兄弟


「牙琉検事にとって、牙琉霧人さんはどんな存在でしたか?」
仕事の後待ち合わせをして、立ち寄ったレストランの席で、響也は法介に唐突にそう問い掛けれられた。
響也は驚いて一瞬目をしばたたいた。
突然何を言い出すのだろうかと。

法介の中に突き刺さっていた牙琉霧人という存在と決別できたのだろう出来事があったのは、然程前のことではない。
だが、本当は決別できたのだと思っているのは響也だけで、法介の中には未だ彼の存在は棘になっているのだろうか。
そして法介の中で痛みと共にその存在を主張し続けているのか。
だから霧人のことが気になり、そんな問いかけを口にしたのだろうか。

しかし法介はすぐに響也の戸惑いを読み取った様子で、慌てて首を振った。
「あっ、いえ、別にあの人のことが忘れられないとか、まだ信じているとかそういうことではないんです。
ただ兄弟ってどういう感じなんだろうなぁ……って思って」
その言葉に嘘はないようだった。
思えば霧人の存在が抜けない棘となっていた頃の法介は、霧人の名前を響也の前で口にすることはまずなかった。
それが今さらりと、なんでもないことのように出るということは、やはり乗り越えたということなのだろうと、響也は認識する。
無意識のうちにほっと響也は息を吐き出した。

「今日通りかかった公園で幼い兄弟が掴み合いの喧嘩してたんですよね。
で疲れ果てたのか、二人はふんって感じで顔を逸らして、別々の場所で遊び始めたんです。
そしたらちょっと体の大きい別の子がやって来て、片方の子のことをからかいだしたんです。
その時、泣き出しそうになったその子の所へ、『弟をいじめるな』って別の場所にいたもう一人が走ってきて、庇うようにして自分より大きないじめっ子の前に立ったんですよ。
その気迫に圧倒されたいじめっ子が去って行っても、兄弟の間には別に会話もなくて……でも公園から二人が帰る時、しっかりとお互いの手の握り締めてたんです。
それを見ていてなんだかいいなぁ……って思ってしまって」
響也に語りかける法介の口調は、どこか羨ましそうだった。

「おデコくんって兄弟いないんだっけ?」
響也は今更ながら法介の生い立ちについて、殆ど知らないことに気付いた。
今現在は一人暮らしで、身の回り一通りのことは自分で難なくこなしているようだということくらいしか知らない。
肉親の縁に薄いような感じは何となく感じてはいたが、法介の口から聞いたことはなかった。
「ええ、いません……多分」
響也の問い掛けに、法介はあいまいな答えを返す。
別に隠そうとしている節はなく、本当にそう言うしかないという感じだ。

どうしてそんな答えになるのか不思議で、響也は首を捻った。
「多分って?」
「うーん、オレ、ミナシゴなんで、親の顔も知らないんですよ。
もしかしたら兄弟がいるのかもしれませんけど、物心ついた時には一人だったんで……」
驚いて瞠目する響也とは対照的に、さらりとそう言った法介の口調は、至って平静だ。
辛かったのだとか寂しかったのだとか、そんな雰囲気は微塵も伺えない。
家族のことは、彼の中ではもう消化されていることなのだろうか。

「ごめん」
とはいうものの、あまり自分から触れたい過去ではないだろうに、それを言わせてしまったことに対し、響也は素直に詫びる。
「えっ!別に牙琉検事に謝ってもらう必要なんてないですよ!
元はといえばオレが言い出したことなんですし……。
オレの方こそお兄さんのこといきなり聞いてしまってすみません、話したくなければ別に―――
「ぼくのアニキは七年前に死んだよ」
響也は法介の言葉を静かに遮った。

別に話したくない訳ではない。
響也の中ではもう決着のついてることだ。
ただ現在、中央刑務所に収監されている牙琉霧人という名の男について語るべきことはない。
今彼に対して胸の中にあるのはただ激しい憤りだけだ。

「まぁ、その死んだアニキに関して話すとすれば、ザンネンながらおデコくんが今日公園で見たっていう兄弟のような感じじゃなかったよ。
随分と歳も離れてたし、取っ組み合いのケンカとかそういうのは全然なかった。
そうだね―――ぼくにとってアニキは、反発と憧れの対象だったかな」
法介にとっては実に意外な台詞を聞いた気がした。
いつでも過剰なほどに自信に溢れている響也から、「反発」や「憧れ」という単語が出てくるとは。

「意外かい?」
法介の表情を見て、響也は小さく笑う。
「こう見えても、昔は大人しくて、アニキの影に隠れているような人間だったんだよ。
アニキは昔から頭も良かったし、周囲の人間とも如才なく付き合える優等生タイプだった。
アニキは歳の離れたぼくを可愛がってくれたよ……。
ぼくはぼくで、優秀で優しい非の打ち所のないアニキに純粋に憧れていたさ」

幼い響也の目には、霧人の存在は眩しいくらいに輝いて映った。
霧人が自分の兄であるということが誇らしかった。
だから、そんな兄に恥をかかせてはいけない、弟して相応しくなければならないと、響也もまた勉強に励んだ。
兄霧人のようになりたかったのだ。

「でもさ、ぼくが頑張れば頑張るほど、アニキの心は離れていくようだった。
イイ成績を取ったりすると、良く頑張りましたねって褒めて微笑んでくれるけど、何故だかアニキの瞳は冷たく光ってた。
ある程度大きくなってからそのイミに気付いたよ―――アニキにとってぼくは玩具の人形みたいなものだったんだってね。
意思を持たない人形は、自分の思い通りに操れるけど、意思をもってしまえば最早それは人形じゃないんだ」
そう結論付けるに至って、当時の響也は愕然とした。
霧人は自分のことを弟として純粋に可愛がってくれていたのではなかったのだ。

あの時はそこまでしか考えられてなかったが、今なら響也は分かる。
霧人は自分のことを、都合のよい駒に仕立てあげようとしていたのだと。
新人の法介を雇ったのと同じ理屈で、いざという時に自分の身代わりとなるような。

「アニキを知る人間は、必ずぼくにこう言った―――『あの霧人君の弟さん』ってね。
ぼくには響也っていう名前があるのに、ぼくはいつもアニキの付属品だった。
そうして段々アニキに反発を覚えるようになって、アニキを通してのぼくしか見ない周囲には嫌気が差し始めた。
このぼくにだってシシュンキってやつはあったんだよ、おデコくん」
茶化すように言って、響也は肩を竦めた。
「検事になったのも、ロック歌手になったのも、アニキとは正反対の存在になりたかったからだ。
アニキは知っての通り弁護士で、クラシックしか聞かない人だったからさ。
子供じみてると思うかもしれないけど、ぼくはそんな風に反発をしながらも、心の底ではやっぱりアニキに憧れ続けていて、いつか越えてみたかったんだろうな」

こんな話は、もちろん今まで誰にもしたことはない。
子供っぽくて、みっともないという自覚があったからだ。
しかし、法介の前でなら素直に話せた。
弱さも醜さも脆さも―――法介になら曝け出せる。

以前成歩堂が法介がありのままの自分を見せられるのは、響也だけだと言ってくれたことがる。
それはしかし響也も同じなのだ。
特別な存在の前では、いつも格好良くいたいと思うと同時に、弱い部分も偽らずにみせたいと思う。
今、法介はそんな響也の想いを受け止めるように、穏やかに微笑んでくれている。
いつもならあまり見せてくれない表情だ。

「アニキは人形じゃなくなったぼくのことを、憎んでいたみたいだね。
七年前のあの事件……もしアニキがあのまま弁護をすることになっていたら、あの証拠品を使って、初法廷に立ったぼくを完膚なきまでに叩き潰すつもりだったんだ。
どう頑張ったとてアニキには絶対に勝てない―――そう思い知らせるために」
結局兄弟対決は実現されることはなかったが、良いようには使われてしまった。
すっきりとしないまま終わったあの七年前の事件は、響也の心に影を落とし、響也は検事としての仕事よりも音楽に力を入れるようになった。
霧人はその間に法曹界で知らぬものはいない程、凄腕の弁護士として名を馳せた。
まるで響也に力の差を見せ付けるかのように。

「きっとあの人も、牙琉検事のことが怖かったんじゃないでしょうか?」
法介は曇りのない綺麗な瞳で、まっすぐ響也を見つめる。
「えっ?」
「アナタの才能が怖くて、いつ追い越されてしまうか不安だったんだと思います。
あの人もアナタに対して憧れとか反発とかがあったようにオレには思えるんです」

自分だけが一方的に兄に憧れ、恐れ、反発していたのだと思っていた。
しかし兄もまたそうだったのだろうか。
互いにもっとぶつかり合っていれば、今とは違う兄弟の関係を築くことができたのだろうか。
もうそれは今更詮無きことだけれど……。

「ぼくはもう心の中にいるアニキを追わなくてもいいのかな」
ぽつりと呟いた言葉に、法介は笑った。
「アナタはアナタです。
どんなに頑張ってもお兄さんにはなれません。
牙琉響也という唯一の存在です」
昔からずっと欲しかったその言葉。
兄の付属品でも、その影に隠れるような存在でもない―――ただの牙琉響也という存在を認めてもらいたかった。
どうしていとも簡単に法介はそれをみぬいてくれるのだろうか。

「兄弟が欲しいのなら、ぼくのことを兄さんって呼んでみるかい?」
照れ隠しのつもりで響也が唐突にそんなことを言うと、法介はぶんぶんと心底嫌そうに首を振る。
さっきまでの柔らかな笑顔はもうどこにもない。
「図体と態度のデカい兄なんかより、どうせなら、可愛い妹が欲しいです」
「失礼だなぁ……おデコくん。
こんなに優しくて包容力のあるこのぼくが兄になってあげると言っているのに。
ぼくのファンが聞いたらソットウするよ!」
ぶつぶつと不満気に響也は口を尖らせながらも、思い直したように微笑んだ。
「でもまぁ……やっぱりおデコくんと兄弟になるのはダメだよね。
コイビト同士ですることがしたいからさ……ハグとかキスとかセッ……」
「わー!」
最後まで言わせてはもらえず、慌てて身を乗り出してきた法介に、響也は口を手で塞がれてしまう。
場にそぐわない法介の大声に、周囲に居た客が一斉にこちらに注目する。

「すみません、すみません」と顔を赤くしながら、周囲に頭を下げる法介が今すぐ抱きしめてキスしたい程可愛いなんて言ったら間違いなく殴られるだろうなと、響也は胸の中で呟く。
こちらが赤面するようなことをさらりというくせに、未だにこの手の会話やら行為には慣れないのが不思議だ。
でもまたそこが可愛いと思ってしまうのは、惚れた欲目というものだろうか。



2011.10.10 up