アンケ小説 - No3

邂逅<後編>
衝動が理性を上回ったことなど、今までどれだけあっただろうか。
どんな時でも冷静であれと、幼い頃から教え込まれた。
それは上に立つ者として、何よりも必要であると己が最も強く感じているものでもあった。
だが……今は―――





「ふ……はっ……」
身体を揺り動かす度に、曹丕の口から乱れた息が漏れる。
流れる汗は頬を伝い、顎から滑り落ちる。

曹丕の眼下に横たわっているのは蒼き龍。
身に纏っていたものは曹丕の手によって取り払われ、床に散っていた。
そして大きく足を割り開かれ、その身の内に曹丕を受け入れさせられている。

合意を伴わない無残なその行為にも、その龍は―――趙雲は声を上げるでも、抵抗するでもなく、ただ曹丕を見つめていた。
凛とした眼差しの中にはしかし、己を犯す曹丕に対しての憎悪や怒りを見て取ることは出来ない。
それどころか、どこか暖かく懐かしさを湛えているように思えるのは気のせいだろうか。
何故自分に対して、憎しみの目を向けるでも、罵ることもしないのか曹丕には不可思議であった。

「…何故なんの……反応も示さぬ?」
動きを一度中断し、呼吸を整えながら曹丕は問うた。
すると趙雲は口元に僅かに笑みを浮かべる。
「無駄だと思うからだ。
どんな反応を返しても、貴殿は止める気はないのであろう?
私に苦痛を与え、追い詰めることが目的なのかもしれぬが―――これだけは言っておく。
こんなことくらいで私は屈したりはせぬ。
女ではないのだ……孕む訳でもないのでな」

敷布を染める朱や、曹丕の侵入を容易に許そうとはしない趙雲の内部から察するに、男との行為は初めてなのだろうと想像がつく。
ならば痛みや苦しさは相当のものだろう。
それでも毅然とした趙雲の態度は、強がって虚勢を張っているようでもない。
痛覚がない訳ではあるまいに。

「私は武人だ―――痛みならば慣れている」
曹丕の心を読み取ったかのように、趙雲はそう付け加えた。
気品すら漂わせる笑みを刻んだままで。

―――あぁ、やはり綺麗だ。
けれどどうあっても天からは引きずり降ろせぬか……蒼龍。

曹丕がこんな行為に及んだのは、自分を追い詰める為の拷問の一種だと趙雲は考えているようだ。
だが真実は異なる。
ただ欲情したのだ。
触れたい……抱きたいという衝動が突き上げてきて、御することが出来なかった。

しかし、こうして実際に趙雲を抱いても、彼の心を侵すには到底至らない。
本当の意味で触れることなど叶わないのだと思い知らされる。

何を惑うたか、初めて会った敵将を欲しいと思ってしまった。
こうして対面する前には、情けなど掛けず殺してしまえば良いと考えていたのに……。
確かに彼には強烈に人を惹きつける磁力のようなものがある。
父はその魅力に抗えなかったのか―――そして自分も。

けれど自分以外の誰かを求めることなどやはり愚かなことなのだ。
結局人は独りなのだ。
周りに多くの人間がいても、誰にも心を許したことはない。
人間などいつ裏切るとも知れないものなのだから。
今までも、そうしてこれからも、信じられるのは己自身だけだ。

曹丕はそう改めて認識する。
と同時に、趙雲への攻めを再開する。
ただ己の欲情を満たすために。

しかし先程と同様に、趙雲の表情は動かない。
「似ているな……」
ふと趙雲が曹丕の顔を見つめながらぽつりと呟く。
今度は気のせいなどではなく、確かな懐かしさをその瞳に宿らせて。
曹丕は疑問を示すように眉根を寄せたが、もうそれ以上趙雲が口を開くことはなかった―――





翌日、曹丕は再び趙雲の元へ足を運んだ。
趙雲は昨日と変わらず、凛とした空気を纏わせたまま、黙して座っていた。
曹丕が室内に入ってきたのを認めても、特別な反応は示されることはない。

「私の名は、曹子桓。
曹孟徳の子だ」
趙雲の前に立ち、曹丕は昨日は口にしなかった己の名を告げた。

すると初めて趙雲の瞳に驚愕の色が宿る。
よもや曹操の息子だとは思わなかったのだろう。
ただ自分を追い詰める為に遣わされた人間だと昨日の時点では考えていたに違いない。
だから敢えて名など問わなかったし、興味もなかったのだ。

「太子が供もつけずに、囚われの身とはいえ敵将の元へ単身で参るとは……」
言いざま、趙雲の視線は鋭く変化し、俊敏な獣を思わせる動きで立ち上がると、素早く曹丕の背後に回りこむ。
背後から伸ばした片腕で、曹丕の首を固定し、もう一方の手で曹丕の腰から剣を抜きさり、彼の胸元に突きつけた。
本当にあっと言う間の出来事であった。
今や曹丕の命は、趙雲の手に握られてしまっている。

しかし―――趙雲の突然の行動にも曹丕は別段驚いてはいなかった。
それどころか、薄く笑みを湛えてさえいる。
曹丕は自分の名を告げれば、趙雲が取るであろう行動を予測していたのだ。
だからこそ昨日は己の正体を明かすことはしなかった。

では何故今日になって名を告げたのか。
それはただ趙雲の驚く様が見たかっただけだ。
何事にも動じぬ平然としたこの男の別の表情が見てみたかった。
ただそんな子供じみた理由からであった。
それを見ることが叶って、満足だった。

「私をどうするつもりだ?」
慌てるでも焦るでもない曹丕の態度に、今度は趙雲が眉根を寄せる。
「……悪いが、私が脱出するまで、貴殿を盾にさせてもらう。
貴殿が曹操の息子であるならば、兵も下手に手出しは出来まい」

やはりそうきたか。
曹丕は一層笑みを深くする。
趙雲は大きな思い違いをしている。
絶対に彼の思惑通りにはいかぬことを曹丕は知っていた。

「何が可笑しい?」
不審そうに問う趙雲に、曹丕は笑ったまま答える。
「私を人質に取ったとて、お前はこの城から出ることさえ叶わん。
ましてこの国から無事に逃げおおせることなど絶対に出来ぬ」
「どういうことだ……?」
「私には人質としての価値はないということだ。
私のことを疎ましく思っている人間は、ここには大勢いるのでな。
そやつらには絶好の機会となろう。
私を殺し、そしてその罪をお前に背負わせ、お前もまた殺される―――死人に口なしだ。
敵将が逃亡の際に私を殺したと父には報告されるだろう……それでお終いだ、お前も私もな」

曹丕が供を付けぬ理由。
それは他人を信じることが出来ないからだ。
身を守るために傍に置いた者が、いつ裏切り、自分の寝首をかくともしれない。
こうも自分を敵視する者が多い中にあって、それは充分に起こり得ることだ。
ならば周りに誰も寄せ付けぬ方が良い。
その方がどれだけ安全だろう。

「……」
趙雲は黙り込んでいる。
曹丕の言葉の真偽を計りかねているのだろう。

だがやがて大きな溜息と共に、趙雲は腕の力を緩め、曹丕を解放する。
どうやら曹丕の言葉に偽りなしと判断したようだ。
「やはり似ている……」
そう呟いて。
昨日も趙雲は同じ言葉を漏らしていた。
懐かしそうな目をして。
一体誰に似ているというのだろうか。

しかし曹丕がそれを問うよりも先に、突然部屋の扉が開いた。
音もなく二つの影が侵入してきた。
何処に目をくれるでもなく、全身を黒の布で覆った影達は曹丕を目掛けて一直線に駆けてくる。
鈍く光を反射する短刀を手に―――
その速さの割に足音は殆どない。

刺客だ。

曹丕がそう判断した時には、既に影は間近に迫っていた。
二つの影はぴたりと息を合わせ、同時に曹丕へと襲い掛かった。





静まり返った室内。
佇んでいるのは二人。
床は血で染まっていた。
その血溜まりの中心には最早物言わぬ屍が二つ横たわっていた。

「……何故……私を助けた?」
そう問いかけたのは曹丕だった。
息絶えた刺客を見下ろしている傍らの男へと。
「……さぁ、どうしてであろうな。
反射的に身体が動いてしまった」
男が―――趙雲が片手に握っている剣は赤く染まっている。
それは先程趙雲が曹丕から奪ったものだ。

彼が曹丕を救ったのだ。
刺客達が曹丕に刃を突き立てるより早く、趙雲は手にした剣で影を切り捨てた。
流れるような動作でもって、鮮やかに。

曹丕が趙雲の元に向かったのを知り、ここならば目撃者ごと消してしまえば良いばかりに、曹丕に敵対する者が刺客を送りこんできたのだろう。
相当の手練れだったようだ。
恐らく自分では歯が立たなかったに違いない。
刺客だと認識した時には、既に影は目前だったのだから。
武に関してもそれ相応の力があると曹丕は思っていた。
だからいざとなっても己の身は守れると。
だがそんなものは過信に過ぎなかったのだ。
趙雲がいなければ確実に死んでいただろう。
己の見極めの甘さに、曹丕は臍を噬む思いだった。

しかしまさか趙雲に助けれるとは曹丕も思ってもみなかった。
そして刺客を送り込んできた者にしても、計算外だったに違いない。

「私の友人にも、貴殿と同じような瞳をしていた男がいる。
誰にも心を開かず、信じられるのは自分だけだと周囲に壁を廻らしていた。
あの当時の奴と、貴殿はとてもよく似ている。
あぁ―――だから思わず貴殿を助けてしまったのかもしれん」
趙雲は静かな口調で、また懐かしむような眼差しになる。
曹丕を見て、似ていると幾度か趙雲が呟いたのは彼の友人のことだったようだ。

「貴殿は自分が思っているよりも、まだまだ甘い。
どれだけ強がってみても、人は独りでは生きてゆけぬのだよ。
まして上に立とうとする者ならば、尚更だ。
人がいてはじめて国は作られる。
皆が皆、貴殿の敵という訳ではないと思う―――そういう者を探し味方を作られよ。
もし全員が敵だと言うのならば、相手を味方に引き入れられるくらいに魅力を磨かれると良い。
……私の遺言だ―――
趙雲は手にしていた曹丕の剣の刀の部分を持ち、柄の部分を差し出した。
受け取れというように。

「殿は私に仰られた……どんなことがあっても決して自分で命を絶つことだけはしてくれるなと。
それがなければ捕らえられた時点で、舌を噛み切っていたのだが……。
囚われの身として生き永らえるなど、武人としては恥でしかない。
私は曹操に仕える気は更々ない―――さぁ、早く私の命を絶つと良い」
趙雲の表情には一片の翳りもない。
曹丕はじっと趙雲を見つめたまま、剣を手に取ろうとはしない。
こちらに降らぬのなら、斬ってしまおうと思っていた筈であるのに。

「来い」
曹丕は突然、刀を持つ方とは別の趙雲の手を掴むと歩き出した。
どこか別の場所で斬られるのだろうと、趙雲は素直にそれに従う。
部屋を出ると扉の前に幾人かの衛兵が倒れていた。
恐らく先程の刺客達の手によるものだろう。
衛兵達が倒された今、辺りは静まり返っていた。

曹丕が趙雲を連れて来たのは、部屋から然程離れていない小さな庭のような場所だった。
草が方々に生茂っており、手入れされている節はない。
死に場所には相応しいと趙雲は辺りを見回し思う。

だが曹丕は趙雲から剣を取らなかった。
そうして庭の隅の草叢を指差す。
「あそこに石の蓋がある。
そこを開ければ地下に通じている。
通路を抜ければ城外の森の中に出られる筈だ」
さしもの趙雲も驚き、瞠目する。
それを満足そうに眺めて、曹丕は顎を抉った。
早く行けと示す。

「その剣はお前に預けておく。
いずれ返してもらいに行こう。
私が天に昇りつめた時にな―――
その時に後悔すると良い……私を助けたことを」
尊大に言い放つ曹丕をしばし見つめ、趙雲もまた優美な笑みを刻んだ。
「貴殿の方こそ、私を殺しておかなかったことを悔やむ時が来る。
次は敵と味方―――再会が楽しみだ。
礼は言わぬぞ」





そうして美しき龍は去った。
曹丕の心に火を灯し。
いずれ来るであろう再会の時を目指して、道は別れたのだった。






written by y.tatibana 2006.09.15
 


back