Change The World


上昇を続ける検事局内のエレベータが止まり、目の前のドアが開く。
その先のフロアに一歩足を踏み入れた瞬間に、視線の先に見知った男の姿を見つけて、法介は足を止めた。
検事局にはあまり似つかわしくない遠目に見ても目立つ容姿―――牙琉響也だ。
誰かと話をしている。
相手の方は法介の顔見知りではない。
くたびれた緑色のコートを羽織った体格の良い男だった。

響也の表情は法介があまり見ることのない真剣なもので、そこから恐らく仕事の話をしているのだろうと察せられた。
(ちゃんとああいう顔も出来るんだな)
思わず、法介は心の中で苦笑とも呆れとも取れる呟きを漏らす。
普段、法介と対峙している時の響也は穏やかな笑顔でいることが多いから。
それとも子供のようにツマラナイ我儘や愚痴を言って、駄々をこねるかだ。

そんな響也に声を掛けるべきか、止めるべきか、法介は迷う。
別段響也に用事があって、検事局に足を運んだ訳ではないのだ。
仕事の邪魔をしても悪い。

しかしそんな法介の逡巡を他所に、響也の方も法介の姿に気付いたらしい。
視線が法介とぶつかると、先程までの引き締まった顔は一変し、ぱぁっと破顔した。
「おデコくん!」
大声で叫ぶと、響也は嬉しそうに法介の方に駆け寄ってくる。
まるで大型の犬が尻尾をパタパタと振りながら突撃してくるかのようだ。

「ぼくに会いに来てくれたの?」
響也がにこにこと笑顔で問うのに、法介は素気無く首を振った。
「違いますよ。
オレは……」
「そんなに照れなくてもいいんだよ、おデコくん!
相変わらず恥ずかしがり屋さんだねー」
法介の台詞を遮って、響也は一人納得したようにうんうんと頷く。
「いや……だから、ちが……」
「分かってるよ、キミの本心はさ。
わざわざ来てくれて嬉しいよ」
と、全くの馬耳東風状態なのだった。

(ヒトの話を聞けよ!)
この男に対する心の中での突っ込みは、最早法介の日常茶飯事となっている。
実際に口に出して言ったところで、今のようにこちらの言葉を全く聞いていないか、一向に堪えないかのどちらかなのだ。

「あのー……」
そんな二人の背後から、控えめに掛けられる声がある。
振り返れば、先程まで響也と話していたコートの男が申し訳なさそうに立っていた。
「あっ、すみません!
割り込むようなことをしてしまって……」
法介は慌てて謝罪する。
意図した訳ではなかったが、結果的に二人の会話を邪魔することになってしまったから。

「イヤ、自分のことは構わないっスけど、早く行かないと雷が落ちるっスよ」
コートの男は、ちらちらと響也へ視線を投げかける。
響也は途端に不機嫌そうにむぅっと口を曲げる。
「怒られるとでもいうのかい?
このぼくが?
急に呼びつけてきたのは向こうだろう?」
「そ、そうなんスけど、上司な訳だし……あの人、時間には厳しいっスから……」
大柄な外見に似合わず気弱そうな口調だ。
「ぼくは今、おデコくんと話すのに忙しいんだ。
邪魔をしないでくれ」
理不尽にも不機嫌モードに突入した響也に、相手はオロオロするばかりだ。

しかし今のやり取りで、法介にも大方の事情は呑み込めた。
というほど大げさなものでもないが―――要は、響也は上司に呼び出されているにも関わらず、ここで油を売っているということなのだろう。
なのにこの態度の大きさはどういうことだ。
響也らしいといえばそうなのだが、ここは検事局であり、彼の職場なのだ。
どう考えても、響也が悪い。

「検事……オレ、公私の区別が出来ないヒトは大嫌いです」
大嫌いの部分を殊更に強調して、法介は響也を睨んだ。
そしてそれは驚くほどの効果を上げた。
「ダイキライ……」
呆然と呟くと、それまでの不遜な態度はどこへやら、響也は今度はしおしおとうな垂れていく。

真面目だったり、笑ったり、不機嫌だったり、哀しんだり―――と、忙しい男だ。
法介は思わず溜息を吐く。
それがまた響也の表情を曇らせた。
かと思うと、今度は急に顔を上げた。

「っていうことは、仕事がきっちりデキる男は大好きってことだよね!?
分った、すぐに仕事を片付けてくるから―――もちろんパーフェクトにね!
待っていておくれよ、おデコくん!
終わったら一緒に食事に行こう!」
なんという立ち直りの速さか。
しかも話が法介の想像の及ばないほどに思い切り飛躍している。
「えっ?ちょっ……待っ……!」
高らかに宣言した響也は、法介の制止に耳を傾けることもなく、くるりと踵を返した。

「牙琉検事!アンタ……いい加減、人の話を……」
それでも法介が異議を申し立てれば、響也は肩越しに振り返る。
「キミの気持ちは分かってるってば。
愛してるよ、おデコくん」
全く法介の気持ちを理解していない言葉と、キザなウィンクを残し、響也は突き当たりにあるドアの向こうに消えた。
残された法介は最早呆然と立ち尽くすしかなかった。

「あのー……」
再び控えめに声を掛けられたことで、法介ははっと我に返る。
(今の完全に聞かれた……よな?)
法廷ばりの冷や汗がダラダラと法介の頬を伝う。
顔を赤くしながら、わたわたと慌てて手を振った。
「あ、いえ、さっきの台詞に深いイミなんてないんですよ!
あはは……あの人にとって愛してるなんて挨拶みたいなものなんで……困りますよね、こんなところまで芸能人感覚で」
法介の引きつった愛想笑いに、
「大変っスね、アンタも……」
と、コートの男は憐れみの眼差しを寄越す。

男が響也の言葉をどう捕らえたのかは謎だが、法介に対して心底同情しているように見えた。
(見ず知らずの人にまで、同情されてしまった……)
愛想笑いを浮かべたまま、法介は諸悪の根源である響也に胸の内で毒づく。
(覚えてろよ!どうしてオレがこんなに必死で取り繕わなきゃならないんだよ!)
もうこれは法介に対する響也の嫌がらせなのではないだろうかとさえ思う。
一般常識的に、他の人間のいる自分の職場で、ああいった不埒な言動はしないだろう。

ふつふつと怒りを募らせる法介の隣で、それに気付いていない男は、響也が入っていたドアの方を見つめていた。
「すぐに片付けるって言ってたっスけど、しばらく時間が掛かると思うっスよ。
あの人、時間にも厳しいっスけど、書類のチェックはもっと厳しいっス。
あの人に妥協という文字はないッス。
すごく細かいところまで突っ込まれるんで、牙琉検事といえども、なかなか解放してもらえないと思うっス」
「はぁ……」
あの人とはどうやら響也の上司のことらしい。
響也の上司なのだから、相当の切れ者なのだろう。
そうでなければ、あの響也を扱える筈がない。

「でも、牙琉検事も随分変わったっス」
「変わった?」
ぽつりと漏れた男の呟きに、法介は思わず聞き返してしまった。
「七年前の……検事になりたての頃は、もっと尖がった感じだったっス。
態度が大きいのは今も同じっスけど、なんていうかあの頃はイキがっていながら、ピリピリしてるようにも見えたっス。
周囲の誰も信じていないっていうか……。
で、あの裁判の後は検事の仕事よりも、音楽に力を入れて―――素行も随分問題になったりもしたっスよ……その……異性関係の方で……」
そこではたと我に返ったのか、しまったという風にコートの男は口に手をあてた。
「あっ!今のは牙琉検事には言わないで下さいっス。
減俸っス!」
そんな大げさなと法介は苦笑するが、男の必死な様子に法介は頷いた。
それを見て、男はほっと安堵したように、肩の力を抜く。

七年前の響也。
もちろんそのころ自分は法曹界にはいなかった訳で、当然当時の彼のことは知らない。
男の言葉から想像するに、相当生意気な新人検事だったのだろう。
そしてその頃から女好きだった訳か。
けれど、それが今と違っているかと言われれば、そうでもないように思う。
今でも無意味に自信過剰であるし、人の話は聞かないし、不遜な男だ。
ファンの女の子に黄色い声援を受けては、「モテる男は辛いよね」などと満更ではない様子で嘯く。
つまり別段昔と変わっていないだろうという結論に達する。

法介がそう告げても、コートの男は「全然、違うっスよ」と首を振った。
「雰囲気がまったく違うっス。
トケドケしくて近寄り難い感じだったのが、今ではものすごく柔らかくて、話やすくなったっスよ。
昔はもっと作った笑顔で、さっきアンタに見せたみたいな顔は絶対にしなかったっス。
あんなに派手だった女性関係も今ではすっかりッス。
女の子にキャーキャー言われて芸能人スマイルは振りまくんスけど、食事に誘っても絶対に首を縦には振らないそうっス。
検事局の女の子達が落胆して、ぼやいているのを耳にしたっスよ。
大切な人がいるからと牙琉検事が言ったとかいないとか……それって誰のことなんスかねー?」
言いながらも、男は横目で法介の方をチラチラと見てくる。
さきほどの「愛してるよ」などという響也の言葉のせいで、法介を疑っているのかもしれない。
「さ、さぁ……?」
内心どきりとしながら、法介は惚けるしかない。

「コラッ!
他の男と何を親しげに話してるんだい!
ぼくの職場で浮気とはイイ度胸だね、おデコくん!」
突然割って入った声は、姿を確かめるまでもなく響也のものだった。

先程入ったドアから姿を見せた響也は、つかつかと二人の方まで足早に近付いてくる。
「う、浮気って……アンタね―――」
親しげも何も、少しの間話をしていただけだ。
というか、法介は男が話すを聞いていただけに等しい。
それを浮気とは、一体響也の頭の中はどういう構造になっているのだろうか。
理解に苦しむ。

しかし相変わらず法介の言葉を待たずに、響也は法介の腕を掴むと、引きずるように歩き出そうとする。
「わーっ!何処に連れていくつもりですか!」
「決まっているだろう、食事だよ。
さっき仕事が終わったら、食事に行こうって約束しただろう?」
「約束って―――アンタが勝手に決めただけでしょうが!
ちょっと、離せって!」
暴れる法介と、それを押さえ込み連れ去ろうとする響也との間で、コートの男はどうしたらいいのかと困惑顔だ。

「あの……牙琉検事……随分早かったッスけど、まさか抜け出してきたなんてことは……」
男の言葉に、真っ先に反応したのは響也ではなく法介だった。
確か響也の上司は仕事に厳しく、きっと時間が掛かるだろうと男は言っていた。
なのに、響也は然程時間を置くことなく、部屋から出てきたのだ。
「アンタ、仕事を放ってきたんですか!?」
それが法介と食事に行く為なのだとしたら、公私混同甚だしい。

しかし響也は心外だというふうに眉を吊り上げた。
「ぼくがそんなことするハズないじゃないか!
きっちり完璧に報告すべきことはしてきたよ。
仕事はきちんと終わらせたんだから、文句はないよね?
さ、じゃあ行こう」
一方的に宣言して、響也は再び法介の身体を引き摺っていく。

だが法介はやはりそれに抵抗した。
「オレはまだ用事が済んでいないんです!
この本を返してくるように成歩堂さんに頼まれたんですってば!」
法介は小脇に抱えていた本を、響也に突きつけるようにして叫ぶ。
が、成歩堂の名前が出た瞬間に、響也の表情はあからさまに不快さを表す。

法介の手から引っ手繰るように響也はその本を取ると、オロオロとするコートの男に歩み寄り、それを手渡した。
「えっ?」
驚く男を尻目に、響也は「よろしく頼むよ」と平然と言う。
「よろしくって……」
「キミから返しておいておくれよ。
おデコくんは忙しいんでね」
一方的にそう言い付け、響也は今度こそ本気で法介を連行していく。
力では叶わない法介は、大声で抵抗してみせるが、響也は当然の如く聞いていない。

そのうち無情にエレベータの扉は開き、響也は法介を押し込むようにしてその中に消えた。
ドアが閉まると、検事局内には不釣合いな喧騒は消え、辺りに静けさが戻ってくる。
「一体……誰に返すッスか……」
途方にくれたように、取り残された男は呆然と呟く。

その時、先程響也が入っていったドアが開かれ、中から響也の上司が姿を現した。
整った顔立ちの、ヒラヒラとしたタイをつけた男だ。
「騒々しいと思ったら、牙琉響也か……まったくあの男には困ったものだな。
ム……?」
男はコートの男が手にした本に目を留め、そういうことかと頷いた。
「それは私の本だな。
今朝成歩堂から、事務所の人間を使いにやると聞いていたが―――そうか、彼が来ていたんだな」
「そうッス。
だから牙琉検事、エラく張り切っちゃって―――」
「本当に困った男だ。
ここを何処だと思っているのだ」
響也の上司である男は、深々と溜息を吐き出した。

「本当に牙琉検事、仕事抜け出した訳じゃないんスか?
随分早かったッスけど……」
「あの男は困ったものだが、仕事に関しては至って真摯で真面目だ。
今日は彼が来ていたからだろうな―――いつも以上に理路整然と提出された書類の説明を受けた。
さすが天才と言われるだけのことはある。
この私が口を挟む隙もなかったからな」

彼が響也のことを高く評価していることを、コートの男は知っていた。
そして七年前からあの弁護士の青年に出会うまで、響也が主に素行面で問題を起こした時に、周囲に取り成し続けてきたことも。
すべては響也の検事としての才能を買っているからだろう。

「しかしあの男も随分と変わったものだ。
―――良い方向にな」
響也の上司は、誰に言うともなく呟いて、微かに微笑んだ。
しかし、コートの男はそれを聞き逃さなかった。
「一緒ッスね」
「ム……な、なんのことだ?
私はまだ仕事が残っているので、失礼させてもらおう」
僅かに動揺した素振りを見せつつも、男は本を受け取ると、再びドアの向こうに消えた。

「検事と弁護士が惹かれあうのは、運命なんスかね」
そんなコートの男の呟きは、誰に聞かれることもなかった。



(終)



2011.01.30 up