アンケ小説 - No3

邂逅<前編>
戦から帰還した曹丕の父である曹操の機嫌は頗る良かった。
城門で出迎えた曹丕は、何故こうも父の表情が柔らかいのか最初分からなかった。
蜀との国境付近の戦には勝利したと聞いている。
だが例え戦で勝とうとも、すぐに曹操の目は次へと向いている。
だから、喜びを表すことなど滅多にないのだ。

それは傍らに立つ弟の曹植も同じであったようだ。
曹丕がじっと押し黙っているのに対し、曹植は近付いてきた馬上のそうそうに訊ねる。
「父上、此度の戦、おめでとうございます。
何か特別なことでもございましたか?
とても嬉しそうにしておられるので……」
すると曹操は大きく頷き、楽しげに目を細めた。
「分かるか、植よ。
ようやく念願だった龍を手に入れたのだ」
「えっ……!?
り……龍ですか……」
曹植は曹操の言葉に面食らったように呟く。
だが直ぐに気を取り直し、満面の笑顔を作る。
「それはようございましたね、父上!
龍を手に入れられるとは流石でございます!」
大げさにそう捲くし立てる。

曹丕はやはり口を開かない。
ただ口元を歪めて、薄っすらと笑うだけだった。
弟のその姿を見て。

常に父に媚びる弟。
そして必要がない限り、父に対しても、口を開くことのない自分。

詩を好み、温和で人当たりの良い弟と、無愛想で陰鬱な雰囲気の自分とでは、父を始め周囲の臣下達からどちらが人望を得ているのかは一目瞭然だろう。
長子である曹昂が死に、嫡子となった自分が、通常であれば父の跡を継ぐことになる。
だが、弟を後継者にと望む者も多いし、実際そういう動きもある。
弟自身も周囲の声に威を借りてか、随分と乗り気のようだ。
だから、父の目を自分の方に向けさせようと弟は必死なのだ。

曹丕にとってはその姿が滑稽でならなかった。
弟は馬鹿ではないだろう。
だが愚かだ。
自身が本当に後継者の器たると思っているのか。
周囲の人間が弟を持て囃すのは、兄である自分よりも格段に操りやすいからだ。
仮に父の跡を弟が継いだとしても、傀儡にされるのが積の山だ。
流されやすく気の弱い弟を意のままに動かすことなど、父に長年仕えてきた重臣達には造作もないことだろう。
それを本人は勘違いしている。
自分の方が後継者たる資格があるからこそだと。

明け透けな茶番を見るのも馬鹿馬鹿しく、曹丕は視線を転じる。
次々と門を潜り帰還してくる諸将や兵を見つめる曹丕の目が、軽く見開かれる。
一団の中、縄を打たれ、幾人かの兵に厳重に周りを固められ連行されてくる青い鎧の男。
顔は泥に塗れ、戦袍は赤く染まっていたが、整った造作だということは一目で分かる。
恐らく戦で捕らえられた敵方の人間なのだろう。

―――龍だ。

曹丕は直感する。
これこそが父である曹操が語った龍であると。

捕らえられたというのに、男は項垂れてはいない。
毅然と真っ直ぐに前を見据えている。
そしてその瞳には他者を圧倒するような強い光が宿っている。

視線を外せなくなってしまった曹丕の前を、男は過ぎて行く。
そのほんの一瞬―――目が合った。
乱れた髪の間から、鋭い眼差しが曹丕を射抜いた。
反射的に仰け反りそうになった身体を曹丕は奮い立たせる。
腕を見れば、肌が粟立っていた。

気が付いた時には、男はとうに曹丕の前を過ぎ去っていた。
曹丕の心に強烈な印象を刻み付けて―――





その後、男の名は趙子龍だと知った。
曹丕もその名は聞き及んでいる。
曹操が江陵へと逃げる劉備を大軍をもって追った時、取り残された劉備の嫡男を単騎で救い出した武人。
その姿を見た父は趙子龍を捕らえ、自分の臣下に加えたいと思ったらしい。
結局その時には叶わなかったが、此度の戦でようやく捕らえることに成功したのだ。

捕囚の身の上となった趙雲は、臣下になれという曹操の要請に当然首を縦には振らなかった。
どれだけ厚遇をもって迎えると曹操が言おうとも……。
曹操はそれに怒るどころか、劉備に対する趙雲の忠義の厚さに感服しているようだった。
拒絶されればされる程、なおさらに幕僚に加えたいと切望している。

そんな曹操の気持ちの表れか、趙雲は牢ではなく、城の一室が与えられていた。
広々とした室内には、豪華な調度品が並んでおり、世話を命じられた女官も数名いる。
手や足に枷を嵌められることもなく、まるで客人を持て成すかのような待遇であった。
但し―――武器になる類のものは趙雲の身の回りに決して置かぬように指示が徹底されており、出入り口は屈強な精鋭が固めていた。

その昔、関羽が劉備の夫人共々、曹操に身を寄せていた時を彷彿とさせる。
結局関羽は曹操に降る様なことはなく、劉備の居所が知れると去って行った。

その時の話を聞く度に、曹丕は思ったものだ。
―――甘いな……。
と。
拷問に掛けるなり、夫人を盾に取るなりして、帰順を迫れば良かったのだ。
それでも首を縦に振らなければ、殺してしまえば良い。
みすみす劉備の元に戻してしまうなど、後の禍根を残すだけだ。
現に荊州の地は関羽によって押さえられてしまっているではないか。

長く続く回廊を曹丕は一人歩いている。
目指すは、龍の住まう場所。

関羽の時と同じ轍を踏むのは愚かだ。
この国に降る―――
諾か。
それとも否……即ち死か。
早々に選択させるべきだ。

時間を掛けて父は懐柔しようとしているようだが、父の思惑通りにことが進むとは思えなかった。
逆に時を与えれば与えるだけ、あの男にここから脱出する手段と機を与えることになりかねない。

曹丕は自ら確かめるつもりだった。
趙雲の答えを。
そしてその返答如何では手を下す心積もりでいた。
曹丕には十中八九結果は想像がついていたのだが……。

曹操は激怒するだろう。
念願叶って捕らえることが出来た龍の息の根を止めたとあっては。
恐らく手に掛けた者は首が飛ぶ。
だが、曹丕には確信があった。
父は自分だけは決して殺しはしないだろうと。

それは曹丕に対する曹操の愛情が深いからでは決してない。
それならば曹植への方が何倍もあるに違いない。
だが後を継ぐ器があるのは曹丕の方であると重々承知しているはずだ。
曹植に上に立つだけの資質はない。
曹丕と同様の考えを曹操が持っていることに、曹丕は気付いていた。
そして曹植自身も、そして彼を担ぎ上げようとしている者達もそれが分かっているから、どうにかして取り入ろうと必死なのだ。
曹操は未だどちらを跡継ぎにするかを明言してはいないが、遅かれ早かれ自分がそうなるであろうと曹丕は思っている。
だから―――処刑されることなどない。





警備兵に重々しい扉を開けさせ、中に入る。
外の厳重な警戒が嘘のように、広々とした明るい室内。
目指す人物は、寝台に腰掛け瞑目していた。

曹丕の近づいてくる足音に、ゆっくりと目を開ける。
先日と同じ、強い光を宿した瞳がまっすぐに曹丕へと向けられる。
泥を落とし、真新しい衣に身を包んでいるその姿は、男の整った面立ちを際立たせていた。
戦場で鬼神と称される武人にはとても見えない。

「お前が趙子龍だな」
曹丕は趙雲の目の前に立ち、彼を鋭い視線で見下ろす。
けれど趙雲はどんな反応も示さない。
ただじっと曹丕を見つめている。
曇りのない綺麗な瞳だった。
まるで曹丕の全てを見透かそうとするかのような……。

妙に落ち着かない気持ちを宥め、曹丕は単刀直入に問うた。
「お前は我らに降る意志はあるのか?」
すると、趙雲は曹丕を見上げたままようやく口を開く。
逡巡する素振りは全くなかった。
「私がお仕えするのは劉玄徳殿ただお一人。
逆賊に貸す力などありはせぬ」
瞳に違わぬ凛とした声であった。

曹丕がその答えに驚くことはなかった。
予想通りであったからだ。
「そうか……」
言いざま、曹丕は趙雲を頬を殴りつけた。
そして趙雲の胸倉を掴むと、強引に引き立たせる。

口付けるのかという程に曹丕は趙雲へと顔を近づける。
底冷えのする冷たい眼差しが趙雲へと注がれる。
だが乱れた漆黒の髪の間から、趙雲は逸らすことなくそれを受け止めていた。
「私は敵将に情けを掛けてやる程甘くはない。
逃れられるなどと努々思わぬことだ。
こちらに付く気がないのならば、お前に待っているものは死のみだ」
低い声で囁いて、曹丕は趙雲の腹部へと拳を打つ。
それでも僅かに眉間に皺が寄っただけで、趙雲は苦悶の声一つ漏らさなかった。

その趙雲の身体を突き飛ばし、背後の寝台へと転がす。
そのまま趙雲の上へと圧し掛かった曹丕は、躊躇うことなく趙雲の首に手を掛ける。
寝台に背を叩きつけられた拍子に切ったのか、趙雲の唇の端には血が滲んでいた。

趙雲が抗う様子はなかった。
ここで抵抗を試みたとて、武器の一つも手に持たぬまま、魏の本拠であるこの城から逃れられることなど不可能だ。
それを趙雲も重々承知しているのだろう。
それとも、無駄に生き永らえさせられるより、今ここで息絶えた方が良いと考えているのかもしれない。
劉備の足手まといとならぬうちに。

ただ首に廻した手に力を込めてくる曹丕を、尚も趙雲は見つめている。
変わらぬ強い光でもって。

ぞくりとした。
死を前にしても決して屈せぬ趙雲の強靭さに、再び肌が粟立つ。
不覚にも身体が僅かに震えた。
本当にこの男は龍の化身ではなかろうかと。

気道を塞がれ、趙雲の顔は色を失って、白くなっていく。
それによって口元の赤がなお際立つ。
そして漆黒の瞳もまた。

再度曹丕の背筋を駆け抜けるものがあった。
美しいと思った。
姿形ではなく、その存在が。

今全身を支配するもの。
その正体をはっきりと曹丕は悟った。

それは―――欲情だった。





written by y.tatibana 2006.08.24
 


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