艶めく
赤
事務所のソファにいつもの如くだらりと腰掛けながら、ぼくはオドロキくんを眺めていた。
オドロキくんは、ぼくの視線には気付いていないのか、それとも気に留めてもいないのか、散らかった事務所をせっせと掃除している。
忙しなく動き回ってる様は、まさに小動物さながらだ。
ぴんと立った彼の前髪がそれに伴ってユラユラ揺れるのが面白かった。
「いつも元気だよね、オドロキくんは」
呑気にぼくがつぶやくと、オドロキくんはようやくぼくの方を振り返った。
眉間に皺を寄せながら。
「そんなところでぼーっと見てるヒマがあるのなら、手伝って下さいよ!
だいたいどーして、三日と経たないうちにこんなに散らかるんですか!」
ぼくはソファに座ったまま、動きなど毛頭ない。
「はっはっはっ、それは片付ける気がないからだろうね。
めんどくさいから」
「さも当たり前のように言わないで下さい!」
ぼくに手伝わせることはあきらめたのだろう。
オドロキくんはぶつぶつ言いながらも、再び掃除に取り掛かる。
「あっ、またこんなところに靴下を脱いだままにしてるし!
ちゃんと脱いだら洗濯機に入れて下さいって、何回も言ったでしょーが!」
床からぼくの靴下を拾い上げたオドロキくんの怒号が飛ぶ。
ぼくは笑ってそれを軽くいなしてしまう。
「ちゃんと洗濯機に入れたハズなんだけだな……オカシイよね。
みぬきのマジックの仕業かもしれない。
パンツから靴下が!っていう」
「変な誤魔化し方して、トボけないでくださいよ!
全く……」
しかしぼくに何を言ったところで堪えることなどないと既に学習してしまった彼は、大きな溜息をついて口を噤んだ。
オドロキくんがぼくの事務所に来てからというもの、部屋は格段に綺麗になった。
本人曰く然程キレイ好きではないそうだが、それにしてもこの事務所の散らかりようは限界を感じるらしく、いつも文句を言いつつも掃除するのはオドロキくんだ。
ぼくとみぬきはそういったことに無頓着なものだから、一向に気にならないのだけれど。
掃除だけでなく、オドロキくんは食事も作ってくれることが多い。
どうやら、ぼくとみぬきの食生活を見かねたらしい。
このことに関しては、多大に感謝しているんだ―――これでも。
ぼくはともかくとして、みぬきはまだ育ち盛りなのだし、栄養バランスの取れた家庭料理を食べさせてあげたいと思うから。
みぬきという娘ができるまでは外で済ますことが多かったものだから、料理することなどほとんどなかった。
ぼくも一応努力というものはしたのだが、ピアノ同様にどうにも料理の才能がないらしい。
食べれないことはないとぼく自身は思っていたけど、
「パパ、ムリしなくてもいいんだよ!
みぬき、インスタントでも大丈夫だから!」
と、みぬきに力いっぱいに言われるに至って、相当な出来なのだと悟った。
だから、オドロキくんがくるまでは、大抵できあいのもので済ましていたのだ。
特別料理が上手い訳ではないですよとオドロキくんは謙遜するが、なかなかどうして彼の料理は美味かった。
みぬきも大層感動していた。
見かけによらず、彼は器用なのだろう……ぼくとは正反対だ。
ピアノを弾かせたら、すぐに上達するのではないだろうか。
いざとなれば彼にピアニストとして活躍してもらうかと、冗談半分でぼくは考えてたりする。
そんな元気で世話焼きのオドロキくんだけど、最近の彼は特に輝いているようにぼくの目には映る。
オドロキくん自身はなんでもない風を装っているけれど、滲み出る幸福感というのか、纏う雰囲気というものは隠しようもないのだ。
それが何故なのかぼくは知っている。
「キミは最近キレイになったよね。
恋でもしてるのかな」
ぼくがそんなことを口にすると、彼は物凄い勢いでぼくの方を見た。
額に汗が浮き出て、テカテカに光っている。
「なななっ……なにを言ってるんですか!?
キレイとか恋とか……い……イミが分かりません」
顔を真っ赤にして否定されても、今の挙動不審な態度が「その通り」と肯定しているのだと彼は気付いていないのだろう。
なんともオドロキくんらしい。
ぼくは思わずくすりと笑ってしまう。
「ふーん、ぼくの気のせいかな……ま、いいけど」
ぼくがすべてを知っているとオドロキくんが知れば、間違いなくパニックを起こすに違いない。
それは可哀想だし、その上某ジャラジャラした彼に恨まれそうだから、それ以上追求することは止めておくことにする。
そ知らぬふりで、からかうのも面白いし。
あからさまにほっと息を吐き出し、オドロキくんはぼくに背を向けてはたきで棚の埃を一心に払いだす。
見抜く力などなくても、オドロキくんが動揺していることは明白に分かる。
彼の心臓は今、ドキドキと激しく脈打っているのだろう。
しかし冗談ではなく、オドロキくんはキレイになったと思う。
男に相応しい言葉ではないだろうが、そう思うのだから仕方ない。
とはいっても、彼の外見が変わったという訳ではない。
現在の彼の充足感が、彼の内面を磨きをかけ、輝かせて見せるのだろう。
元気で明るいだけじゃなく、艶を含んだ色気のようなものを感じる時もある。
オドロキくんにそんな変化を齎したのは、もちろんあの男だ。
その時、テーブルの上に置かれていたオドロキくんの携帯が鳴った。
まだやや顔を赤くしたまま、オドロキくんはそれを手に取ると、耳にあてた。
「もしもし」
次の瞬間、あっとオドロキくんの目が見開かれた。
それと共に、再びはっきりと彼の顔が紅潮した。
それだけで、それが誰からの電話であるか分かってしまう。
普段ならごく普通にその電話を受けることができただろうに。
だが今まさに恋だのと話題にして、動揺が収まらぬままに、上手く誤魔化した……と彼が思っているその恋の相手から電話が掛かってきてしまった為に、思わず過剰反応してしまったのだろう。
タイミングが良いというべきか、悪いというべきか。
ぼくは俯いて、オドロキくんには気付かれぬようにそっと笑いを噛み殺す。
「そうですか。
19時くらいには着くんですね。
分かりました」
オドロキくんは必死に平静を装いながら、事務的に応答している。
それがまた不自然だということにも、きっとオドロキくんは気付いていないのだろう。
確か今日は電話口の向こうの彼が、出張から戻ってくる日だったなと、思い出す。
とある情報筋から、電話の向こうの相手の動向はぼくには筒抜けだったりするのだ。
そんな繋がりがあるとは、いくらあのジャラジャラくんとて知らないだろう。
はい、はいと冷静を装いつつオドロキくんは応えていたけれど、不意にその口元がふっと優しく綻んだ。
電話口の相手がきっと何か言ったのだ。
それを受けて、幸せや嬉しさが溢れ出るようなそんな柔らかな表情をオドロキくんは浮かべた。
そんな表情になったのは、無意識だったのだろう。
ぼくが見ていてもそれを改めるでもなく、オドロキくんは電話の向こうから聞こえる声に耳を傾けている。
そんなオドロキくんを前にして、ぼくの心にちょっとした悪戯心が芽生えた。
電話口に向かって、ぼくは叫ぶ。
「ぼくが貰うから!」
「えっ!」
突然割り込まれたオドロキくんが、びっくりしたような声を上げてぼくを見た。
そしてぼくは―――。
「あーっ!
止めて下さい!成歩堂さん!
だ……ダメですってば……っ!」
「イヤだよ、止めてなんてあげない。
ぼくが貰うって決めたからさ。
キミももうカクゴを決めなよ」
言い争う声に、騒々しいもの音。
それははっきりと電話口の向こうにも伝わっているに違いない。
「イヤですよ!
ちょっ……そんな強引なこと……」
「はっはっはっ」
笑いながら、ぼくはオドロキくんの手から携帯を取り上げ、通話ボタンを切る。
「うわっ!
電話まで勝手に切ってっ!
いい加減にして下さい!
俺が掃除の後食べようと思って楽しみにしてたプリンまで、勝手に食っちまうし!」
携帯電話と共に、テーブルの上にちょこんと置かれていたプリンの半分は、最早ぼくの胃の中だ。
オドロキくんが怒り狂うのを、
「そんなセコいこと言ってると、立派なオトナになれないよ」
などと、ぼくは笑って受け流す。
おそらく電話の向こうの彼は、今頃慌てまくっているに違いない。
通話ボタンを切ると共に、電源も切ってしまったから、掛けなおしたところで現在オドロキくんの携帯は繋がらない。
オドロキくん本人はプリンに気を取られて、携帯の電源まで落とされたことに気付いていないようだ。
きっと予定の時間よりも随分早く彼は戻ってくるだろう。
息を切らして、必死の形相で、この事務所の扉を開ける彼の姿がありありと想像できる。
その嵐に巻き込まれる前に、ぼくはさっさと退散することにしよう。
彼ならばきっとオドロキくんを大事にしてくれるだろうから、ぼくは彼らを見守ろうと思う。
だけど今みたいに、時折悪戯心で隠した中に少し嫉妬を感じる時がある。
オドロキくんはぼくにとって、息子みたいなものだから。
それを口に出すことはないけれど、要は子供を取られたみたいで妬けるのだ。
あんな幸せそうな顔を見せられれば尚更。
娘を嫁にやる父親の心境とは、こんな感じなのだろうか。
こんなんじゃ、みぬきの時は修羅場だなと、ぼくは苦笑する。
だからこのくらいの悪戯は許されるよなぁ……とぼくは心のうちで嘯き、残ったプリンを容赦なく平らげると、ソファから立ち上がったのだった。
2007.08.04 up