真実の代償 ACT2


響也が自宅に着いて、愛用のジャケットを脱ごうとした時だった。
携帯電話の着信を知らせる音楽が、静かな部屋に鳴り響く。
響也はジャケットのポケットから携帯電話を取り出し、ディスプレイを確認する。
そこに映し出された名前を見て、響也はふっと口元を綻ばせた。
いつもならメールなのに、電話とは珍しい。

「もしもし、電話をしてくるなんて珍しいね、おデコくん」
しかし嬉しそうに電話に出た響也に対し、
「牙琉響也検事ですね?」
電話口の向こうから聞こえてきたその声は、法介のものではなかった。
「……誰?」
低く冷たい男の声音に、響也はすぐに不穏な空気を感じ取った。

頭を瞬時に切り替え、探るように短く問う。
「王泥喜法介弁護士をお預かりしています」
「な……んだって?」
しかし、さすがの響也もすぐには言われている意味を理解できなかった。
冷静だった響也の声が僅かに乱れたのが可笑しかったのか、電話口の向こうからくぐもった笑い声が届く。
「王泥喜弁護士を……いや、貴方の恋人と申し上げた方がいいのかな……我々のところでお預かりしていると申し上げているのです」
響也は自らを落ち着かせるように一度大きく息を吸い込む。
「それはおデコくんを連れ去ったということか?
本当に彼はアンタのところにいるのか?
それにどうしてぼくと彼の関係を知っている?」
衝撃を押し殺し、響也は冷静さを取り戻しつつ、訊ねた。
ここで取り乱してしまえば、どんな情報を得ることも、判断することもできないのだから。

「さすがは検事局きっての天才と謳われるだけのことはありますね。
恋人が連れ去られたというのに、随分と立ち直りが早い。
えぇ、本当に貴方の大切な方はこちらにいらっしゃいます。
貴方達の関係に関しては、とある方から情報提供して頂いたのですよ」
言われて、響也の脳裏にはすぐにある男の姿が浮かんだ。
響也としては法介との関係を隠す必要は別段感じないが、法介はそうではないようで、二人きりの時以外は絶対に悟られないようにしてくれと堅く言われている。
だから自分達の関係を知る人間などゼロではないが、そうはいない。
数少ないその中で、法介を連れ去るような人間にそれを告げた人物となると響也に思い当たるのは一人だけだった。
「牙琉霧人か……」
「さて、それをお答えするわけにはいきませんし、第一そんなことは今は重要ではないでしょう?
違いますか?」

相手に言われるとは癪だが、確かにそうだ。
最も大切なのは法介のことだ。
「彼は無事なんだろうな?」
「こちらとしては穏便にお越しいただこうと思っていたのですが、随分と抵抗されたようで―――不本意ながら無理矢理来て頂きました。
今ここにいらっしゃいますよ。
声を聞かせて差し上げたいのですが、部下が少々手荒な真似をしてしまいましてね……気を失っておいでです。
まぁ、私が王泥喜弁護士のこの携帯電話を使って貴方に連絡したことを証拠にして信じて頂くしかありませんね」
「……」
無言のままの響也に、相手はまた低く笑う。
「信じられませんか?
随分と疑り深い―――では、彼が目覚めたらまた連絡させてもらいますよ。
我々の要求は一つです。
明後日貴方が担当する裁判で貴方が負けること―――つまり被告人を無罪にしてくれればいい。
貴方ならお分かりかと思いますが、愚かな手段には出ないように……恋人の身が大切ならね。
それでは失礼」

プツリと電話は切れた。
ツーツーという電子音だけが虚しく響也の耳に届く。

向こうも言っていたように、法介の携帯を使用していることから、彼の身に何か起こったことはほぼ間違いないだろう。
それに対して、まだまだ聞きたいことはあったのに、響也にはそれが出来なかった。
平静を取り戻したつもりであったのに、法介が手荒な真似をされて気を失っていると聞いて、心が乱れたのだ。
相手の言葉を疑って無言でいたのではなく、気が動転して言葉が出てこなかったのだ。
自分の心臓が異常なほどに激しく打っているのを感じる。
喉もカラカラに渇いていた。

不意に今日の法介の姿が甦ってくる。
久々に会えて、食事して、彼の笑顔を見れて、とても幸せな気分になれた。
もっと一緒にいたいという自分の言葉を振り切って、彼は元気に走り去っていったけれど……こんなことになるならば無理矢理にでもここに連れてくるか、送っていけば良かった。

すっと視界が歪むのを感じて、響也は壁に手を付き、己の身体を支えた。
その場に崩れ落ちてしまいたい衝動を堪え、響也は壁に置いた手を一度強く打ち付けた。
幾度か深呼吸を繰り返し、洗面台へと向かう。
蛇口を捻り、頭に勢い良く水を浴びると、混乱し、昂った気持ちが何とか落ち着いてくる。
水を止め、響也は顔を上げて目の前の鏡を見る。
(しっかりしろ!)
鏡に映る自分の姿へと、響也は叱咤する。
法介が危険にさらされているというのに、自分が取り乱していてどうするのだと。
深い後悔の念を振り切るように首を振った。

頭を切り替える。
今自分がしなければならいことは何だと自問する。
それは過ぎた時間を悔やむことではないはずだ。
「明後日の裁判……か」
小さく呟き、響也は踵を返すと、そのまま再び自宅を出た。





真夜中の街を響也はバイクで疾走する。
まず向かったのは、自身のオフィスだった。
当然響也の下で働く人々の姿はなく、暗くなったオフィスの電気をつけ、響也は室内に入る。
そうして自分のデスクから書類を探り、明後日の審理に関する資料を取り出した。
立ったまま、ぱらぱらと響也はそれを捲る。

起訴された被告は、強盗未遂および殺人容疑で逮捕された男だ。
とある会計事務所に侵入し、金庫を物色中に、忘れ物を取りに戻ってきた会計士と鉢合わせし、殺害に及んだとされている。
逮捕の決め手になったのは、二人が争った際に落ちたと思われる頭髪だった。
会計事務所の関係者の誰にも合致しなかったその頭髪をDNA鑑定した結果、前科者リストの中に該当する男が居たのである。
以前に犯した犯罪の資料としてDNAデータが残っていたいたのだ。
男は逮捕されたが、容疑は否認している。
毛髪は昼間にそこを訪れた時に落としたものだと。
そのことは確認されたが、夕方には清掃会社の掃除が入っているからその可能性は低い。
が、ないともいえない、微妙なラインだった。

裁判で相手を有罪に持ち込めるかは五分五分かと世間では見られていたが、響也には勝つ自信があった。
目撃者がつい二、三日前に現れたのだ。
丁度事件があった時間帯に、ビルから飛び出してくるその容疑者の男をはっきりと見たのだと。
なぜ事件の後すぐに証言しなかったのかと言えば、不幸なことにその証人は男と鉢合わせした直後、交通事故に遭って意識不明だったのである。
その目撃者の容態が持ち直し、テレビで事件のことを知り、警察に連絡してきたという訳だ。
明後日の法廷ではその目撃者に証言をしてもらう予定にしていた。

被告の男についてもう一つ気になる点を響也はもっていた。
男が何を目的で、現場となった会計事務所に侵入したのかということだ。
結局現金や金目の物は盗まれてはおらず、強盗未遂ということになったのであるが、響也は不自然さを抱いていた。
本当に何も盗らずに逃げたのか。
現場検証に立ち会った際、事務所の人間が「MOディスクがない……」と呟いたのを響也は聞き逃さなかった。
しかしその後の調べでは、誰も何も盗まれていないと申告したのである。

響也はここに至ってぴんときた。
(そうか……やつらの狙いは……)
男の身柄ではなく、男が事務所から盗んだMOディスクなのだ。
そしてそのディスクには決して表沙汰にできないような内容が記されているに違いない。
被告人の男が法介を攫ったという連中の仲間なのか、それとも依頼されて盗んだのかは判らない。
だが、男の手から連中へは未だディスクは渡っておらず、男の身柄が解放されない限りはお預け状態という訳だ。
だからなんとしでも男を無罪にしたいのだろう。

(おデコくん、キミならこんな時どうするかな……?)
響也は法介の顔を思い浮かべながら、心のうちでそう問いかける。
もし自分が捕らえられて、不当な要求を突きつけられたとしたら、法介は一体どう対処するだろうか。
その相手の命が掛かってれば、脅しに屈するだろうか?
それとも――――。

響也は苦しげに眉根を寄せ、「くそっ」と吐き捨てると、振り上げた拳を机へと叩き付けた。
法介の笑顔をもう二度と見れなくなったとしたら、自分はそれに耐えられるのか。
あの綺麗で大きな瞳が、永遠に開かれることがなくなっても平気でいられるのか。
ぐるぐると様々な悪い考えが頭の中を駆け巡る。
響也は頭を抑え、激しく首を振った。
またも取り乱しそうになる自分を、響也は懸命に奮い立たせた。

何とか自我を立て直し、資料を携え、響也はオフィスを出た。
そのままバイクに乗り、次に向かったのは、今日法介と別れた店の前だった。
そこから法介の自宅に向けて、響也はバイクを押しながらその道順を辿っていく。
どこかに法介が連れ去られた痕跡や、相手の正体を掴む証拠がないだろうかと。

大通りを抜け、一本脇道に入ると、途端に人通りが絶えてしまう。
どの家も明かりが消され、辺りは静まり返っていた。
法介の自宅まであと僅かというところで、響也は足を止めた。
目の端に、何か見覚えのあるものが映った気がしたのだ。

四方に目を走らせ、街頭の頼りない明かりに照らされて鈍く光る小さなその物体を、響也は見つけた。
バイクを置き、急いでその傍まで寄ると、響也はそれを拾い上げた。
それは金色のバッジだった―――表面がひまわりの花を模し、その中央に秤が配されている。
響也も良く知るそれは『弁護士バッジ』だった。

(おデコくんのだ!)
法介の自宅のすぐ傍という現状も、そして響也の直感もそれが法介のものだと告げていた。
法介がいつも身につけていた、彼の誇りと熱意の込められた彼の分身ともいうべき大切なバッジだ。
連れ去られようとした時に、相手と争い、その拍子に落ちてしまったのだろう。

響也はそのバッジを両手で包み込むようにして、ぎゅっと握り締めた。
そうするとまた法介の笑顔が甦ってくる。
懸命に己を奮い立たせていたが、響也はとうとう耐え切れなくなって、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
「おデコくん……どうか無事でいてくれ。
会いたい……キミに会いたいよ」
震える声でそう響也が呟いた時――――携帯電話が鳴った。

ディスプレイに表示されていた名前は『王泥喜法介』……法介を連れ去った相手からの再度の連絡が入ったのだ。



(ACT3へ続く)



2009.05.22 up