Loving
you
Act2


「どう?少しは落ち着いた?」
そう掛けられる声と共に、目の前のテーブルにコーヒーカップが置かれる。
香ばしい上質な香りが、法介の鼻腔を擽る。
「……すみません」
法介はカップの中のコーヒーを見つめながらも、それを取ろうとはせず、膝の上で硬く手を握り、頭を下げた。

検事局の響也のオフィス。
取り乱していた法介を、響也は咎めるでも驚くでもなく、ここに連れてきてくれた。
エレベータに乗り、この部屋に入るまでの間に、法介の頭もかなり冷えていた。
だからこそ居た堪れなかった。
いきなり押しかけるような真似をして、大声を出して響也に詰め寄って―――それがなんとも情けなく、恥ずかしい。

みぬきから響也が辞めるらしいと聞いて、頭が真っ白になり、衝動的にここまで来てしまった。
響也が検事を辞めるのだとすれば、その原因の一端が……否、大部分が自分にあるように法介は思えてならなかったからだ。
響也がリーダーを務めていたロックバンド―――ガリューウエーブのメンバー眉月大庵が逮捕され、今度は彼の兄である牙琉霧人の新たな罪が暴かれた。
彼らに最も近い位置に居た響也には、連日マスコミが押しかけ、テレビや雑誌を賑わせていた。
そしてそれらの事件に、法介は無関係ではなかった。
その二人を告発したのは、他ならぬ法介だったのだから。

芸能界だけではない。
法曹界で今、響也は厳しい立場に置かれているだろうことは想像に難くない。
だが―――響也には絶対に辞めてもらいたくない。
外見はチャラチャラとして軽いが、内面は全く異なることを法介は知っている。
勝ち負けに拘らず、真実を追究しようという強い熱意と意思を持った人だ。
そんな彼を法曹界の先輩として、法介は口に出したことはなかったが、尊敬していた。

「で、ぼくが辞めるって誰から聞いたの?」
響也は法介が座るソファの隣に腰を下ろし、静かに問いかけてくる。
その声音からは、どこにも法介に対する非難や憤りの色は読み取れない。
それでも法介は、顔を上げることが出来なかった。
ここに至っても、彼の瞳を見るのが怖かったのだ。

「みぬきちゃんから聞きました……それでオレ……」
法介が視線を落としたまま答えれば、響也は小さく溜息を落とした。
「確かにぼくは辞めるつもりだ」
その言葉に法介はびくっと身を強張らせ、唇を噛み締める。
けれどすぐに今度はクスリと笑う声が耳に届く。
「多分、おデコくんは大きな勘違いをしていると思うんだけど――ぼくが辞めようと思っているのはガリューウエーブの活動であって、検事の職のことじゃないよ」
「えっ!?」
法介は大きく目を見開き、思わず驚きの声を上げた。

「あはは、やっぱり勘違いしていたようだね。
お嬢さんはぼくが検事を辞めるって言ってた?」
そう言われてみれば、確かにみぬきは一言も響也が検事を辞めてしまうとは言っていなかった。
ただ「辞めてしまう」という言葉だけを聞いて、法介は反射的に事務所を飛び出してきたのだ。
響也には芸能人として顔もあることを、すっかり失念していた。
法介にとって響也イコール検事という図式が出来上がっていた為に。

法介が自分の勘違いに気付き、顔を赤くしながら首を振ると、響也は「おデコくんらしいね」とまた笑う。
「さっきも言ったけど、辞めるのはガリューウエーブの方。
ダイアンが逮捕されちゃったし、色々考える所もあってね、解散しようかと思ってる。
でもさファンの女の子達が離してくれそうになくてさ……人気があり過ぎるのも困ってしまうよ」
そう語る響也の声は明るい。
どんな蟠りもないかのように。
いつも通り自信に満ち溢れている。

けれど―――やはり法介は顔を上げて、響也を見ることがどうしてもできなかった。
どうしてあれだけのことがあって、この自分に平然とした態度で接することができるのだろう。
親友と兄を告発した自分に対して。
法介にはどうしても信じることが出来ない。
天才と言われる響也だって人間だ。
恨みや憎しみの感情がない訳ではあるまい。

「……オレの早とちりですみませんでした。
お忙しい中を押しかけたりして―――」
法介は再度頭を下げると、立ち上がった。
勝手に先走った自分が恥ずかしかったし、響也が検事の職を辞することはないと分かって安堵もした。
もうここに自分がいる意味はない、一刻も早く立ち去ろうと法介は思った。
どうしてもまだ響也と向き合う勇気が持てなかった。

響也は自分のことを特別な意味合いで好きだと告げてくれたけれど、そんな気持ちもあのことで綺麗に消え去ってしまっただろう。
結局自分自身の答えは出せないままに、終わってしまった。
響也に抱き寄せられても、キスをされても、嫌だとは思わなかった。
寧ろドキドキと胸が高鳴った。
もうそこまでくれば答えは見えているような気がしたが、それでも自分はあと一歩が踏み込めなかったのだ。
常識とか互いの立場とか、世間体とか……そういったものが壁になって、自分の気持ちに目を背け続けていた。
その結果が、この幕切れだった。

法介はそのまま響也へと視線を移すことなく、彼のオフィスを出て行こうとする。
しかし、響也の手が法介の腕を掴み、それを阻む。
「待ちなよ、おデコくん。
今日はもうぼくも帰るから、ぼくのマンションに行こう」
法介は反射的に首を振る。
だが、響也はそれを承諾しなかった。
「異議は認めないよ。
逃げることは赦さない」
それは先程までとは違う―――静かだが、厳しい声だった。





響也のバイクの後ろに乗って、法介は彼の自宅を訪れた。
正確には連れて来られたといったところか。
思えばこの場所では今まで様々なことがあった。
骨折した時に世話になったことから始まり、熱を出した響也の看病もしたし、好きだと告白されたのもここだ。
しかしもうここに足を踏み入れるのも、今日で最後かもしれない。

「そんなところで突っ立ってないで座りなよ」
響也がキッチンから声を掛けるのに後押しされるように、リビングでぼんやりと立ち尽くしていた法介は革張りのソファに腰を下ろす。
すぐに響也もリビングへと戻ってきて、法介に缶ビールを差し出した。
「ありがとう……ございます」
目の前に差し出されたそれを法介は受け取るが、プルトップに指を掛ける気にはなれず、手の中で遊ばせるだけだった。
対する響也はプシュリと缶を開け、先程同様に法介の隣に座ると、ぐいっと一口煽る。

そうしてふーっと深い息を吐き出した響也は、ビールの缶をテーブルへと置く。
「さぁ、おデコくん、話して貰おうか―――キミがずっとぼくと目を合わそうとしないその理由を」
その言葉に法介は身を強張らせた。
やはり洞察力に優れた彼が気付いていないはずはなかったかと。
「オレは別に……」
それでも己の不甲斐のなさを責められている気がして、法介は首を振る。
「じゃあ、ぼくをちゃんと見て」

法介は手の中の缶をぐっと両手で握り締める。
いつまでもこんなことでは駄目だと分かっている。
響也が自分に対して今どんな感情を抱いているにしても、それを受け止めるべきなのだと。
そう頭では思うのに、法介の身体はなかなか動かなかった。

しばらく響也はそんな法介を見つめていたが、やがて業を煮やしたのか、法介の両頬を包み込み強引に上向かせる。
「ちょっ……なにする……っ」
「何をそんなにも怖れているんだ?王泥喜法介」
法介の抗議の声に覆い被さるように、響也が問うてくる。
「!?」
最早逃げることは叶わず、法介はごく間近で響也の顔を見ることになった。

じっと法介を見つめる響也の淡いブルーの瞳は―――いつもと同じようにとても澄んで綺麗だった。
法介が怖れていた憎しみや憤りなど何処にも見当たらない。
それは確かに法介がよく知る強く優しい男のものだった。

なのに、この時の法介はその瞳を見てもまだ、信じることが出来なかった。
自分に対する負の感情を、理性で上手く隠しているに過ぎないのではないか。
ただいつも通りを演じているだけなのではないだろうかと。
血の繋がった実の兄の罪を目の前で暴かれて、どうして平気でいられるのだ。
もちろん霧人の罪は赦されざるものだ。
けれどそういった理性を越えたところに、肉親の情というものはあるのではないのか。
それは肉親のいない法介には分からない―――だからこそ様々なことを想像し、混乱していた。

「検事はオレのことを恨んでいるんじゃないんですか?」
搾り出すような声で法介がそう訊ねれば、響也は微かに眉根を寄せた。
「ぼくが?
……どうしてキミの事を恨まなくちゃならない?」
困惑した様子の響也に、法介はそれが演技なのだと思った。
誰だって分かることだろうと。

「惚けなくたっていいんです。
オレは―――先生を……アナタの兄を一度ならず二度までも告発した男ですよ。
アナタの親友だったダイアンさんも……。
オレはアナタから大切な人たちを奪った」
そう苦しげに吐き出す法介に、響也の瞳が驚愕に見開かれ、そして今度はすっと険を帯びて細まった。
「おデコくん、それ本気で言っているのかい?
ぼくが今までの裁判のことでキミを恨んでいるって、そう思っているのか?」
「だって、そうでしょう!?
血の繋がりって……家族ってそういうものなんじゃないですか?
そんなに簡単に割り切ったり、切り捨てたりできないものでしょう?
だから、オレ―――」

「ふざけるな!」
法介の言葉を遮って、響也の怒鳴り声がリビングに響く。
法介は初めて聞くそんな響也の怒声に、驚き身体が固まってしまう。
本気で響也は怒っている。
否―――自分の言葉が怒らせてしまったのだと、法介は悟った。

「キミだけは分かってくれていると思っていた!
他の誰がなんと言おうが、ぼくがどんな気持ちでキミとの法廷に臨んでいたのかを。
真実はアニキの罪を暴き出した。
裁かれて当然の愚行をアニキは犯した。
その真実を照らし出してくれた……七年間の呪縛から解き放ってくれたキミを、どうしてぼくが恨んだりする!?
キミはぼくのことをそんな私情に流される狭量な男だと思っていたのか!王泥喜法介!」
響也の畳み掛けるような口調に、法介の混乱は尚深まっていく。

未だ自分は霧人の犯した罪のことをどこか信じられない絵空事のように思うのに―――何故響也はあっさりと霧人を切り捨てられるのか。
「でも……先生はアナタの家族なのに―――」
「アニキ、アニキって……拘ってるのキミの方じゃないか!
……そうか……そういうことか」
響也はそこではたと何事かに気付いたように、言葉を切る。
法介を睨み付ける響也の瞳に、更に冷たい炎が宿るのを法介は見て取った。
「王泥喜法介―――キミ、アニキとデキでいたのか?
キミの恋人ってアニキだったんだな?」
言われた言葉の意味を、法介はすぐには理解できなかった。
大きく目を見開き、絶句した状態の法介に対して何を思ったのか―――響也は法介の腕を取ると、ソファから立ち上がった。

そのまま法介を引き摺るようにして、響也は強引に歩いていく。
法介は訳の分からぬまま、そんな響也に別の部屋に連れて来られた。
見覚えがある。

そう―――そこは響也のベッドルームだった。



2008.07.04 up