Loving
you
Act5
恋をした。
王泥喜法介という名を持つ彼に恋をした。
それに気付いて、自分の気持ちに葛藤したけれど、それでもようやく告白して。
でも彼には既に恋人がいた。
けれど、告白に対する彼の答えは「分からない」だった。
拒絶されなかっただけでまずは良しとした。
彼の恋人には申し訳ないけれど、徐々に彼との距離を縮めていって、振り向かせる自信はあった。
現にあの時までは、ゆっくりであったかもしれないが、順調だった。
そうシミュレート裁判が―――兄の霧人の罪が完全に暴かれたあの審理が状況を一変させたのだ。
彼はこちらを見なくなった。
いつもまっすぐに向けてくれていた大きくてとても澄んだあの瞳を。
彼が何に苦しみ、そして苦悩しているのか……それが分からなかった訳ではない。
師事していた人間を二度も自ら告発するという行為。
それは彼にとってとても辛く哀しいことだったろう。
心に大きな傷を負ったことは疑うべくもない。
ぼくとて衝撃が全くなかった訳ではない。
実の兄だったのだから。
兄弟の関係は、歳が離れていたせいもあっただろうか、世間一般的に見れば淡白なものだったと思う。
けれど別段仲が悪かったのではない。
法曹界を目指したのは、兄の存在があったからだ。
その兄の罪が暴かれて、動揺しなかったといえば嘘になる。
だが、責められるべきは赦されざる罪を犯した兄の方であって、決して彼ではない。
周囲の人間がどう思おうが、何を言おうが、ぼくは検事として正しいことをしたと思っているし、彼のことを素晴らしい弁護士だと思った。
真実から目を逸らさず、それを貫いた彼のことを。
ただあの裁判の後は、マスコミだのが五月蝿くてその対処や、他の事件の審理もあったりしたものだから、なかなか彼に連絡を取る時間もなかった。
彼のところにも恐らくマスコミが姿を見せているだろうし、そういった対処になれているぼくは良いが、免疫のないであろう彼のことが心配ではあった。
その辺りは事務官や、彼の事務所と親しい宝月刑事に上手く取り計らってくれるように頼んではいたが、なかなかマスコミもしつこいらしい。
それほどこの事件の影響は大きかったのか。
しかしそれももう直に収束に向かっていくだろう。
別の目新しい事件でも起これば、そちらに飛びついていく―――メディアとはそういうものだ。
そうして世間の人々から忘れ去られようとも、ぼくや彼の中では永遠に消え去ることはないのだろうけれど……。
とにかく、落ち着いたらきちんと話をしなければと思っていた。
そんな矢先、彼が突然検事局を訪ねて来た。
どうやらこちらが検事を辞めると早とちりしていたらしい。
辞めると聞いて、それがイコール検事に直結する辺りが、彼のこちらへの印象を物語っているようで面白かった。
彼にとってぼくは芸能人という認識は殆どなく、検事でしかないということなのだろう。
それが何故か嬉しくも思えた。
彼の誤解を解いて、とりあえず落ち着かせた。
それでもやはりいつもの元気はなく、こちらを見ようともしない彼を、自宅へ半ば強引に連れて行った。
そこで改めてどうして自分を見ようとしないのかと問いかけると、彼から返ってきた答えに愕然となった。
兄を告発した彼のことをぼくが恨んでいるのだろうと言ったのだ。
信じられなかった。
まさか彼がそんなことを言うなんて……。
それは余りに的外れな思い込みだ。
頭に血が上って、怒鳴りつけるように「そんなことはない」と言っても、彼は頑なにそれを信じようとはしない。
兄弟なのだから、家族なのだから―――そんな風に簡単に割り切れる筈がないと。
いい加減にしてもらいたかった。
彼に対して憎悪など抱いたことは決してない。
有罪とか無罪だとかでない。
真実を明らかにすることが、検事という道を選んだ己の矜持であるし、誇りでもある。
たとえそれがどんな残酷な真実であったとしてもだ。
そんなぼくの心情を彼だけは分かってくれているのだと思っていた。
裁きの庭で、共に真実を追究した彼ならば。
だから彼に思いもよらない言葉を投げかけられて、頭が真っ白になった。
兄のことに拘っているのは寧ろ彼の方ではないかと。
激しい怒りと哀しみ……そして嫉妬が身の内から湧き上がってくる。
生まれたその嫉妬は、彼があまりにもあの人に固執する故に。
彼の心は兄に強く向かっているのだと感じた。
その時ぼくの中で芽生えてきた疑惑。
彼とあの人は師弟以上の感情で付き合っていたのではないのか。
つまり恋愛関係にあったのではないかと。
だから彼はこれほどまでに取り乱し、執拗に兄のことを口に出すのではないだろうか。
冷静さを欠いていたあの時のぼくはもうそれ以外には考えられなかった。
彼がいるのだと言っていた恋人があの人だと思うと、心は激しく乱れ、制御できないほどに感情が乱れ昂ぶる。
その激情の赴くままに、無理矢理彼を組み敷いて、抱こうとした。
当然彼は抵抗したが、そうされればされるほど、頭に血が上った。
あの人のことは受け入れて、何故ぼくのことは拒むのだと。
自分勝手で一方的な、そんな感情に突き動かされた。
そうして暴れる彼の耳元に、兄の声音と口調を真似て囁きかけたのだ。
「オドロキくん、いい加減に大人しくしなさい」
と。
すると彼は大きく目を見開き、次の瞬間、頬に強い衝撃が走り、ぼくは彼に打たれたことを知る。
彼はぽろぽろと涙を零しながら、「最低だ」とはき捨て、一切の抵抗を止めてしまう。
彼に殴られたことと、彼の涙と声が―――ぼくの頭を冷やしていく。
同時に悟った。
ぼくは彼を深く傷つけてしまったのだと。
「帰ってくれ」
そう告げるのが精一杯だった。
彼が去り、一人残された部屋で、冷静さを取り戻していくにつれ、ただ自嘲することしか出来なかった。
本当に最低だ。
冷静に考えれば、彼と兄が付き合っていたというのも自分の思い込みに過ぎないと思える。
あんなにも彼は懸命に否定していたではないか。
法廷で彼が兄を見つめていた眼差しを思い出せば、よく分かることだった。
彼のそれは、決して恋愛感情などではなく、尊敬と憧れ―――子供が父に抱くような類の感情だったのではないか。
けれど彼の言葉に耳を貸そうともせず、無理矢理抱こうとした挙句、兄の真似をして彼の傷を抉った。
牙琉霧人という人間は、彼にとって恋愛感情の有無ではなく特別な存在だったろうに―――あの人を思い出させて、一方的な行為に及ぼうとした。
彼はあの審理で、真実から逃げずに戦い抜いてくれたけれど、彼が受けた衝撃は、ぼくが考えるよりも遥かに大きかったのだ。
それも今ならば分る。
否……今更というべきか。
ぼくは七年前のあの裁判からずっと、心の奥底で兄に対する疑念を払拭できずにいた。
あの時のぼくはあの人のことを信じていたけれど、あの偽造された証拠の件が頭に引っかかり、もしかしたらあの人がと考えなかった訳ではない。
その度にそれを打ち消してきたのだ。
だからある意味、今回の審理で受けた衝撃とは別のところで、ずっと胸に蟠っていた痞えがすっと下りた気がした。
けれど彼はそんなことを考えもしてなかっただろう。
当たり前だ。
七年前のあの審理で、彼は法廷には立っていないのだから。
何の覚悟もなく、一度ならず二度までも、信頼していた師に裏切られる形になった彼の心の傷はいかばかりか。
彼と関わりあううちに、彼が家族というものに縁のない人生を送ってきたのだろうと薄々気付き始めていたのだが、それもまた法介の混乱に拍車を掛けていたのではないだろうか。
そのことにもようやく思い至る。
家族のいない彼にとって、肉親の情というものは実感したことはなく想像のもので、それを奪うことになってしまった自分は憎まれて当然だと思い込んでしまったに違いない。
彼は独りの寂しさを知っているからこそ、ぼくに自分と同じ寂しさを味あわせることになった申し訳なさで、自分を責めて……。
冷静になって考えればこうして色々なことが見えてくるのに、激情に流されて彼を傷つけてしまった。
一体どんな顔をして、彼に会えるというのか―――。
己の仕出かした行為を思い返すと、あれからぼくは彼に連絡を取ることもできずにいた。
けれど法介が倒れたと―――しかも病院では治療できないような状態だと聞いて、居ても立ってもいられなくなった。
つまらない自己嫌悪や気まずさなど、もはや頭からは消え去っていた。
ただ彼に……法介に会いたい。
その一心で、ぼくはバイクを飛ばしていた。
やはり彼のことがぼくは好きで好きで堪らないのだ。
法介の元まであと少し―――。
2008.09.11 up