大切
携帯の時刻にちらりと目を走らせ、法介は走る。
(ヤバイ、完璧に遅刻だ)
法廷後の書類作成等事後処理に手間取って、裁判所を出た時点で既に約束の時間を過ぎてしまっていた。
ここしばらく今日で終わったその審理に掛かりきりだったから、ゆっくり会えるのも久々だというのに……。
響也はそのチャラチャラとした外見に似合わず、真面目だ。
当然時間にもきっちりしている。
恐らく響也は遅れることなく、既に待ち合わせ場所に到着していることだろう。
本当なら今日は映画を観て、食事して―――という、所謂デートする約束だったのだ。
法介とは別件だったが、響也も受け持っていた案件がひと段落したからだ。
互いに忙しい合間を縫って……といっても、大抵は響也の方が多忙なのだが―――時折顔は合わせていたが、落ち着いて会うことはずっと出来ず仕舞だった。
法介の脳裏に、不機嫌そうな響也の表情が過ぎる。
嫌味の一つ二つで済めば良いが、きっとそうはいかないだろう。
今日は自宅に帰らせて貰えるだろうかという疑問が浮かぶが、それは難しいだろうと法介は自身で諦めにも似た答えを出す。
響也の機嫌を損ねると、彼は法介をいつも以上に求める。
普段は翌日に仕事があればある程度セーブしてくれるのだが、そういう時の響也は法介の体力の限界まで離そうとはしなくなる。
そんな次の日は、大抵法介は腰の鈍痛に耐え、よれよれになりながら、成歩堂の事務所に向かうことになるのだ。
(ううっ……)
この先のことを考えて憂鬱な気分に襲われつつも、法介はひたすらに走った。
一分一秒でも早く待ち合わせ場所に着かねば、響也の機嫌は悪くなる一方だろう。
待ち合わせしていた映画館の入口が、ようやく見えてきた。
遠目からでも分かる。
響也が腕を組んで、柱の前に立っているのが。
サングラスをかけているが、すらりと均整の取れた長身の身体に、鼻筋の通ったその顔立ちは、人目を惹くのに充分だった。
響也の傍を通り過ぎる女性達は皆、彼のことをちらちらと見ていくが、響也は人目を避けるでもなく平然とそれを受けている。
「す、すみません!牙琉検事!」
響也の前に立った法介は、まずはぺこりと頭を下げる。
ここまで全力疾走してきた為に、息が乱れ、冬だというのに額には汗が滲む。
「おデコくん……」
案の定、響也の声は険を帯びていた。
法介が顔を上げると、濃いサングラスのレンズ越しに、響也の声と同じ不機嫌さを滲ませた瞳とぶつかる。
「このぼくをこれだけ待たせるとは、マッタク恐れ入るよ。
時は金なりってコトバを知ってるかい?
ぼくのジカンをムダにさせたっていうのは、社会的……いや、世界的ソンシツだね。
当然、今日はそれなりのカクゴはできて……」
言いかけて、途中で響也は突然言葉を切る。
小首を傾げる法介の顔をじっと見つめていた響也は、やがて深々とした溜息を吐き出した。
「―――今日の予定は全部キャンセルだ」
突然そう言い切った響也に、法介はきょとんと目を瞬いた。
映画も次の回なら間に合うし、響也が予約したというレストランも目と鼻の先だ。
久しぶりに二人で過ごせることを、待ち合わせに遅れはしたが、法介自身とて楽しみにしていた。
しかしそれを全て取りやめるとは、響也にとっては然程今日の予定は重いものではなかったのだろうか。
それよりも法介に待たされたことの方が、腹に据えかねているのか。
全ては遅れた自分のせいだというのに、法介はそれを棚に上げて、自分勝手に響也を責めてしまいたくなる。
法介の想いが顔に出てしまっていたのだろう―――響也はまたも呆れたように溜息を落とす。
「おデコくん……キミ本当にニブいね……。
何かカンチガイしているようだけど、ぼくだって今日は楽しみにしてたんだよ。
でも仕方ないじゃないか。
キミの体調がワルいのに、キミを連れまわす訳にはいかないよ」
「はぁ?」
「だからニブいっていってるんだよ、おデコくん。
自分で気付いていないのかい?
キミ……熱があるよ」
そう言われても、法介は首を傾げるばかりだ。
別に風邪をひいている訳でもなし、身体がだるいといったこともない。
響也はそんな法介の手を取ると、法介の額へとそれをもっていった。
「あ……」
思わず、法介は短く声を漏らした。
体温計を使わずとも、掌から伝わってくる熱さが尋常ではない。
響也に指摘され、こうして実際に額に手を当てるまで、法介は自分が発熱していることに気付かなかった。
反対に響也は触れずとも法介が熱があることを察してしまったのだから、不思議だ。
「オレ……大丈夫ですよ。
熱はあるみたいですけど、別に身体が辛い訳でもないですし」
やせ我慢でも意地をはっているのでもない。
なにせここまで走ってこれたくらいなのだ。
「なので、オレのせいで予定は狂っちゃいましたけど、映画観ましょう。
お勧めのお店も紹介してくれるんでしょう?」
法介としては当初の計画通り、デートしたかった。
この機会を逃すと、またいつこうやってゆっくり会える時間を持てるか分からない。
法介は響也ほど愛情をストレートに表すことはどうしても出来なかったが、その気持ちが軽いということは断じてない。
法介とて好きな人と一緒にいて、楽しい時間を共有したいのだ。
それが自分の体調のせいでふいになってしまうことは嫌だった。
しかし、響也は頑として首を縦には振らなかった。
「ダメだ、おデコくん。
キミの大丈夫はさ、いつも自分に言い聞かせているみたいで、マッタク説得力に欠けるんだよ」
「でもオレ、本当に……」
「映画や食事はいつだって行けるけど、キミに何かあれば取り返しがつかない。
ぼくはキミの身体のことの方がシンパイだよ。
ね?イイコだから聞き分けておくれよ」
小さな子供に諭すような言い方だったが、響也が決して自分を馬鹿にしているのではないことは感じた。
心底心配してくれているのだと。
「分かり……ました」
頷かないわけにはいかなかった。
それを見て、響也は安堵の息を漏らす。
ポンポンと軽く法介の頭を叩いた後、響也は通りに向けて手を挙げ、丁度通りかかったタクシーを停めた。
響也のマンションに連れてこられた法介は、有無を言わさずパジャマに着替えさせられ、ベッドに寝かしつけられた。
体温計を渡され計ってみれば、やはり八度を越える熱があった。
「風邪なんて引いてないのに、オカシイなぁ……」
法介はベッドの中で納得いかないように呟く。
水枕を用意して部屋に入って来た響也は、それを聞いて小さく笑った。
「別に熱が出る原因は風邪ばかりじゃないだろう?
多分ここしばらく裁判のせいで、気持ちが張り詰めていたせいだよ。
ようやくそれが終わって、キンチョウの糸が切れてしまって、熱が出たんじゃないかな。
おデコくんは熱中すると周りが見えなくなるタイプだからなぁ……それにまだ新人なんだしさ、気が張るのはトウゼンだと思うよ。
……ちょっと子供みたいだけど」
「悪るかったな!
どーせオレはまだまだヒヨッコですよ!」
むっと口を尖らせる法介に、響也は「まぁまぁ」と笑いながら宥めにかかる。
「これ以上熱が上がると大変だから、そうコウフンしないでよ」
(誰のせいだよ!)
と、心の中で突っ込みつつも、響也が心配してくれているのは分かるので、法介はそれ以上突っかかることは止めた。
響也はそんな法介をよそに、持ってきた水枕を法介の頭の下に敷いてくれる。
あまり自覚症状はなかったが、そうして頭を冷やされると気持ち良かった。
水差しを準備してくれたり、掛け布団をきちんと肩口まで掛けなおしてくれたりと、響也は甲斐甲斐しく面倒を見てくれる。
「色々メイワクかけてすみません。
もし牙琉検事が体調不良の時には、ちゃんとオレが看病しますから」
法介が申し訳無さそうに言うと、響也は肩を竦めてみせた。
「ぼくは誰かさんと違って、日頃からちゃんと鍛えてるからさ。
メッタに体調を崩すことはないよ。
弱々しくベッドに臥せる姿なんて、このぼくには似合わないじゃないか―――そうだろう、おデコくん?」
法介が響也と出会ってから、一度彼が酷い熱を出したことがあったが、そんなことは最早忘却の彼方らしい。
それがなんとも響也らしい。
「何か言いたいことでもあるのかな?」
「……ベツに」
法介のもの言いたげな視線に気付いた響也がそう問い掛けるが、法介は言うだけムダだと微かに首を振った。
それに確かに響也が体調を崩したことがあるのは、後にも先にもあの一度だけだ。
それ以来寝込んだ姿など見たことはない。
「アナタって、殺しても死にそーにないですよね。
人類が全部死滅しても、アナタだけは生き残ってそうですよ、しぶとく」
嫌味も込めてそう言い放っても、あははと響也は笑うだけで堪えた様子はまるでない。
「褒めコトバと受け取っておくよ。
まぁ、この分のカリは、今日チコクした分と含めて、後日キッチリとキミに返してもらうからカクゴしときなよ」
本気とも冗談ともつかぬ口調で響也は言い、にっこりと笑う。
それが法介には悪魔の微笑みに見え、げんなりと脱力感が襲ってくるのだった。
「さぁ、もうお休み。
ぼくがついていてあげるからさ」
響也の手が法介の頬に触れる。
今ではすっかり馴染んだ響也のその手の感触が、法介をとても安心させてくれた。
悪魔だろうが天使だろうが、法介にとって響也という人は、今や法介にとって切り離すことのできない大切な存在なのだ。
額に響也の口付けが落とされたのを契機に、法介はゆっくりと目を閉じた。
そうして響也の温もりを感じながら、法介は安らかな眠りに落ちていくのだった。
(終)
2010.01.16 up