Air≪アリア≫ 幸福な日々は、一瞬で崩れ去った。 喪ったものと自分の罪の大きさを、馬超は日が経つにつれ自覚させられる。 お前の罪を思い知れ。 お前が我らを地獄に叩き落したのだ。 死人(しびと)たちが怨嗟の声を上げ馬超を罵る。 泣き叫びながら許しを乞うことしか出来ぬ自分が、一番許せなかった。 ほぼ毎晩うなされる悪夢。 自分を慕い続ける部下たちを率いて行かなければならないと言う重圧。 その2つに苛まされ、身体(しんたい)的にも精神的にも疲れ果て。 もはや抜け殻のようになっていた頃、諸葛亮の計により蜀に降った。 その頃からか、悪夢が違う夢に変わった。 「女を買わないか?」 目の辺りを白い仮面で覆い隠した男が不敵に笑い、一人の女を突き出す。 馬超が戸惑っていると、よろよろと女が前に進み出た。 手探りで前に進み、馬超に触れると安心したようにそのまま抱きつく。 「……目が、見えないのか?」 眉をひそめて呟き、顎に手をかけて上を向かせ…息を飲んだ。 焦点が合っておらず虚ろなのを差し引いてなお、黒曜石の瞳は美しかった。 そして、ぬばたまの黒髪がよく映える白い肌と、紅を差している訳でもないのに艶やかな紅い唇。 女は、馬超が自分に興味を持っていると察したのか―――甘えるように微笑む。 男に媚を売る笑みではなかったが、言葉にならぬ何かが、確かに自分の欲望を煽る。 これは所詮、夢に過ぎないのだと嘲笑う自分をどこかで感じながら、その白い肌を貪る様に掻き 抱き、何度も求めた。 ……ただ、その夢を見た日の朝は、安らいだ気持で目覚めることが出来た。 馬超のささやかな変化に気付いたのは、何かと彼に世話を焼いていた趙雲だった。 初め、馬超はほとんど無視していた。 が、意外と気が合うことが分かってからは、機会があればこうして酒を酌み交わしている。 他愛のない話をぽつぽつと交わしつつ馬超の杯に酒を継ぎ足しながら、ふと趙雲が目を細める。 「……何か変わりましたね、馬超殿。表情が、以前より優しくなっています」 以前の貴方は、研ぎ澄まされた故に脆く折れてしまいそうな刃だった。 その言葉は、音声で発されたものではなかったが、何故か馬超にはそう聞こえた。 「そうか」 そっけなく答えながら馬超は趙雲を見やり……優しく微笑んでいる彼と目が合う。 その瞬間、目が覚めた瞬間に忘れてしまったはずの―――「夢の中の女」の面影が蘇った。 美しい黒曜石の瞳。 ぬばたまの黒髪がよく映える白い肌。 紅を差している訳でもないのに艶やかな紅い唇。 決して媚びてはいない…しかし、心を掻き乱す微笑。 それがそのまま目の前の趙雲に重なり……馬超は鼓動の音を耳の奥ではっきり聞いた。 無意識に差し伸べた右手の、人差し指と中指でそっと趙雲の唇をなぞる。 突然の、そして意外すぎる馬超の行動に、趙雲は硬直したまま態度も言葉も選び兼ねていた。 「馬超、殿?」 戸惑った声を上げても、何かを必死に求めているような目をした馬超は、まだ唇に触れ続けている。 「……忘れさせてくれ。何もかも」 「えっ……!?」 有無を言わさず、いきなり馬超は趙雲を引き寄せた。 縋るような…孤独と弱さを剥き出しにした、琥珀の瞳に捕えられ。 今、この人を突き放してはいけないと思った。 また、あの夢を見た。 仮面の男はいなかった。 趙雲そっくりの、あの盲目の女だけがいる。 彼女は馬超に気付くと嬉しそうに笑い―――ゆっくりと、だが今度は手探りをせずに歩み寄った。 「貴女は確か、目が……」 「……見えるようになりました、うっすらと。あなたの…銀色の髪が分かる」 女はそっと手を伸ばして馬超の銀色の髪にそっと触れた後、頬を両手で触れた。 「あなたの、顔が見たい」 少しだけ泣きそうな声でそう言うから、余計に愛しさがこみ上げる。 「貴女に…とても似ている人がいる。衝動に任せて、傷つけてしまったが……」 我に返った時。 目の前には、思わず息をしているのか確かめてしまうほど……深く眠る趙雲がいた。 夢の残像に惑わされた自分が何をしてしまったのかは、その場の全てが無言のうちに突きつける。 翌朝、目覚めた趙雲に必死で謝った。 趙雲は何も言わずに、少しだけやつれた笑顔を見せただけだった。 「大丈夫……その方は、あなたを許しています」 「それは、希望的観測か?」 少しだけ、自虐的な笑顔を浮かべる。 自分を心から信頼してくれていた趙雲へ、裏切りに等しい仕打ちをした自分に向けて。 女は、ただそっと…いたわる様に馬超に寄り添った。 ふわりと香の香りが鼻を掠め……趙雲と同じ香だと、ぼんやり考えた。 魏軍が、国境を脅かしていると報告が入った。 一戦やむ無しの判断を劉備が下し、趙雲と馬超が迎撃に出ることとなったが…問題は、未だ馬超が 趙雲とまともに話が出来ずにいることだった。 「兄上。子供じゃないんですから。どんなワガママを言ったんですか?」 そんな馬超に代わり、軍議に出た馬岱はため息をついた。 「……違う。俺はあの人を裏切って―――傷つけた」 馬岱は、2人の間に何があったのか知る由もない。もともと、吹聴できる話ではないのだ。 単にちょっとしたケンカをしたのだろう…くらいの認識しかないし、予想のしようがない。 が、馬超の辛そうな口調に、ちょっとしたケンカ…では済まされない事態なのを察知する。 「でも、趙将軍が兄上を恨んでいるようには見えませんよ?」 馬岱は趙雲の微笑と、馬超殿に私は気にしていないと伝えてください、と言う言葉を思い出す。 その言葉と笑顔は社交辞令などではなく、間違いなく本心からのものだと馬岱は断言できる。 「……俺は何も言えませんよ。でも、ちゃんと趙将軍と話、してくださいね」 ため息をついて馬岱は馬超の幕舎を出た。 これでは余計言えるはずもない。 ―――曹操が来ていることを。 その日の夢は、いつかの夢とは逆だった。 女はいなかった。 仮面の男が、残忍な笑みを浮かべて立っている。 「己を信じてくれた人間を、組み敷いたか」 「……黙れ」 「血族全てを地獄に叩き落した男だからな、お前は。今更、胸は痛まぬだろうに」 「黙れ!!」 殴りかかるその手を、仮面の男は軽く封じた。 「何を必死に抑えようとしている?」 その言葉の意味を馬超は分かっていた。 曹操への復讐―――蜀に降った今も、その望みは捨てていない。 だが、自分独りで果たせることではないし、馬岱や西涼からずっと付いて来てくれた部下たちを 見捨てたくはない。 今もなお燃え盛る復讐心と、あえてそれを捨て去る勇気。 その狭間で、煩悶し続けていた。 「そうか。では良いことを教えてやろう」 馬超の心を見抜いたように、にやりと仮面の男が笑う。 「曹操が来ているぞ」 「何……ッ!?」 自分の叫びで、目が覚めた。 戦闘は熾烈を極めた。 名も知らぬ魏の武将を討ち取った趙雲は、副将に指揮を委譲すると自ら馬超軍の方へ走る。 一軍を率いる将にはありえない行動だが、やや蜀軍が押していること、そして趙雲軍の統制が 彼抜きでもきちんと保てるように訓練されているからこそ、許される行動だ。 出陣前に見た、馬超の昏い炎の宿った目が気になっていた。 蜀に降ったばかりの頃と、同じ目。 まさか、この戦に曹操が来ていることに気付いた? そう考えるのが自然だろう。 そして、馬超がとるだろう行動も、予測がついた。 魏軍本陣付近、単騎で兵士たちを蹴散らし一直線に突き進むは、まさしく“西涼の錦馬超”。 「曹操―――!!」 血を吐くような叫びを上げ、馬超は奥へ奥へと斬り進む。 刺し違えてでも殺してやる。父の、弟たちの、妻の、一族の仇。 「一族の恨み、今こそ晴らす!!」 曹操らしき武将を、守るように親衛隊たちが囲むのが見えた。 あと少し。これで全てが終わる…そう思った。 だが。 「馬超殿!!」 聞き覚えのある声が自分の名を呼んだ瞬間、左肩に強い衝撃と痛みを受け…意識が飛んだ。 仮面の男が、狂ったように笑っている。 その姿に、女が怯えた表情であとずさった。 笑いながら男は、怯える女に近付くと引きずるようにして、馬超の前に突き出す。 「さぁ、これで全て終わりだ!この女を殺せ。楽になりたいだろう?」 女は死の恐怖で怯えているというより、馬超にそんなことをしてはいけないと無言で訴えている。 その必死の表情が……いつか、自分の心を開こうと必死になってくれていた時の趙雲に似ていた。 憎しみに身を任せないでください。 貴方にはまだ、還れるところがある……! どん、と男は女を突き飛ばした。 「この女はお前の弱さそのものよ!斬り捨てろ。力を求めていただろう?」 憎め。全てを憎んで、壊してしまえばいい! そして、馬超に龍騎尖を投げよこす。 その手の中の龍騎尖を見つめ……涙を頬に伝わせている女を見下ろした。 馬岱以外の全てを喪ったあと、自分に希望をくれた…自分のために親身になって怒り、涙を零してくれた黒耀の瞳の人の面影が重なって。 「……俺は」 馬超が龍騎尖を振り上げ。 ……次の瞬間、龍騎尖が貫いたのは仮面の男の方だった。 刺し貫かれた衝撃か、仮面が剥がれ落ちる。 その下にあった素顔は……紛れもなく自分と同じ顔だった。 「……やれば、出来るじゃないか…。行くがいい……お前が望んでいた世界〈ばしょ〉へ」 全身を血に染めた同じ顔の男は、ニヤリと笑ってそう言うと…紅い羽根となって飛散し、消えた。 目が覚めた時、最初に見たのは怒りながら泣く馬岱だった。 「趙将軍が気付かれなかったら、今ごろどうなっていたかっ……!!」 一瞬の隙に射抜かれた左肩を中心に、落馬した際に打ちつけた身体中がひどく痛む。 気を失う寸前に聞いた趙雲の叫びと馬岱の言葉から察するに、単騎本陣に斬り込んだことに気付いた趙雲が馬岱に知らせると共に、馬超の後を追っていたのだろう。 視線を泣きじゃくる馬岱から外し、天井を見上げる。 そして…不思議なことに気付いた。 少しも悔しくないのだ。怒りも湧いてこない。 以前なら、気が狂いそうなほどに怒り狂っただろうに。 「馬岱殿、撤退の……」 そう言葉を掛けながら趙雲が姿を見せ…目を覚ました馬超に気付いたようだった。 「気が付かれましたか?」 その柔らかい微笑が、やっぱりあの女の面影に重なる。 夢でも現実でも、俺はあなたに救われたのだな。 「あぁ…済まなかった」 そう答えながら、馬超は久々に趙雲の顔を真っ直ぐ見られた…と思った。 見えます、あなたの顔がはっきりと。 女はそう言うと子供のように無邪気に笑う。 心ゆくまであなたの顔を…瞳を見せてください、と真っ直ぐ見つめてくるのが気恥ずかしくて、 わざと意地悪く目をそらした。 あの瞬間に、全ての憎しみが昇華されたわけではない。 けれど、共に生きて行きたいと願う人がいる限り……2度とあの男は現れないだろうし、彼女から 光を奪ってしまうこともないだろう。 「……ありがとう」 抱き締めた温もりが、不意に現実のものとすり替わる。 温もりをくれた相手が、苦しがって逃げ出そうとするのが分かった。 「苦しいです、孟起……」 抗議の声にぼんやり目を開けると、すぐ目の前に少しだけ目を吊り上げた趙雲がいる。 「抱き枕は黙ってろ……」 「そう言う目で私を見ていたんですか!?」 今度こそ趙雲は目を吊り上げると、不機嫌に馬超の腕を払う。 「冗談に決まっているだろう…、子龍……。眠いんだ、早く……」 「……結局、私を抱き枕にする気ですね……」 言いながらも素直に腕の中に戻ってくるのがおかしくて、馬超は声を出さずに笑った。 written by 皎隆潤雅様 ----------------------------------------------- 「蜀漢第一等幻像軍団」の皎隆潤雅サマより 頂きました素敵小説ですv 馬超の内面の葛藤にとても惹き込まれつつ、萌えました。 途中ハラハラドキドキしつつも、 ラストでラブラブvなばちょちょを拝読できて幸せです☆ 本当にありがとうございました! |
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