誓いを
捧ぐ


ようやく落ち着きを取り戻した法介を連れ、響也が自宅マンションに帰り着くまで、二人の間に会話らしい会話はなかった。
玄関の扉を閉めた時、ようやく法介がほっと安堵の息を吐き出すのが聞こえた。
ずっと緊張状態でいたのだろう。
無理もない―――あの中央刑務所での出来事を考えれば。

あの時の情景を思い返し、響也の中に凶暴な怒りが再び渦を巻いた。
もし辿り着くのがもう少し早ければ、法介をあれほどまでの恐怖に晒す事もなかったのに。
そんな自分への口惜しさと、そして法介を呼び寄せた相手への憤りに、響也はぎゅっと拳を握り締めた。
しかし溢れてくるその激しい感情を、響也は何とか振り払う。
今更ここでどれだけ怒りを滾らせたところで、詮無きことなのだ。
そんなことよりも今は、法介の心のケアが第一だと思い直す。

「おデコくん、シャワーでも浴びておいでよ。
すっきりすると思うよ、ね?」
玄関に突っ立ったまま中に入ってこない法介に、響也は優しく声を掛ける。
酷い格好だった。
髪は乱れ、シャツのボタンは飛び、首には手で絞められた跡が赤くくっきり残っている。
あの男の憎悪の深さを表しているかのように。

法介は何を思うのか、ゆっくりと顔を上げ、響也を見つめる。
響也の柔らかな笑顔を見て、法介はこくんと一つ頷いた。
ようやく靴を脱ぎ、無言のまま法介は、とぼとぼとバスルームへと向かう。

その背を見送りながら、響也は小さく溜息を落とす。
あの首の絞め跡はどのくらいで消えるだろうか。
まさか痕など残るまいか。
あれを見る度に、法介は何を考え、何を想うのだろう。
あの男の―――牙琉霧人という名の棘は抜けないまま、法介にこれからも痛みを与え続けるのだろうか。

響也は再度溜息を吐くと、法介の為に着替えを用意してバスルームへ向かう。
浴室からはシャワーの水音が聞こえてくる。
「おデコくん、ここに着替えを置いておくから」
響也が脱衣所から声を掛けると、
「ありがとうございます」
と、予想以上にしっかりした声が返ってきた。
茫然自失ということはないようで、安心する。

リビングに法介が姿を見せたのは、それからしばらくてからだった。
響也が用意したスウェットの上下に着替え、濡れた髪をタオルで拭く姿は、ここで過ごす時の法介と何ら変わらない。
顔色も血の気が通って、随分と良くなった。
それを認めて、響也も人心地つく。

法介はもう片方に持った見慣れたジャケットを、響也へと差し出した。
中央刑務所の独房で、響也が法介の肩に掛けたジャケットだ。
「ジャケット……どうもありがとうございました」
「あぁ、そこのソファにでも掛けておいてくれればいいよ」
キッチンに立っていた響也は、マグカップを手にリビングの法介の元へと向かう。

法介は言われた通り、皺にならないようになるべく注意しながら、ソファの背にそれを掛ける。
そうして法介自身はカーペットの上に腰を降ろした。
響也は手にしたマグカップを、法介へと差し出す。
中は暖められたミルクで、それが湯気を立てていた。
法介はそれを受け取って、両手で包み込むようにして持つと、そっと口をつけた。

熱すぎもぬる過ぎもせず、ちょうど飲みやすい温度に温められている。
法介の疲弊した心身に、ホットミルクが染み渡っていく。

「お腹は空いていないかい?」
響也はジャケットが掛けられたのとは別の、もう一方のソファに腰を降ろし、尋ねる。
法介はマグカップを手にしたまま、頷きを返した。
「大丈夫です」
「そう―――じゃぁ、ひと段落したらキミの自宅に送っていこう。
それとも事務所の方がいいかな?」
響也としては、彼の自宅なり事務所の方が落ち着けるのではと思ったのだ。
霧人と顔立ちの似た自分が傍に居るよりも。

法介が霧人の面影など響也に見ていないことは、承知している。
一度間違えられたことがあったけれど、あれは特殊な状況下だった。
そして今も……彼の精神状態を考えれば、やはり近くにいない方がいいだろうとそう響也は判断した。
さすがに今日は彼を抱こうとは思わない。
それくらいは弁えている。

しかし、意外にも法介は首を振った。
「ここにいては駄目ですか?」
「いや、別に僕は全く構わないけど……その……」
珍しく響也の歯切れが悪い。
すると、法介がいつもの彼らしい笑顔を見せた。
「俺、本当に大丈夫ですから。
そんなに気を遣って貰わなくたって……何だか牙琉検事じゃないみたいで気持ち悪いな」
無理をしている様子はない。
随分とさっぱりした表情で、今日その身に起こったことなど微塵も感じさせない。

「気持ち悪いとは、ヒドいじゃないか、おデコくん。
僕はいつも優しさに溢れているっていうのに」
ぶつぶつと愚痴を零しながらも、響也は心の内で安堵の息を漏らしてた。
それにくすりと笑みを零しながらも、
「シャワーを浴びさせてもらって、すごくさっぱりしました。
確かに酷い目に遭いましたけど、俺はあの人に……牙琉霧人さんに会いに行って良かったと思っています。
別れを告げることが出来たから……。
それでもやはりあの人が俺の先生だったことを否定しようとも、なかったことにしようとも思わない。
あの人が俺に色々なことを教えてくれたのは事実ですからね。
けれど俺は―――もうあの人の影を追ったりはしない」
法介は、響也を真っ直ぐと見つめ、きっぱりとそう言い切った。
響也が惹かれて止まない曇りのない綺麗な瞳が、その言葉に偽りのないことを示している。

棘は抜けないまま、より深く刺さってしまったかと思っていたが、どうやら逆だったらしい。
見事に抜けてしまったようだ。
牙琉霧人という存在を切り捨てるのではなく、受け入れて、そしてそれをこれからの糧にしようとしている。
響也が考えるよりもずっと、法介の精神は強靭なのだろう。
そうして牙琉霧人を乗り越えた法介は、また一段と強くなった。

それは心の底から良かったともちろん響也は思う。
ずっと霧人の存在に翻弄されてきた法介を見てきたのだから。
人知れず、酷く辛そうな表情で、霧人の関わった事件の資料を読み返すその姿を。
もうあんな法介を見なくても済むのなら、これほど嬉しいことはない。

だがそれならば何故、ここに戻ってきた時、法介はあんなにも物憂げで沈んだ様子だったのだろうか。
「でもさっきはズイブンと辛そうだったけど?」
響也が疑問をそのまま口にすると、法介は少し眉根を寄せ、厳しい面持ちになる。
膝の上でぎゅっと拳を握り締め、俯いた。
「あの人は随分と、俺に味方してくれたあなたに対して怒っているようでした。
牙琉検事も聞いたでしょう?
あの人はアナタを赦さないと言った―――それがずっと頭の中に残っていて……。
俺のせいで牙琉検事の身に何か良くないことが起こるかもしれない。
あの人ならば、直接手を出さなくても、危害を加えることなんて簡単に出来てしまいそうだから」

ああそうことか。
響也は納得し、そうして微笑んだ。
「キミの心配はありがたいけど、別にそれはキミのせいじゃないよ。
僕は真実を明らかにしたかった。
それが結果的にああなってしまっただけだよ。
君の味方をしたワケじゃないさ。
僕とキミは恋人同士だけど、法廷では検事と弁護士……僕はキミだからといって審理の時に決して手加減はしないし、キミだってそうだろう?
キミが誤った発言をすれば、容赦せず叩き潰すよ」

法介は響也の言葉を、じっと頭の中で反芻しているようだった。
ややして「そうでしたね」と、法介は呟き、顔を上げた。
「アナタも俺も、検事と弁護士として間違ったことはしていない。
誰のせいでもない―――あれはあの人の罪だった」
「そうさ。
あの男がしようとしてしるのは、ただのサカウラミってヤツさ。
ただ……気をつけた方が良いのは確かだろうね。
僕だけじゃない、寧ろキミの方が危険だと思うよ。
あの男があれで諦めたとは到底思えないからね」

響也と法介が立ち去った後、霧人が独房で激しい憎悪を込めて呟いた言葉のことを当然ながら二人は知らない。
けれどそれを聞いていなくても、響也には分かっていた。
兄は死んだと言いながらも、血の繋がりは、皮肉にも響也にそれを教えてくれる。
霧人は決して法介の存在を消し去ろうとするだろうと。
そして響也と……恐らくは成歩堂も同様に。
自分を恥辱に塗れさせたそれらの存在を抹殺し、自己の回復を図ろうと考えているに違いない。

法介は立ち上がって、響也の隣に腰掛けた。
そして真剣な眼差しで、響也を見据える。
「牙琉検事のことは、俺が守りますから!!」
法廷ばりの法介の大音量が、響也の耳にきーんと響く。
思わず響也は耳を押さえて、苦笑を漏らす。
「あ……アツいね、おデコくん。
うん―――ありがとう」
響也は手を伸ばし、傍らの法介の肩を抱いた。
そして、
「キミのことは僕が守るよ、ゼッタイに」
法介とは逆に静かな、けれど甘い声音で、響也は彼の耳にそっと囁きかける。

かぁーっと、法介の全身が火照るのを響也は感じた。
「牙琉検事も、熱いです……」
「あははは、アツいのはおデコくんの身体の方じゃないかな。
でも本当に約束するよ、僕はキミを守るって」
「俺も約束します」

二人の視線が絡み合った後、どちらからともなく、顔を寄せる。
目を閉じると同時に、重なる唇―――それはまるで誓いのようだった。



2007.07.21 up