虚像と
実像

記憶が途切れる前に聞いたは急ブレーキの音。
そして身体に衝撃を感じ、宙をまったと思ったところで……意識は深い闇に沈んでいった。





ゆっくりと目を開けた法介の目にまず飛び込んできたのは白い天井だった。
ぼんやりとはっきりしない意識の中、法介は自分の部屋の天井は果たしてこんな感じだっだかとつらつらと考える。
そして次に感じたのは、鼻腔をつく薬品の匂い。
そこでようやく法介は首だけ動かして辺りを見渡し、己の置かれている状況を悟った。
どうやらここは病室で、自分はベッドに寝かされているらしいと。
しかし、何故自分がこんなところにいるのか―――それはまだ理解できていなかった。

丁度その時、入口のドアが勢い良く開き、見知った少女が中に入ってきた。
少女は法介が目を覚ましているの気付くと、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってくる。
「オドロキさん!
良かったー、目が覚めたんですね!
大丈夫ですか?」
勢い込んでそう問いかけられても、法介には全くぴんとこない。
状況が飲み込めていないからだ。

「みぬきちゃん、俺は一体……?」
法介が首を捻って見せるのに、「ええーっ!」とみぬきは驚いたように声を上げる。
「オドロキさんてば、まさか覚えていないんですか?
昨日の夜、ひき逃げされちゃったんですよ!
で、このパパも入院していた引田クリニックに運ばれてきたって訳です」
「ひき逃げ!?」
思いもよらぬみぬきの言葉に、法介は素っ頓狂な声を出し、目を見開く。
ぼーっと霞掛かった意識も、ここに至ってようやくはっきりと覚醒した。

驚きの勢いで法介は身を起こそうとしたが、それは叶わなかった。
何故なら左腕には厳重にギプスが巻かれていたからだ。
「動いちゃだめですよ、オドロキさん。
左腕……ぽっきりと折れちゃってるみたいですから。
それはもう見事にキレーに折れてたらしくて、お医者さんがレントゲン見て感心していましたよー」
と、みぬきは褒め称えるようにして言う。

―――それは感心することなのか……?
と頭に浮かんだ疑問は、取りあえず出さないことにする。
疲れるだけのような気がありありとするからだ。

起き上がることも断念して、法介ははぁーっと深い溜息を落とす。
ようやく混乱が治まってきて、法介は再度昨夜の記憶を辿ってみる。
すると朧げながら、昨夜のことを思い出してきた。
とはいっても、覚えているのはブレーキの音と、跳ね飛ばされた衝撃で宙に舞ったくらいのものだ。

「しかし、まさか俺がひき逃げされるとはなぁ……」
この車社会で、いつ何時誰の身にでも起こり得ることだと思っていても、実際自分の身に降りかかるなどとは思わないものだ。
そういえば、みぬきの父である成歩堂もひき逃げされたことがあったよなぁと思い返す。
あの時は、成り行きということもあったが、法介がひき逃げ犯を特定したのだった。
今回は自分がその被害者となったらしい訳だが、実際相手の車のことなど何も覚えていないものだと妙に感心してしまう。

そんな法介の心を読み取ったかのように、みぬきが「安心して下さい!」と笑顔を見せる。
「犯人はもう捕まってるんですよ。
パパの時と違って目撃者が多かったみたいで。
証拠も山ほど現場に残されていたそうですし。
聞いたところによると、無免許運転の上、飲酒運転の常習者だったそうですよ」
「そうなんだ」
法介はほっと息を吐いた。

そんな相手に撥ねられたのが自分で良かった。
自分は骨折程度で済んだのだから。
もし小さな子供やお年寄りだったとしたら、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
昔から運だけは人一倍良いのだ。

その時ノックの音がして、一人の男が病室へと入ってきた。
「やぁ、おデコくん。
ひき逃げされたそうだね。
忙しい合間を縫って、優しい僕が君の惨めな姿をわざわざ拝みにきてあげたよ」
そんな言葉と共に現れたのは、牙琉響也その人だった。

「惨めな姿を拝みにって……あなた俺を笑いにきたんですか!?
本当に優しい人は心配そうな顔をして、お見舞いに来たっていうものです!」
法介はベッドの上からがなる。
あははとそれをいつもながら爽やかに笑い飛ばして、響也は手にしていた花束をみぬきへと渡した。
「はい僕からのプレゼントだよ、お嬢さん」
「えっ……みぬきにですか?」
目をぱちくりさせるみぬきに、もちろんだよと響也は優しく微笑みかける。
それだけでぽーっとみぬきは響也に見惚れてしまったようだ。
流石絶大な人気を誇るガリューウエーブのボーカリストとというべきか。

―――普通は怪我した俺への見舞いじゃないのかよっ!
と、内心で突っ込んだ法介の声が聞こえた訳でもあるまいに、やれやれと響也は肩を竦めた。
「ムサイ男に花をプレゼントするほど、僕も落ちぶれちゃいないんでね。
僕から花束を貰えないからって、妬かないでくれるかなおデコくん。
男の嫉妬はみっともないよ」
「そーですよ、オドロキさん!」
畳み掛けるように、みぬきが響也を援護する。

「なんで俺が嫉妬しなきゃなんないんだよ!」
と、法介が叫んだところで、病室のドアが開き、怒りを露にした中年の女性看護士が顔を覗かせた。
そして法介の方をきっと睨みつける。
「病院ではお静かにっ!!」
と叱りつけると、乱暴に扉を閉め、立ち去っていった。
「あーあ、女性を怒らせるなんて最低だね、おデコくん」
「最低ですよー、オドロキさん」
などどまたもや響也とみぬきは、呆れた視線を法介へと投げ掛けてくる。

―――ううっ……、何故怪我した俺だけが怒られるんだ……。
そんな世の理不尽を法介が噛み締めているうちに、みぬきはお花を生けてきますねーと病室を出て行ってしまう。
「いやーしかし、君も大概どんくさいよね。
車くらいぱっと避けられない?」
みぬきに向けるのとはてんで違う馬鹿にしたような笑みを浮かべて、響也は法介の枕元の椅子に腰を降ろす。
「背後からいきなりぶつけられて、避けれる訳ないでしょうが」
「そーかなぁ……僕なら大丈夫だったと思うけどね」

―――その根拠のない過剰な自信は一体どこから来るんだ……。
しかしそれがあながちハッタリじゃないことを法介は知っている。
若くして検事となり、天才の名を欲しいままにしている上、人気ロックバンドのボーカリストでもある頭脳明晰、容姿端麗の非の打ち所のない男―――それが牙琉響也だ。
同性の法介から見ても悔しいが、格好良いと思うのが事実だ。
それを口に出そうとは、意地でも思わないが。

ふとそんな響也の額に汗が浮かんでいるのに気づいて、法介は眉根を寄せる。
そういえば髪型や服装もいつもに比べてやや乱れているような……。
いつも完璧な彼らしくない。

だが法介が口を開くより前にその視線に気付いた響也が、また不敵な笑みを口元に刻む。
「この病院に入って来た途端、僕に気付いた女の子達に囲まれちゃってね。
それは抜け出してくるのが大変だったよ。
これもまぁ、人気者の宿命っていうやつかな……まいったね」
まいったねなどという言葉に反して、響也はファンの女の子に囲まれたことが嬉しそうだ。
法介としては最早突っ込む元気もない。

「そうだ!
憐れなおデコくんのそのギプスにでも、僕のサインとキスマークでも刻んであげようか?
そうすればきっとおデコくんも女の子達から大人気だよ。
もちろん君のその左手のギプスがね」
「結構です!」
力強く断言する法介を、可笑しそうに見遣って、響也は立ち上がる。
「さて、僕はそろそろ帰らせてもらうよ。
おデコくんと違って忙しい身の上なんでね。
君はそこでのんびり休養でもしているといいよ。
その腕が使い物にならなきゃ、君お得意の声の大きさだけが自慢の指差しが出来ないだろう?」

そうして言いたい放題法介を虚仮にして、響也は帰っていった。
―――あの人は一体何をしにきたんだ?
本気で人をおちょくるためだけにやって来たのか……?

自分はあの天才検事にそこまで嫌われているのだろうかと大きく溜息をついた時、またもや新たな訪問者が響也の入れ替わりに現れた。
「成歩堂さん」
「やぁ、オドロキ君。
どうやら大変な目にあったようだね」
本当に大変だと思っているのかどうか非常に疑わしい口調でもって、成歩堂は言う。
いつもながら飄々としている為に、その表情からは何も読み取れない。

「僕の場合はねんざで済んだけど、君は骨折だってね。
まだまだだなぁ……。
そんなことじゃ厳しい芸能界で、身体を張ったお笑い芸人としてやっていけないよ」
「誰が芸人ですか!?」
「だってうち芸能事務所だし―――って、あれ……違ったっけ?
なんでも事務所に改名したんだったっけなぁ?」
そらっとぼけた調子で呟いた成歩堂だったが、次の瞬間、にやりと独特の人の悪い笑みを浮かべた。

「それにしてもオドロキ君、とっても愛されてるね」
「へっ?」
いきなり投げ掛けられた成歩堂の台詞に、法介はもちろん思い当たる節などない。
これほど愛に恵まれない人間がいるだろうか?
今日はそれをひしひしと感じたというのに。

「牙琉検事にさ」
「はぁ!?」
ますますもって意味不明だ。
何故其処に唐突に響也の名前が出てくるのか。
一方的に苛められていると言われれば力一杯頷くことが出来るが、どこから愛されているなどと突飛な話になるのだろう。
虐げられて喜ぶような趣味は断じてない。

しかし成歩堂はにやにやとするだけで、もうそれ以上何も言わない。
法介の疑問は結局、解消されることはなかったのだ。
そんな思い切り怪訝な表情の法介を見ながら、成歩堂は先程のことを思い出す。

丁度引田クリニックに入って来た響也を見掛けたのだ。
傍目に見ても慌てふためいていると分かるほどに、汗を滲ませ、髪を振り乱し、響也は文字通り中に飛び込んできた。
驚く看護士に法介の病室を訊ねると、脇目もふらずに手にした花束を持って、彼の病室へと駆けて行った。
あの男のそこまでの取り乱しようを、もちろん成歩堂は今まで見たことがなかった。

驚きのまま成歩堂が響也の行動を観察していると、彼は法介の病室の前で一旦立ち止まり、自らを落ち着かせるように何度も深呼吸を繰り返していた。
そしていつも通りの優男の表情を作ると、よしと一つ頷いて、病室の中へと入っていったのだ。
ぱちぱちと目を瞬いていた成歩堂だったが、そこに至ってぷっと吹き出す。
きっと今頃病室の中では、響也が法介を散々にからかっていることだろう。
心配で心配でたまらなかったくせに、そんな素振りなど微塵もみせずに。
そして法介が無事であったことに安堵する気持ちを、きれいさっぱりと包み隠しているのだろう。

しばらくして響也は病室から出てきたが、ドアを閉めた途端にほっと息を吐き出し、とても嬉しそうに微笑んだのを見て、成歩堂は自分の考えが外れてはいないことを確信した。
―――意地っ張りというのか……素直じゃないというのか……。
苦笑しながらその響也が去っていくのを見届けたのが、先程の出来事だったのだ。
そしてそれが法介へと告げた「愛されている」などという言葉に繋がる訳だ。

しかしその理由を話す気は、成歩堂にはなかった。
武士の情けというよりも、何だか面白くないからだ。
もっともっと回り道をするのも若いうちの経験だしなぁと、これからの二人の行く末を色々と想像しながら。
またひと騒動もふた騒動もおきそうじゃないか。
そんな面白そうなことをみすみす逃す手はないよなとそっと嘯いた。



2007.04.20 up