旋律


ロシア料理店『ボルハチ』―――その入口の扉を開け、中に入ると、途端に外の暑さが嘘のような寒さが襲ってくる。
その低い温度に、響也は思わず身を震わせた。
「すさまじくサムいんだけど……おデコくん」
並んで扉をくぐった法介に目を遣ると、彼もまた自分の身体を抱き締めるようにして寒さに耐えているようだった。
ジャケットを身に纏っている分、まだ響也の方が幾分体感する温度はマシなのかもしれない。
「こんなサムい所にいたら、カゼを引いてしまうよ。
帰ろう、おデコくん」
響也がそう促すも、法介ははっきりと首を横に振った。
意を決したように、そのまま奥へと足を進めていく。

仕方なしに、響也はその法介の後を追った。
零した溜息さえも、白く凍る。

何故二人がこの店にやって来たのかというと、さして特別な理由などない。
ただ名物のボルシチを食べにきたというだけだ。
この店は法介が初法廷に立つことになった事件が発生した現場となったが、現在も営業を続けていた。
もうあの事件からかなりの時間を経たし、世間の関心も既に別のところに移ってしまったこともあって。

だが、響也は出来ることならば一刻も早くこの場を立ち去りたかったのである。
あの事件が切っ掛けで、響也も法介も大きな渦の中に巻き込まれていくことになった。
少なからず衝撃も受けたし、失ったものも数多くある。
しかし、その忌まわしさが蘇ってくるから、響也は帰りたかった訳ではない。
二人の中で、あれらの出来事はもう自分達なりに昇華できている。
だからここへ立ち入ることの抵抗は薄い。
そうではなく、響也が立ち去りたいその訳は―――。

「おや、いらっしゃい」
そう―――それはこの声の主が理由なのだ。
声を掛けてきたのは、ピアノの前に座るうらぶれたパーカー姿の男。
その男、成歩堂龍一と顔を合わせるのが嫌だったからだ。

七年前のことが原因ではない。
それもまた互いの中で決着がついている。
軽蔑する気持ちはなくなったが、それを差し引いても、響也は成歩堂とは合わなかった。
端的にいうと、苦手なのだ。
飄々として掴み所のないこの男のことが。

しかし成歩堂の方は別段響也に苦手意識を抱いているような様子はなく、響也にも「やぁ」と気軽に挨拶してくる。
「どうも」
と、愛想のない返答を響也がするも、成歩堂は気分を害した様子もない。
「二人揃ってここで食事かい?
仲良いんだね」
そんな成歩堂の言葉に素早く反応したのは、法介だった。
「あっ……いえ、牙琉検事とはその……さっき偶然出会っただけです。
で、俺が食事に行くって言ったら、む……無理矢理この人がついてきただけですから!」
しどろもどろになりながら、法介はそう弁明する。

(ナニもそんなに思いっきりヒテイしなくてもいいじゃないか!)
心の中で毒づきながら、響也は不機嫌そうに眉根を寄せた。
無理矢理ついてきたというのは頂けないが、それ以外の部分は凡そ法介の言う通りだった。
確かに裁判所を出た所で、偶然二人は顔を合わせたのだ。
これから食事に向かうと法介が言うものだから、それならばと響也も同行することにした。
決して無理矢理ではない。
法介とは恋人同士なのだから、不自然なことはなにもない。
しかし、この店に来ると前もって分かっていたなら、響也は一緒に行くとは言わなかったが。

第一いかに否定しようとも、法介と響也の関係は既に成歩堂には知られている。
そのことは響也も分かっていたが、そうと知らないのはこの中で法介だけだ。
「ふーん、そうなんだ」
納得する素振りを見せながらも、成歩堂の意味ありげな視線が響也へ向けられる。
ますます不機嫌になる響也を、成歩堂は面白がっているようだ。

「ま、ゆっくりしていってよ。
今日はまだ誰もお客さん来てないし」
成歩堂はピアノの横に置いたケースの中から瓶を一本取り出すと、一番近くの丸テーブルの上にそれを置いた。
「僕からのおごりだよ」
ワインかと思いきや、なんのことはないブドウジュースだった。
法介と同じく、成歩堂も酒には弱いのかもしれないと響也は推察しつつ、諦めて椅子に座った。

「本当に成歩堂さんってピアノ弾けないんですか?」
法介も響也の向かいの席に腰を降ろし、そんな問いかけを成歩堂へと向ける。
響也も法介から聞いてはいた。
成歩堂の今の職業はピアノの弾けないピアニストなのだと。
この男らしいなんともフザケタ職業だと思ったものだ。

「おや?信じてないのかな、オドロキくんは。
まぁ何事も自分の目で確かめたいと思うのは、イイコトだと思うよ。
あ、この場合は耳か」
そんなふうに笑って、成歩堂はピアノの方へ向き直った。
鍵盤に手を置いて、ちらりと法介達のテーブルへと視線を送る。
「じゃぁ、証明してあげよう。
ただし後悔はしないでくれよ」
そうして成歩堂の手が動き出した―――。





そこから先のことは、思い出したくもない。
音楽に対しては人一倍思い入れのある響也にとっては、悪夢のような時間だった。
あれは音楽に対する冒涜だ。
よくもあそこまで酷い音色を出せるものだ。
成歩堂の手から紡ぎ出される凶器のような不協和音に、響也は当然のことながら、法介も冷や汗を流している。

それが終わったのは、成歩堂を訪ねて客がやってきたからだ。
もちろんピアノを聞きにきたのではなく、成歩堂が手がけるもう一つの仕事の方で。
無敗のポーカープレイヤーはどうやら未だ健在のようだ。
「じゃ、僕は仕事があるから。
ごゆっくり」
凍りついたままの二人に、ニヤリと人の悪い笑みを残して、成歩堂は二人の視界から消えていった。

しばらくそのまま無言でいた二人だが、立ち直るのは響也のほうが早かった。
「な……なんだ、アレは!
あんなヒドイ音を聞かされたら、僕のデリケートな耳がおかしくなってしまう!
どうしてくれるんだ!おデコくん!」
成歩堂が立ち去ってしまった為に、響也の憤りは目の前の法介へと向けられる。
響也の声に、法介もようやく我に返った。
「俺に言わないで下さいよ!
まさかここまでのモノとは……」
法介にとっても予想以上の破壊力だったようだ。
一曲弾けば大抵の客はダマりこむと成歩堂が裁判で言っていたことがあるが、それを法介は身をもって体感したのだ。

室温は、成歩堂のピアノのお陰で更に寒さを増したように響也には感じられた。
「ううっ……」
それは法介も同じだったようで、低くくぐもった声を漏らし、身を震わせている。
これではボルシチが運ばれてくる前に、凍死してしまいそうだ。

響也は深々と息を吐き出すと、席を立つ。
法介の席へと近付き、着ていた愛用のジャケットを脱ぐと、それを彼の肩に掛けてやる。
「ちょ……牙琉検事……コレ!」
慌てて法介がそれを脱ぎ、響也に返そうとするが、それを響也は押し止めた。
「ちょっとジャマだから、持っておいてくれるかな」
言って、響也はそのまま自分の席には戻らず、先程まで成歩堂が座っていたピアノの前の椅子に腰掛けたのだ。

そうして、響也は鍵盤に指をのせると、ピアノを奏で始めた。
それはとても澄み切った綺麗な音色だった。
成歩堂が弾いていたのと同じ楽器が紡ぎ出す音とは、到底信じられない程、美しい旋律がそこから流れ出す。
法介は先程とは別の意味で、驚愕の表情を浮かべ、ピアノを弾く響也を見つめる。
長い指が踊るように華麗に鍵盤の上を行き来する。

ガリューウエーブの音楽のような激しいものではなかった。
題名は忘れてしまったけれど、法介にも聞き覚えのある静かなクラシックの曲だった。
無意識のうちに目を閉じれば、法介の耳により鮮明に美しい音色が流れ込んでくる。
寒さのことなどすっかり忘れて、法介はゆったりとピアノの音に身を委ねる。

しばらくして、最後の音を弾き終えた響也は鍵盤から手を離す。
法介もゆっくりと目を開き、自然と手を叩き、拍手を送った。
「スゴイですよ、牙琉検事!
ギターだけじゃなくて、ピアノもそんなに上手に弾けたんですね!」
「曲を作るときには、ピアノを使うこともあるからね。
少しはクチ直しならぬミミ直しになったかな」
悪戯っぽく笑う響也に、法介はこくこくと珍しく素直に頷いた。
音楽のことはあまり分からない法介だったが、今のピアノは純粋に素晴らしいと思ったのだ。

響也にしても悪い気はしなかった。
ガリューウエーブの音楽は法介にはどうにも受け付けてもらえず、誉められたことなどなかった。
その法介が自分の奏でた音に、心底感動し、喜んでくれている。
それが嬉しかったのだ。
先程までの不機嫌さが一気に吹き飛んでしまった。
我ながら単純だと思わないでもなかったが。

「じゃぁ、トクベツにもう一曲」
響也は再びピアノに向かう。
そうして静かで優しい旋律が、再び室内を包み込んでいくのだった―――。



2007.09.07 up