守るべきもの
バイクを走らせていた響也は、街中で不自然な人だかりに出くわした。
何かを取り囲むように、円形に人垣が出来ている。
響也は不審に思い、バイクを停める。
傍に居た学生らしい青年に声を掛けると、人が刺されたのだと教えられた。
既に犯人は拘束され、被害者は救急車で運ばれた直後なのだと、青年は興奮気味に語った。
それだけなら、響也はそのままその場を去っただろう。
犯人も捕まり、被害者が搬送された今、自分がここで出来ることは何もないからだ。
噂話に興じる趣味もない。
事件が起こり、その担当として自分の元に書類が持ち込まれてきてはじめて、検事として動くことになる。
この段階では、担当検事になった訳でもあるまいし、どうしようもない。
冷たいようだが、これ以上深く追求するような興味も持てない。
しかし、再びバイクのエンジンを掛けようとした響也は、ふと凍りついたように動きを止めた。
現場に残っていた警察官が、現場保存の為だろう、黄色いロープを張り出し、野次馬を整理し始める。
すると集まった人々は、バラバラと散り始めた。
そうして人垣が割れた時、離れていた響也にも、人並みに隠されていた現場がはっきりと見えた。
響也の視線がそこへ釘付けになってしまったのは、生々しい血溜りの中に小さなバッジが落ちているのに気付いたからだ。
それは響也にとっては、見慣れたもの―――弁護士バッジであった。
元は金色のそれが、今は赤く染まってしまっている。
その時、響也の脳裏を過ぎったのは、言うまでもなく王泥喜法介の姿だった。
(まさか―――)
無意識のうちに、響也はごくりと唾を飲み込む。
この世の中に存在する弁護士は、決して法介一人ではないのだ。
弁護士バッジが落ちていたからといって、それが彼の持ち物であるということはない。
そんなことは分っている。
だが―――。
(違う、彼のはずがない)
湧き上がってくる不吉な想像を、響也は懸命に振り払おうとする。
しかし同時に法介とは別の人物の存在が、響也の頭に浮かぶ。
それは自分とよく似た顔立ちの、今は刑務所の独房にいるはずの人物。
己の罪を暴いた法介のことを激しく憎悪しているあの男の姿だ。
あの男ならば、自分がたとえ独房にいようとも、巧みに人を操って法介を傷付けることも可能なように思えた。
響也の只ならぬ様子に、まだその場に留まっていた先程の青年が戸惑ったように声を掛けてくる。
「どうしたんですか?
顔色……真っ青ですけど……」
その青年の胸倉を、響也は乱暴に掴んで引き寄せる。
「刺されたのってどんな人?」
突然の暴挙に青年は驚いたようだが、響也の切羽詰った雰囲気に気圧されるように首を振った。
「し……知りません。
男の人だったっていうことくらいしか―――」
響也の心臓がまた一つ強く打つ。
血を流し倒れ伏す法介の姿が頭に浮かんでは、それを懸命に打ち消した。
この辺りは成歩堂なんでも事務所から然程離れていない。
ここを法介が歩いていたとしたしても、何の不思議もない。
響也は青年から手を離すと、バイクのエンジンをかけ、急発進させる。
目指したのはもちろん、成歩堂なんでも事務所だ。
目的の場所にはすぐに到着した。
雑居ビルの階段を駆け上がり、ノックすることも忘れて、響也は扉を押し開く。
しかし求める人の姿はそこにはなかった。
中に居たみぬきが、突然現れた響也に目を丸くする。
「ガリュウ検事……?」
「お嬢さん、おデコくんは!?」
「オドロキさんですか?
出掛けてくるって、随分に事務所を出て行きましたけど……そういえば帰り遅いなぁ」
それを聞いた瞬間、またも響也は身を翻し、駆け出す。
階段を下りながら、携帯を取り出し、法介へとコールする。
だが返ってきたのは「電波の届かないところにあるか……」という、無情なアナウンスのみだった。
忌々しげに電話を切り、響也はバイクに跨った。
最早響也の中では不吉な予感が、現実的になりつつあった。
法介が刺されてしまったのだと―――。
(守るって約束したのに……)
法介の前でそう誓ったのだ。
絶対に守ると。
普段から冷静さを失わない響也だったが、この時は酷く混乱していた。
バイクのキーを捻ったはいいが、次に自分がどうすべきなのかが、一向に分からないのだ。
こんな風に頭が真っ白になるというのは、響也には初めての体験だった。
と、その時、
「あれ……牙琉検事?
こんなところでどうしたんですかー?」
響也の背後から、のほほんと間延びした声が掛けられる。
それは響也が聞きたくて仕方なかった人物の声だ。
信じられぬ思いで振り返れば、間違いなく響也の求める彼の―――王泥喜法介の姿がそこにあった。
怪我をしている様子もない。
弁護士バッジもちゃんとついている。
いつもと同じ赤いスーツに身を包み、前髪を立ち上げた法介は、きょとんとして響也を見つめている。
響也の常とは違う雰囲気に、圧倒されたのだろう。
響也はバイクを降り、そんな法介の方へと引き寄せられるように近付く。
そうして法介の身体を力いっぱいに抱きしめた。
「ちょ……っ!
こんな往来でイキナリなにをするんですか、アンタは!?
離して下さい」
響也の腕の中で法介はもがくが、響也の力は緩まない。
寧ろ更なる強さでもって、法介を拘束する。
人通りの少ない道とはいえ、それは皆無ではない。
じろじろとこちらに向けられる視線に法介は焦るが、響也は気に留める素振りもみせない。
「離せって!」
法介は自慢の大声で叫ぶ。
だが響也はそれを聞いて、法介を抱きしめたまま、安堵の息を吐き出した。
「おデコくん……本当におデコくんだね?
どこもなんともないんだね?
無事だったんだね?」
そう矢継ぎ早に問いかけてくる響也の身体が、震えていることに法介は気付いた。
響也が激しく動揺して、恐慌状態に陥っていることにも。
法介はひとまず暴れることを止めた。
人目は気になったが、響也の背に自分の手を廻して、宥めるようにして撫でる。
母親が小さな子にするようにして。
「大丈夫ですよ。
俺、ちゃんとここにいますから……どこも怪我なんてしてませんし。
安心して下さい」
そう囁きかけ、法介は背を撫で続ける。
そうしてしばらくすると、響也の身体から震えが消えていくのを法介は感じ取ったのだった。
人情公園のベンチに二人は並んで腰を下ろした。
途中で買った缶コーヒーを法介が響也に渡すと、
「ありがとう」
と、響也は微笑んだ。
先程までの取り乱しようが嘘のように、その笑顔はいつもの響也のものだった。
落ち着きを取り戻した響也の様子に、法介もほっと胸を撫で下ろした。
「一体どうしたっていうんですか?」
法介にしてみれば、冷静さを失ったいつもらしからぬ響也に突然抱きしめられただけで、訳が分からない。
「……さっきこの近くで人が刺されたっていう現場に出くわしてね……。
血溜りの中に弁護士バッジが落ちていたんだよ。
それで―――」
響也がみなまで言わずとも、法介はそれで全てを察したようだ。
表情を曇らせ、法介は口を開いた。
「なるほど……刺されたのが俺だって思ったんですね?
その事件は知ってます、さっき出掛けた本屋のおやじさんが目撃していて、教えてくれましたよ。
被害者は弁護士で、刺したのはその弁護士が係わった事件の関係者だったみたいです」
同業者が刺されたというのは、胸が痛むのだろう―――法介の声は沈んでいた。
その話だけでは、詳細は分からない。
だが、弁護士が担当した事件絡みで、刺されたということは確かなようだ。
それはそう珍しい話でもないのかもしれない。
無罪を訴えながらも有罪判決を受けた被告人の関係者や、もしくは無罪を勝ち取っても、その被告を有罪と信じていた被害者の関係者の恨みを買うことは、皆無とはいえない。
それがたとえ逆恨みという感情でも、湧き上がってきた激しい怒りや憎しみをどうすることもできず、それを弁護士に向けることは十分にあり得る。
今回はそのターゲットが法介でなかったというだけのことだ。
だがこの先もずっと法介が安全だと言えるのだろうか。
弁護士という職業に就いている限り、今回のようなことがいつ彼の身に降りかかるのか分からない。
次が彼でないという保証はどこにもないのだ。
「おデコくん、もうさ―――」
不安に駆られるままに思わず口を突いて出そうになった言葉を、響也ははっとして寸でで呑み込んだ。
音にする前に、我を取り戻した。
そんな響也の顔をじっと見つめていた法介が、にっこりと笑った。
「今言おうした言葉、思い止まってくれて良かったです。
もし口に出していたら、俺はアナタを殴るところでしたよ」
法介は響也が言わんとして思い止まった言葉を察しているようだった。
弁護士を辞めて、自分の目の届くところにずっと法介が居てくれたならと、一瞬そんな愚かな考えが響也の頭を過ぎったのだ。
そうすれば彼を自分の中だけに閉じ込めて、守れるのにと。
けれど、それがいかに愚劣で独りよがりな馬鹿げた考えに過ぎないと、響也は口に出す前に我に返ったのだ。
弁護士として法廷で生き生きと輝く彼と出逢って、響也は彼に惹かれた始めたのだ。
彼は弁護士という仕事を誇りに思っている。
諦めず、挫けず、曇りのない綺麗な瞳で、被告人を信じて裁判を闘う。
それが王泥喜法介という人間。
彼からそれを取り上げ、籠の鳥のようにしてしまったなら、最早それは法介とはいえないのだ。
「アナタだって検事として置かれている立場は、俺と同じだ。
いつその身に危険が降りかかるとも知れない。
でもアナタも検事を辞めようなんて思わないでしょう?
俺だって今回の件で、怖さを感じなかったといえば嘘になります。
もしアナタが傷つけられたらと思うと恐ろしい。
けど、俺もアナタも、弁護士と検事を辞めることは決して出来ないんだ。
真実を追究したいという気持ちがある限り―――」
法介の言葉に、響也は素直に頷いた。
彼の言う通り、自分とて検事という仕事に誇りを持っているし、自分の身を守るためにそれを放り出そうとは微塵も思わない。
「そうだね。
キミと僕の法廷での熱いギグはまだまだ終わらない。
あれはキミが弁護士で、僕が検事じゃなきゃ出来ないコトだからね」
法介の身の安全を思ってのことだったが、馬鹿なことを口走らなくてよかったと響也はほっと息を吐き出す。
「王泥喜法介は大丈夫です!」
法介は響也に言ってきかせるように、大声で叫ぶ。
耳に届く力強いその声は、不思議と安心感を与えてくれる。
本当に大丈夫なのだと思えてくる。
それでもその上で、弁護士である法介を守りたいと思う。
法介が法介らしくあり続けられるように……。
2008.11.08 up