者が居る所で、先のような言動をなさるのは関心しませんね。
上に立つ者の言動は、良くも悪くも下の者に影響を与えるものです。
ましてや今は国全体が浮き足立っているのです……動揺を広げたくはありません。
お慎み下さい」
それを馬超は鼻先で笑った。
「あいつの状態は皆が知る所であろう。
何を今更隠し立てをする必要がある?」
「五虎将の貴方が仰れば不安を殊更煽ることになります。
それは我々にとっても―――そして趙雲殿にとっても得策とは言えません」
諸葛亮は静かに馬超を諭す。

だが馬超は冷えた眼差しを諸葛亮に投げて寄越した。
「自分のしていることは棚に上げて、よくもそんなことが言えるものだ。
動揺を広げたくないのならば、あいつを戦場に出すな。
あいつの今の状況を貴殿が知らぬとは言わせぬぞ」
「分かってはおりますよ。
ですが、今の我が軍に将を遊ばせておくだけの余裕などありません。
例えあのような状態であったとしても、槍さえ持たせれば、あの人は変わらず強い。
貴重な戦力なのです」
「ふざけるな!
今のあいつは何も分かってはおらん!
敵味方の区別なく、ただ己の行く手を遮る者を排除しようとする。
此度の戦でも、隊を勝手に離れ、戦場を彷徨っていた。
戦場であんなことを繰り返していれば、何れあいつは命を落とす」
諸葛亮の態度に業を煮やし、馬超は再度声を荒げた。

しかし相変わらず諸葛亮は冷静な様を崩そうとはしない。
凪いだ瞳で馬超の鋭い視線を受け止める。
「けれど、今回もまた貴方が連れ戻して下さったお陰で趙雲殿は無事だった……」
その言葉に馬超は傍らの柱に拳を叩きつけた。
「俺はあいつのお守りではない!
いつまで今回のようなことを繰り返させるつもりだ!?
もうたくさんだ!」

「ならば―――捨て置けば宜しいのでは?」
諸葛亮はにべもなくそう言葉を返す。
「私は貴方に趙雲殿を守ってくれと命じた覚えはありません。
煩わしいのならば、趙雲殿のことなど助けなければ良いのです。
あの人も戦場で尽きるのならば、本望でしょう」
「……っ」
ぐっと馬超は言葉に詰まる。
目の前の男を殴りつけたい衝動を懸命に堪える。

馬超がそうは出来ぬことを知っていて、諸葛亮は捨て置けなどと言っているのだ。
趙雲を見捨てることなど馬超には出来はしないと重々承知していて。
いや……もしかするとこの男は将兵など使い捨ての駒としか認識していないのではないか。
本気で趙雲がどうなってしまおうと構わないのかもしれない―――そんな考えが頭を過ぎる。

「お話はそれだけですか?
今が大変な時期だということは貴方もお分かりでしょう?
貴方とゆっくりお話している時間は申し訳ないのですが、私にはないのですよ」
そう言って、諸葛亮は筆を手に取り、机上の竹簡に目を落とす。
もう馬超の方を見ようともしない。
早く退出しろと言わんばかりの態度だ。

どうしたところで、自分の願いは諸葛亮には通じはしないのだろう。
怒鳴っても。
殴りつけたとしても。

馬超は荒々しく扉を開けると、無言のまま部屋を出て行った。
馬超が去った後、諸葛亮は大きく溜息を落とした。
筆を机に置き、立ち上がると、開け放たれた扉に視線を移す。
続く回廊の先に馬超の姿はもう見えない。

「貴方ならば……あの人の心を取り戻してくれるのではないかと……。
どうかあの人を助けて下さい―――

呟かれた諸葛亮のその言葉は、静謐な空気の中に溶けていった―――





人気のない修練場で、馬超は一人槍を振るっていた。
己の中の渦巻く様々な感情を発散させるが如く、その動きは激しい。

―――孟起。

不意に耳に届く声に、馬超は動きを止める。
辺りを見回す。
だが、誰もいない。

空耳……ではない。
それを馬超は自覚していた。
今の声は自分の願望が聞かせたものだと。

こうして一人槍を振るっていると、よく声を掛けられたものだ。
槍を手にした趙雲が、手合わせしようと駆け寄ってくる。

真っ直ぐで曇りのない瞳は、生き生きと輝いていた。
良く笑い。
時には怒り。

蜀に降った当初、周囲と馴染もうとはしない馬超に何かと心を砕いてくれたのは趙雲だった。
余計なお世話だと邪険に扱う馬超にも、趙雲は全く気分を害した様子もない。
酒を持ってふらりと馬超の邸を訪れては、むっつりと黙り込む馬超を前に趙雲は一方的に話をしては帰って行く。
そうしていつの間にか、そんな趙雲の訪問を心待ちにしている自分に馬超は気づいた。
やがて二人は互いに親友と呼べるまでの関係になった。

「子龍、お前はどうしてそんなに強い?」
そう聞いたことがる。
趙雲は迷うことなく、きっぱりと言い切った。
「私には身命を賭して守りたいと思える方がおられるからだ。
あの方に出逢って、私は生きることの意味を見出せた。
あの方の為ならばどこまでも強くなれる」
と。

そこまで信じられるものがある趙雲のことが馬超は羨ましかった。
一族を失った馬超には、今や守るべきものをなくしてしまったから。
そんな馬超に趙雲は手を差し出したのだ。
「孟起、我らと共にいこう。
戦乱のない新しい世を築く為に」
力強い光を宿す瞳に、馬超もまた信じてみようかと思った。
その為に槍を振るい、懸命に生きていこうと。

差し出された手を取る。
そして己の決意を示すように力を込めた。
あの時の趙雲の心底嬉しそうな笑顔が胸に焼き付いている。





それなのに―――





趙雲の変化に最初に気付いたのは偶然にも馬超だった。
多忙を極めたその日、馬超が執務室を出たのはもう真夜中を過ぎていた。
と、回廊をふらふらと歩く人影を見て、馬超は眉を顰めた。
最初夜番の兵が巡回しているのかと思ったが、どうにも足取りがおかしい。
酷く酔った何者かが迷い込んだのか。

侵入者であれば見過ごす訳にはいかない。
馬超は足早にその人影へと近づく。

「!!」
人影の正体を目の当たりにして、馬超は驚愕した。
それは馬超が良く知る人物だったからだ。

「子龍……」
そこにいたのは趙雲であった。
普通ならば趙雲が城にいようが別段驚くべきことではない。
だが、今馬超の目の前にいる趙雲はいつもの彼ではなかった。

身にまとっているのは薄い夜着一枚。
いつもきっちりと結ばれている髪は、風に乱されるがままになっている。
裸足のまま、覚束ない足取りで歩いている。
そして、印象的な強い瞳はそこにはなかった。
完全に色を失っていた。

馬超が目の前にいるにも関わらず、趙雲はそれに気付いていない様子で、馬超の横を通り過ぎようとする。
慌てて馬超は趙雲の腕を捕らえた。
「おい!子龍!
お前一体どうしたんだ!
寝ぼけてでもいるのか!?」
「あの方はどこにいる……?」
馬超の問いかけとは全くかみ合わない答えを返す。
腕を捕らえる馬超の手を強引に解くと、そのまま再び歩き出す。

寝ぼけている訳でも、酔っ払っている訳でもなさそうだ。
だが趙雲の様子は尋常ではない。
まるで何かに憑かれてでもいるようだ。

「おい!子龍!」
馬超は趙雲の前に回り込み、彼の肩を掴むと今度は強く揺さぶった。
「どこにもいないんだ……あの方が。
早く探さないと」

趙雲があの方という人物。
思い当たるのはただ一人しかいない。
だがその人は―――

その時、趙雲の身体が一度びくりと揺れた。
瞳に宿る光が戻ってくる。
夢から覚めたように。

「孟起……?」
自分の状況が全くわかっていないのか、目の前に立つ馬超の顔を驚いたように見つめる。
「私は一体……」
周囲を見渡した後、己の姿を一見し、趙雲は眉根を寄せた。
「どうして私はこんな格好で城に……」
「何も覚えていないのか?」
戸惑っているのは馬超も同じであった。

馬超に問われ、趙雲は記憶の糸を辿っているようだったが、ややして首を振る。
「邸で寝台に横になったところまでは覚えているのだが…」
「……」
馬超は黙り込んだまま、まじまじと趙雲を見る。
彼自身も本気で混乱している。

「寝ぼけてこんな所まで来てしまったのだろうか。
何れにせよ迷惑を掛けて済まなかったな、孟起」
趙雲は自分が寝ぼけたのだと結論付けたようだ。
少々ばつの悪そうな笑みを浮かべて、馬超に詫びる。
「いや、俺は別に迷惑など掛けられてはおらん。
―――相当疲れてるようだな、子龍。
しばらくゆっくりと休んではどうだ?」
「今はそんなことが出来る状況ではないだろう。
お前だってこんな刻限まで働いているではないか。
皆で乗り切らねばならぬ難局なのだ……ゆっくり休んでいる暇などない」

趙雲の言葉に馬超は安堵する。
大丈夫だ。
趙雲は現状を正しく理解している。
本当にただ寝惚けていただけなのだと。

しかし―――

何故か妙な胸騒ぎがする。
それはあまりにも先程の趙雲の様子が尋常ならざるものだったからか。
何か良くないことが趙雲の中で起こっているような、そんな気がした。

「どうした、孟起?」
怪訝そうな趙雲の声に、はっと馬超は我に返った。
無意識のうちに、考えの中に沈んでいたようだ。
「いや、何でもない」
目の前の趙雲は確かに馬超が良く知る彼だ。
何を心配することがあるというのだろう。

「邸まで送っていこう。
そのままの格好で一人帰る訳にも行くまい」
馬超は羽織っていた袍を肩から落とすと、趙雲へと差し出した。
「すまん」
趙雲はそれを素直に受け取り、袖を通す。

そうして二人は並んで歩き出す。
趙雲の足取りはしっかりしたものだった。

だがそれを見てもやはり……馬超の中に宿った不安が消えることはなかった―――





(続)





written by y.tatibana 2005.07.10
 


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