新た
なる風
Act1
片方しか腕が使えないということは、思った以上に不便なものだと法介はひしひしと実感していた。
朝起きて、顔を洗い、歯を磨き、朝食を食べる。
毎朝何の疑問もなく繰り返していた行動の一つ一つが、今の法介には大作業で時間がかかる。
特に元々あまり器用な方ではなし、骨折したのが利き腕だったから、尚更だ。
今は入院中の身故、看護士が色々と手を貸してくれるが、それでも簡単には出来ない。
朝だけでそんな具合だから、殆ど一日ベッドにいて特別なことは何もしていないというのに、一日が終わる頃には酷く疲れているのが日常になっていた。
「はぁ……」
ベッドの上の法介は、病院の白い天井を見つめながら、深々と溜息を落とす。
疲れたこともあったのだが、法介の溜息の原因は他にあった。
医師から
「病院のベッドがもう一杯で、もうすぐ新しい患者さんを受け入れることになってしまったんです。
申し訳ないのですが、退院してもらっていいですか?
あと1週間もすれば、ギプスも取れますので」
と言われたからだ。
左腕の骨折だけで他の部分はぴんぴんしている法介は、普通ならとっくに退院していてもおかしくなかったのだ。
それをベッドが空いているのをいいことに、入院したままでいたのだ。
本来の法介の懐事情ならば、呑気に入院している訳にもいかなかったが、ひき逃げした相手方から、ある日充分過ぎるほどの見舞金が届いたのだ。
それまで全く音沙汰がなかったというのに、そのひき逃げの裁判後しばらく経ってから突然に。
裁判では有罪判決が下されたというが、当事者である法介はその裁判について詳しく知らなかった。
傍聴したという成歩堂に聞いても、ニヤニヤと笑うだけで、何故か何も教えてくれない。
ともあれ、その見舞金のお陰で、法介は入院療養できていたのである。
法介とて、病院が好きなわけでも、退院したくないわけでも決してない。
だが退院後の利き腕が使えない不自由な生活を考えると、高が一週間程度とはいえ、どうにも気が重くなるのだ。
一人暮らしの法介は、退院したとて日常生活をサポートしてくれるような家族はいない。
かといって成歩堂とみぬき親子に頼むのは、かなり危険な香りがする―――あの二人の中に一般的日常生活という文字は存在しないと思う。
余計に疲れそうだ。
そんな暗い気分に沈んでいた時、響也が訪ねてきた。
法介が骨折して入院して以来、彼はこうして良く顔を見せる。
だがそれは決して法介を気遣ってのお見舞いというものではなく、一方的に法介をからかっては去っていくのだ。
ストレス発散の相手にされているのかと思うが、響也が一般的なストレスを感じるような人間には見えない。
常に自信に満ち溢れている―――法介から見ればそれはもう過剰な程に。
検事と人気ロックバンドのボーカリストという二つの顔を持つ彼は、相当に忙しいだろうに、何故ことあるごとに自分のところにやって来るのか、法介にはそれがここ最近一番の謎だった。
「冴えない顔が、今日は一段と沈んでるねー、おデコくん。
そんなことじゃ、今以上に女の子にモテないよ」
爽やかな笑顔と共に、茶化されることにももう慣れた。
「余計なお世話です!」
言い返しながらも、法介はこうして響也が訪ねてきてくれることが決して嫌とは感じていないのだからそれもまた不思議だ。
自分には苛められて喜ぶ趣味はないぞ、と誰に聞かれた訳でもないのに、法介は心のうちで言い訳をする。
しかし不思議と響也の存在は、ほっと法介の肩の力を抜かせてくれる。
彼の持つ独特の雰囲気がそうさせるのかもしれない。
そして法介をからかいながらも、向けられるその眼差しがとても優しくて暖かいからだろうか。
響也の兄霧人は、顔立ちこそ良く似ているものの、彼とは正反対のタイプだった。
物腰が柔らかく、口調も丁寧だったが、彼が近くにいると法介はいつも酷く緊張した。
霧人の事務所で働いている時には、彼は新人である法介にも親切で、色々なことを教えてくれたにもかかわらず。
今にして思えば、眼鏡の奥の瞳がいつも冷たい光を湛えているように、無意識のうちに感じ取っていたからかもしれない。
そんなことを考えながら、法介は黙り込んだまま響也を見ていた。
だが響也の苦笑まじりの声に、はたと我に返る。
「なんだい?僕があまりにもイイ男だからって、そんなにじっと見つめないでくれるかな?
女の子なら慣れてるけど、男をも惑わすとは僕もツミツクリな男だね」
「ち……違いますよ!
勝手に変な誤解しないでください」
相変わらずの自信満々ぶりに辟易しつつも、確かに男の自分から見ても格好良いよなと思ってしまう自分が悲しい。
「で、何をそんなに沈んでるんだい?
僕と違って、おデコくんには元気くらいしか取り柄がないのに」
いちいちからかうか茶化さないと喋れないのかこの人は!?と、心中で突っ込みながらも答える。
「後の台詞は余計です。
……明日で退院することになったんですけど、俺一人暮らしだし、折れたのが利き腕なんで、苦労しそうだなぁと思って。
ま、一週間程度ですし、飯さえ食べてれば死なないでしょうから、なんとかなるとは思うんですけどね……」
「ふーん……じゃぁ、僕の部屋に来るかい?」
大して考える風でもなく、さらりと響也は言ってのける。
「はぁ!?」
思いもよらない響也の言葉に、法介は目をぱちぱちと瞬いた。
何故いきなりそういう話になるのだろうか。
検事と弁護士という関係で知り合った響也の自宅に行くほど、法介はまだ彼と親しいといえないと思う。
「えーと、それはお茶でもご馳走してくれるってことですよね?」
法介の中で得られた結論はそういうことだ。
退院した機会に、自宅にちょっと寄らないか程度の招きだと。
すると、響也は呆れた様子で首を振った。
「違うよ、アタマ悪いなぁ……おデコくん。
今の会話の流れからして、僕の家に来ればいいよってことでしょ。
昼間はシゴトがあって無理だけど、朝と夜なら君のメンドウくらいみてあげられるよ。
一週間くらいのことなんだよね?」
「ええっ!
いやいや、いくらなんでも、それは駄目ですよ!
そんな親しい間柄でもないですし……」
慌ててそう拒む法介に、響也は珍しくむっとしたように眉を寄せた。
そうして不機嫌そうな表情のまま、響也は押し黙ってしまう。
場に重苦しい沈黙が流れる。
法介にしてみれば、別段間違ったことは言っていないと思う。
常識的に考えてみて、その誘いに甘えられるような関係ではない。
何故彼が突然そんなことを言い出したのか、そして本気なのかどうかは謎だが、いくら法介とて常識は弁えているつもりだ。
それがどうして彼の機嫌を損ねたのか、訳が分からない。
「あのー……」
場の重苦しさに耐えかねて、法介はおずおずと口火を切る。
しかしそれを遮って、響也が口を開いた。
「おデコくん、人の好意はスナオに受け取るものだよ。
ましてこの僕の誘いを断るなんて、カガク的に言っても有り得ないよ。
僕だってむさ苦しいオトコの世話なんてしたくないさ。
でも、このまま君を退院させたら、きっとヒサンなことになりそうな気がするんだよね。
ろくに食事も摂れず、風呂にも入れない……服も着替えられなくて、カビでも生えそうな感じじゃない?
それで最後はシゴ三日くらいの哀れな姿が、発見されることになるんだよ」
畳み掛けるように言う響也に、法介は返す言葉もなく冷や汗を流す。
(いくらなんでも、一週間程度でそこまで酷いことにはならないだろ……)
成歩堂親子ではあるまいに、一体自分はどれだけ、日常生活不適合者だと思われているのだろうか。
確かに器用な方ではないが、そこまで酷くはないと思う。
たかが腕一本使えないくらいで、二十代の男が死んでしまうことなどないだろう……普通に考えて。
響也のあまりに突飛な想像に沈黙する法介の心の内など気付かぬようで、彼は更に続ける。
「仮にも法廷で僕と闘ったオトコが、そんな状態で死んでしまったら、僕の評判も地に落ちる。
そんなオトコに牙琉響也は負けたのかと、後ろ指さされるじゃないか。
ファンの女の子達も嘆き悲しむよ。
おデコくん、それでも良いのかい?
弁護士のくせに人を悲しみに追いやっても、君のココロは痛まないのか?」
(こ……この人は、一体どこまで想像力豊かなんだ?
天才と呼ばれる人々は、全員こんな感じなのか?)
とは、思ったものの、法介はそれを声に出すことはしなかった。
何を言ったところで無駄なのは、響也とまだ短い付き合いの法介でも理解していた。
法介が弁護士になって以来、周囲には、何故かこういった一癖も二癖もあるような人間が多く集まるようになった。
法廷での弁護であったなら、何を言われようが食い下がるが、日常生活においてこういった人間とまともに争おうとは思えなくなった。
労力を異様に消費するからだ。
「じゃぁ、そういう訳で、明日迎えにきてあげるよ」
法介の沈黙を諾と受け取ったらしい響也は、先ほどまでの不機嫌さとは一変、上機嫌でそう言い残すと帰って行った。
まさに嵐のように現れて、嵐のように去っていった格好だ。
夕方、訪ねてきた成歩堂に法介がその話をすると、彼はなにが可笑しいのか吹き出した。
「笑い事じゃないですよ!
何とか断る理由を練り出さないと……何かありませんか?成歩堂さん。
牙琉検事にお世話になんてなったら、その後延々何を言われることか……。
恩を売られ、からかわれ続けることも目に見えてるし……」
うーんと頭を悩ます法介に、成歩堂はまだ笑い続けている。
じとっと恨めしそうに法介に睨まれるに至って、ようやくそれをおさめた。
「いやいや、ごめん。
牙琉検事はよっぽど君の事……いや、これはまぁ止めておこう。
ま、そこまで本人が言ってくれてるんなら、お言葉に甘えたらいいんじゃないの?
僕としてもうちの事務所所属の芸人が、腐乱死体で見つかったなんて、寝覚めが悪いからね」
「だから、俺は芸人じゃありませんってば!」
「そんな細かいことに拘ってると、立派な大人になれないよ」
あはははと笑う成歩堂に、法介はがっくりと脱力する。
やはりこの人も、牙琉検事同様、何を言っても無駄なのだと改めて悟って。
結局、いい断りの言葉も思いつかず、流されるままに法介は響也の申し出を受け入れることとなったのだった―――。
朝起きて、顔を洗い、歯を磨き、朝食を食べる。
毎朝何の疑問もなく繰り返していた行動の一つ一つが、今の法介には大作業で時間がかかる。
特に元々あまり器用な方ではなし、骨折したのが利き腕だったから、尚更だ。
今は入院中の身故、看護士が色々と手を貸してくれるが、それでも簡単には出来ない。
朝だけでそんな具合だから、殆ど一日ベッドにいて特別なことは何もしていないというのに、一日が終わる頃には酷く疲れているのが日常になっていた。
「はぁ……」
ベッドの上の法介は、病院の白い天井を見つめながら、深々と溜息を落とす。
疲れたこともあったのだが、法介の溜息の原因は他にあった。
医師から
「病院のベッドがもう一杯で、もうすぐ新しい患者さんを受け入れることになってしまったんです。
申し訳ないのですが、退院してもらっていいですか?
あと1週間もすれば、ギプスも取れますので」
と言われたからだ。
左腕の骨折だけで他の部分はぴんぴんしている法介は、普通ならとっくに退院していてもおかしくなかったのだ。
それをベッドが空いているのをいいことに、入院したままでいたのだ。
本来の法介の懐事情ならば、呑気に入院している訳にもいかなかったが、ひき逃げした相手方から、ある日充分過ぎるほどの見舞金が届いたのだ。
それまで全く音沙汰がなかったというのに、そのひき逃げの裁判後しばらく経ってから突然に。
裁判では有罪判決が下されたというが、当事者である法介はその裁判について詳しく知らなかった。
傍聴したという成歩堂に聞いても、ニヤニヤと笑うだけで、何故か何も教えてくれない。
ともあれ、その見舞金のお陰で、法介は入院療養できていたのである。
法介とて、病院が好きなわけでも、退院したくないわけでも決してない。
だが退院後の利き腕が使えない不自由な生活を考えると、高が一週間程度とはいえ、どうにも気が重くなるのだ。
一人暮らしの法介は、退院したとて日常生活をサポートしてくれるような家族はいない。
かといって成歩堂とみぬき親子に頼むのは、かなり危険な香りがする―――あの二人の中に一般的日常生活という文字は存在しないと思う。
余計に疲れそうだ。
そんな暗い気分に沈んでいた時、響也が訪ねてきた。
法介が骨折して入院して以来、彼はこうして良く顔を見せる。
だがそれは決して法介を気遣ってのお見舞いというものではなく、一方的に法介をからかっては去っていくのだ。
ストレス発散の相手にされているのかと思うが、響也が一般的なストレスを感じるような人間には見えない。
常に自信に満ち溢れている―――法介から見ればそれはもう過剰な程に。
検事と人気ロックバンドのボーカリストという二つの顔を持つ彼は、相当に忙しいだろうに、何故ことあるごとに自分のところにやって来るのか、法介にはそれがここ最近一番の謎だった。
「冴えない顔が、今日は一段と沈んでるねー、おデコくん。
そんなことじゃ、今以上に女の子にモテないよ」
爽やかな笑顔と共に、茶化されることにももう慣れた。
「余計なお世話です!」
言い返しながらも、法介はこうして響也が訪ねてきてくれることが決して嫌とは感じていないのだからそれもまた不思議だ。
自分には苛められて喜ぶ趣味はないぞ、と誰に聞かれた訳でもないのに、法介は心のうちで言い訳をする。
しかし不思議と響也の存在は、ほっと法介の肩の力を抜かせてくれる。
彼の持つ独特の雰囲気がそうさせるのかもしれない。
そして法介をからかいながらも、向けられるその眼差しがとても優しくて暖かいからだろうか。
響也の兄霧人は、顔立ちこそ良く似ているものの、彼とは正反対のタイプだった。
物腰が柔らかく、口調も丁寧だったが、彼が近くにいると法介はいつも酷く緊張した。
霧人の事務所で働いている時には、彼は新人である法介にも親切で、色々なことを教えてくれたにもかかわらず。
今にして思えば、眼鏡の奥の瞳がいつも冷たい光を湛えているように、無意識のうちに感じ取っていたからかもしれない。
そんなことを考えながら、法介は黙り込んだまま響也を見ていた。
だが響也の苦笑まじりの声に、はたと我に返る。
「なんだい?僕があまりにもイイ男だからって、そんなにじっと見つめないでくれるかな?
女の子なら慣れてるけど、男をも惑わすとは僕もツミツクリな男だね」
「ち……違いますよ!
勝手に変な誤解しないでください」
相変わらずの自信満々ぶりに辟易しつつも、確かに男の自分から見ても格好良いよなと思ってしまう自分が悲しい。
「で、何をそんなに沈んでるんだい?
僕と違って、おデコくんには元気くらいしか取り柄がないのに」
いちいちからかうか茶化さないと喋れないのかこの人は!?と、心中で突っ込みながらも答える。
「後の台詞は余計です。
……明日で退院することになったんですけど、俺一人暮らしだし、折れたのが利き腕なんで、苦労しそうだなぁと思って。
ま、一週間程度ですし、飯さえ食べてれば死なないでしょうから、なんとかなるとは思うんですけどね……」
「ふーん……じゃぁ、僕の部屋に来るかい?」
大して考える風でもなく、さらりと響也は言ってのける。
「はぁ!?」
思いもよらない響也の言葉に、法介は目をぱちぱちと瞬いた。
何故いきなりそういう話になるのだろうか。
検事と弁護士という関係で知り合った響也の自宅に行くほど、法介はまだ彼と親しいといえないと思う。
「えーと、それはお茶でもご馳走してくれるってことですよね?」
法介の中で得られた結論はそういうことだ。
退院した機会に、自宅にちょっと寄らないか程度の招きだと。
すると、響也は呆れた様子で首を振った。
「違うよ、アタマ悪いなぁ……おデコくん。
今の会話の流れからして、僕の家に来ればいいよってことでしょ。
昼間はシゴトがあって無理だけど、朝と夜なら君のメンドウくらいみてあげられるよ。
一週間くらいのことなんだよね?」
「ええっ!
いやいや、いくらなんでも、それは駄目ですよ!
そんな親しい間柄でもないですし……」
慌ててそう拒む法介に、響也は珍しくむっとしたように眉を寄せた。
そうして不機嫌そうな表情のまま、響也は押し黙ってしまう。
場に重苦しい沈黙が流れる。
法介にしてみれば、別段間違ったことは言っていないと思う。
常識的に考えてみて、その誘いに甘えられるような関係ではない。
何故彼が突然そんなことを言い出したのか、そして本気なのかどうかは謎だが、いくら法介とて常識は弁えているつもりだ。
それがどうして彼の機嫌を損ねたのか、訳が分からない。
「あのー……」
場の重苦しさに耐えかねて、法介はおずおずと口火を切る。
しかしそれを遮って、響也が口を開いた。
「おデコくん、人の好意はスナオに受け取るものだよ。
ましてこの僕の誘いを断るなんて、カガク的に言っても有り得ないよ。
僕だってむさ苦しいオトコの世話なんてしたくないさ。
でも、このまま君を退院させたら、きっとヒサンなことになりそうな気がするんだよね。
ろくに食事も摂れず、風呂にも入れない……服も着替えられなくて、カビでも生えそうな感じじゃない?
それで最後はシゴ三日くらいの哀れな姿が、発見されることになるんだよ」
畳み掛けるように言う響也に、法介は返す言葉もなく冷や汗を流す。
(いくらなんでも、一週間程度でそこまで酷いことにはならないだろ……)
成歩堂親子ではあるまいに、一体自分はどれだけ、日常生活不適合者だと思われているのだろうか。
確かに器用な方ではないが、そこまで酷くはないと思う。
たかが腕一本使えないくらいで、二十代の男が死んでしまうことなどないだろう……普通に考えて。
響也のあまりに突飛な想像に沈黙する法介の心の内など気付かぬようで、彼は更に続ける。
「仮にも法廷で僕と闘ったオトコが、そんな状態で死んでしまったら、僕の評判も地に落ちる。
そんなオトコに牙琉響也は負けたのかと、後ろ指さされるじゃないか。
ファンの女の子達も嘆き悲しむよ。
おデコくん、それでも良いのかい?
弁護士のくせに人を悲しみに追いやっても、君のココロは痛まないのか?」
(こ……この人は、一体どこまで想像力豊かなんだ?
天才と呼ばれる人々は、全員こんな感じなのか?)
とは、思ったものの、法介はそれを声に出すことはしなかった。
何を言ったところで無駄なのは、響也とまだ短い付き合いの法介でも理解していた。
法介が弁護士になって以来、周囲には、何故かこういった一癖も二癖もあるような人間が多く集まるようになった。
法廷での弁護であったなら、何を言われようが食い下がるが、日常生活においてこういった人間とまともに争おうとは思えなくなった。
労力を異様に消費するからだ。
「じゃぁ、そういう訳で、明日迎えにきてあげるよ」
法介の沈黙を諾と受け取ったらしい響也は、先ほどまでの不機嫌さとは一変、上機嫌でそう言い残すと帰って行った。
まさに嵐のように現れて、嵐のように去っていった格好だ。
夕方、訪ねてきた成歩堂に法介がその話をすると、彼はなにが可笑しいのか吹き出した。
「笑い事じゃないですよ!
何とか断る理由を練り出さないと……何かありませんか?成歩堂さん。
牙琉検事にお世話になんてなったら、その後延々何を言われることか……。
恩を売られ、からかわれ続けることも目に見えてるし……」
うーんと頭を悩ます法介に、成歩堂はまだ笑い続けている。
じとっと恨めしそうに法介に睨まれるに至って、ようやくそれをおさめた。
「いやいや、ごめん。
牙琉検事はよっぽど君の事……いや、これはまぁ止めておこう。
ま、そこまで本人が言ってくれてるんなら、お言葉に甘えたらいいんじゃないの?
僕としてもうちの事務所所属の芸人が、腐乱死体で見つかったなんて、寝覚めが悪いからね」
「だから、俺は芸人じゃありませんってば!」
「そんな細かいことに拘ってると、立派な大人になれないよ」
あはははと笑う成歩堂に、法介はがっくりと脱力する。
やはりこの人も、牙琉検事同様、何を言っても無駄なのだと改めて悟って。
結局、いい断りの言葉も思いつかず、流されるままに法介は響也の申し出を受け入れることとなったのだった―――。
2007.05.26 up