真実と幻想と 1
激しい戦闘の果て。
遂に敵軍が敗走を始めた。
しかし深追いはするなとの丞相諸葛亮からの指示がある。

馬超はそれに従い、自隊の進撃をそこで留めた。
そこへ駆けてくる一騎の馬が目に入る。
自棄になった敵の兵かと馬超は槍を持つ手に力を込めた。

だがすぐにそうではないと気付く。
その男に見覚えがあったからだ。
男は趙雲の副官であった。
そうと分かっても、馬超の厳しい表情は緩まることはなかった。
それどころか更に険しさを増す。
何故男が自分の元に慌てて駆けてくるのか、ある種の予感があったのだ。

大きく息を乱した男は、深々と頭を下げた後、馬超の側に寄ると彼に耳打ちして寄越した。
それを聞きながら馬超の眉間に刻まれる皺が深くなる。
予想通りの知らせがその男から齎されたからだ。

「馬鹿が……」
舌打ちし、馬超は不機嫌さを隠そうともせず低く呟く。
そうして肩越しに馬岱を見遣ると、
「岱、お前は兵達を纏めて、陣へ戻れ」
そう一方的に言い付け、彼の返事も待たずに馬超は馬腹を蹴った。

趙雲の副官は告げたのだ。
―――趙将軍が退却する敵を追い、単騎で斬り込んで行かれました。
と。





いくら敵が敗走しているからとて、単騎で追撃するなど正気の沙汰ではない。
戦場を駆け回り、ようやく馬超が趙雲を見つけた時、やはり彼は多数の敵兵に囲まれていた。
馬上にいる趙雲は全身の至るところが赤く染まっていた。
それが返り血なのか、それとも彼自身のものであるのか、遠目には判断はつかない。

だが……その瞳には光がないことだけははっきりと分った。
心ここにあらずといった様子で、無表情のままぼうっと辺りを見渡している。
己を取り囲む敵が襲い掛かってきても、そちらにはちらりとも目をくれない。
気配だけで、まるで目障りな虫でも払うが如く、一閃するのだ。
趙雲はただそれを繰り返していた。

「子龍!」
馬超がその名を呼び、趙雲の元へと駆け付ける。
そのまま手にした槍で趙雲の周りに群がる敵を一気に蹴散らす。
途端に、しんと辺りが静まり返る。
馬超は神経を研ぎ澄ませ、気配を探るが、もう周囲に敵が潜んでいる様子はない。
敵の本隊まではまだ距離があるようだ。

ようやく馬超は小さく息を吐き出す。
一方趙雲は周囲に視線を彷徨わせ、傍らの馬超の方を見ようともしない。
「子龍!!」
再度馬超は強く呼びかけ、趙雲の肩を揺さぶった。
するとようやく彼はゆるゆると馬超へと視線を移す。
だが相変らず趙雲にはどんな表情も浮かんではいなかった。
ぼんやりと馬超を見つめているだけだ。

「深追いするなという丞相の命を忘れたか?
我らも退くぞ、子龍」
すると馬超の言葉に趙雲はやっと反応を示す。
微かに首を傾げたのだ。
その意味が分からぬことを示すように。
「退く……?
何故だ……?
まだあの方のお姿が見当たらぬのに」

馬超の怒りはそこで頂点に達した。
「お前は一体いつまでそうやって呆けているつもりだ!
いい加減目を覚ませ!
ここは戦場だぞ!」
それをぶつけるように馬超が怒鳴り声を上げる。
きつく睨みつけてもなお、趙雲はそれを全く意には介してはいないようだ。
馬超から視線を外し、また周囲へとそれを向ける。
何かを……誰かを―――探すように。

このままでは一向に埒があかない。
苛立たしげに馬超は舌を打つ。
これ以上敵を刺激するのは得策ではない。
何と言ってもこちらは二人なのだ。
しかも今の趙雲は正常な状態ではない。
本気で反撃に転じられれば、終わりだ。

そんな馬超の心のうちなど知る由もないのか、趙雲は敵を追うように馬をゆっくりと進ませる。
「待て!子龍!」
馬超は慌てて趙雲の前に滑り込み、行く手を阻んだ。

すると―――
茫としていた趙雲の表情が初めて動いた。
眦が上り、瞳がすっと険を帯びる。
「何故、邪魔をする……?
そこを退け」
言うや否や、手にした槍を馬超に向けて薙ぐ。
―――っ!」
突然の攻撃を、寸でのところで馬超は己の槍で受け、弾き返した。

それでも尚、趙雲は攻撃の手を止めようとはしない。
殺気に満ちた視線が馬超を射る。
趙雲の中で馬超は己の行く手を遮る敵と認識されたようだった。

幾度も槍が打ち合わされる。
趙雲の攻撃に容赦はなかった。
本気で馬超を排除しようと、槍を振るってくる。

だがこのままここで決着をつけるまで、味方同士の不毛な争いを続ける理由などあるはずもない。
「子龍…っ!
ここにはいない!
あの人はこんな場所にいない!」
趙雲の攻撃を凌ぎつつ、馬超が声を上げる。

―――
趙雲の槍の動きがぴたりと止まった。
今まで発した馬超のどんな言葉よりも、それは効果を発した。
急激に趙雲から発せられる殺気が消え失せて行き、彼はまた小首を傾げる。
「いない……?」
同意を示すように馬超が頷くと、趙雲はゆるゆると槍を下ろす。
同時に趙雲は表情を失くし、瞳に宿っていた光も無くなった。

「だから早く陣に戻れ」
幼子を諭すような調子で、馬超は自陣のある後方を指差す。
そこに至ってようやく趙雲は馬を反転させた。
相変らずぼんやりとした様子ではあったが、馬超が指し示す先へと進み始めたのだった。

その背を見送りながら馬超は大きく息を吐いた。
どうにか趙雲の暴挙を止めることが出来た。
しかし安堵よりも苛立ちの方が遥かに大きい。
そうしてそれよりをも上回る如何ともし難いやるせなさが、馬超を支配していた。

―――どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

自問しながらも、その理由を本当は馬超自身よく知っていたのだけれど。
そう問いかけずにはいられなかったのだ。





単騎で敵を追った趙雲と共にようやく自陣へ戻った馬超は、己の幕へと趙雲を引き摺るように連れて行く。
趙雲はただ馬超のされるがままになっていて、抵抗する様子もない。
そうして幕に入ると同時に、握り締めた拳で、馬超は手加減することなく趙雲を殴り飛ばしたのだった。

趙雲の身体はその反動で地面に叩きつけられる。
慌てたのは、陣幕の中にいた馬岱だった。
「兄上!?どうぞお鎮まり下さい!」
倒れ伏した趙雲の元へ駆け寄り、膝を付く。
「そこをどけ、岱」
昂ぶる気は一度趙雲を殴っただけでは到底治まらないのか、馬超は怒気を含んだ目で二人を見下ろす。

「お前は何度同じことを繰り返せば気が済む、子龍!」
ゆっくりと手を突き、趙雲は身を起こす。
馬岱が趙雲の肩に腕を廻し、それを助けた。
「大丈夫ですか?趙将軍」
馬岱は気遣うように優しく問いかける。
だが答えはない。

趙雲はその場に座り込んだまま、辺りに視線を彷徨わせる。
馬超に殴られた折に唇が切れたらしく、血を滲ませていたが、趙雲は一向に気にする様子もない。
殴りつけられた頬も赤く腫れていたが、それにすら反応を示さない。

「あの方はどこだ……?」
ようやく口を開いたかと思えば、全く現状と噛み合わない台詞を発する。
それがまた馬超の怒りに油を注ぐのだ。

ぐっと馬超は拳に力を込める。
引き上げるように、一方の手で趙雲の胸倉を鷲掴む。
「兄上!」
振り上げた馬超の腕を、馬岱が必死の思いで掴む。
「離せ!」
己の手を振り解こうとする馬超の腕を、馬岱は懸命に力を込めそうはさせまいとする。

「お止めください、兄上!
趙将軍は今普通の状態ではないのです!
兄上とてそれは充分に分かっておられるでしょう?
ですから、どうか……」
「だから全てを赦せというのか?
ふざけるな!
一体これが何度目だと思っている!?」

趙雲が戦場で命を無視し、単独行動に走ったのは今回が初めてではなかった。
今回と同じことがもう幾度もあったのだ。
その度に、馬超は駆け回る。

光を失った空虚な瞳で。
幽鬼のように戦場を彷徨う。
趙雲の姿を探して―――

「趙将軍は心を病んでおられるのです。
いくら兄上が殴ったとて、今の趙将軍には何も届きますまい。
何卒ご容赦下さい」

何も届かない。
その言葉が馬超の胸を刺す。
けれどそれは確かな真実なのだろう。
今の趙雲にはどれだけ言葉を尽そうとも、痛みを与えてみても、正常な反応が返ってくることはないのだ。





心が壊れてしまっているから。





馬超は趙雲の胸倉を掴んでいた手を離す。
支えを失った趙雲はそのまま再び地に膝を付く。
馬岱はほっと息を吐くと、押し止めていた馬超の腕を離し、趙雲の傍へと寄る。

「さぁ、趙将軍、ご自分の幕へ帰りましょう。
あの方はここには居られないのですよ……。
ですから、今はゆっくりとお休み下さい」
幼子に言い聞かせるように優しく馬岱は言い、趙雲を立ち上がらせる。
そのまま趙雲の手を取り、馬岱は馬超の幕から出て行く。

幕の中にただ一人残された馬超は、そのまま崩れ落ちるようにがくりと膝を折る。
そうして、何度も何度も、地面へと拳を叩きつけた。
それを繰り返すうち手から血が流れ出そうとも止めようとはしなかった。
「……くそっ!」
己の中で渦巻くやるせなさを発散させるが如く。





あの日から歯車は狂い始めた。
一人の男がこの世を去ったあの日から。
趙雲の中で静かに崩壊は始まっていたのだ―――




(続)





written by y.tatibana 2005.06.25
 


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