アンケ小説 - No2

囚われたるは
壊れゆく我が心
<前編>
一体いつの頃からだっただろうか。





馬超は死屍累々の戦場の中に立ち、ふと考える。
辺りに己以外の生きる者の気配はない。
配下の兵達は既に自陣へと引いていた。

目を落とすと、物言わぬ屍が足元に横たわっていた。
背後に大きな傷を負い、その背は血で染まっている。
けれど、馬超にはそれが見えなかった。
否。
正確にはその血の色が分からないのだ。
そうなってしまったことがいつのことなのか、もう馬超には思い出せなかった。

何もかもが馬超には色褪せて見える。
花も木も土も―――そして人も。
あんなに鮮やかに目に映っていた血液でさえも、最早色を失っていた。

視力に障害が生じたという訳ではない。
心の問題なのだということは自身が一番良く理解していた。

何をしても心動かされるということがない。
女を抱いても、酒を飲んでも、こうして戦に出て多くの命を奪おうと……何も感じないのだ。
ただそれらをこなしているという認識しか持てない。
心が凍り付いてしまったかのように。
時間が止まったかのように……。

そしていつの間にか目に映るもの全てが色褪せた。
こうなった切欠があったのだろうか。
一族を殺された時だったのかもしれないし、あるいはそれより前だったのかも後だったのかもしれない。

―――今更それを探ったとて、詮無きことか。

馬超は踵を返した。
そうしてまた何を感じることもなく、馬超は色彩のない世界を歩いて行くのだった。





成都に帰還すると、此度の戦の勝利を祝う酒宴の席が設けられていた。
劉備からの労いの言葉も、諸将からの賛辞の声も、やはり馬超の心を少しも揺り動かしはしなかった。
だがそれを表面立てて態度に示すほど、馬超は愚かではなかった。
礼も述べれば、謙遜もする。
余計な摩擦を起こしても、益になるようなことは何一つないのだから。

「凄い働きだったそうじゃねぇか!」
張飛が馬超の隣に腰を下ろし、酒を進めてくる。
「お褒めに預り光栄だ」
馬超は微かに笑みを作って、それを受ける。
「錦馬超の名は伊達じゃないってことだなぁ?子龍!」
張飛は上機嫌で、馬超とは逆のほうへと顔を向けた。
「えぇ、本当に」
穏やかな微笑みを浮かべて、趙雲はゆっくりと頷いた。

だが張飛が声を掛けるまで、趙雲がそこにいたことにすら馬超は気付かなかった。
長坂の英雄などと讃えられてはいるが、随分と印象の薄い男だ。
趙子龍という男は良くも悪くもそう個性のある人間には見えない。
武官らしからぬ優しげな面立ちがそれに拍車を掛けていた。
会えば挨拶を交わし、執務に関することも必要な時には話すことはあるが、それ以上の親交はない。
もちろん自分からそれ以上の関わり合いたい人間とも到底思えなかった。
それは誰に対しても同じだったのだけれど。

「そうだ!
馬超、お前からもこいつに言ってやってくれ。
いい加減身を固めろって」
張飛はもう一度馬超のほうへ視線を移すと、ぐいっと親指で趙雲を指差す。
「張飛殿!!急に何を言い出すのです!?」
趙雲は慌てた様子で、それを止めさせようと張飛の袖口を掴んだ。
だが張飛が口を閉ざす素振りはない。
「兄者達共々心配してるんだよ…いつまでたってもそういう素振りがまったくないもんでなぁ。
どうも奥手なようで、女の噂もまったく聞かん」
「ほう……趙雲殿は独り身であられたか」
馬超にはこれが初耳だった。
挨拶と執務以外のことで会話をしたこともないのだから、当然のことであった。

「この堅物に女の口説き方のひとつでも教えてやってくれ。
お前なら今まで相当遊んできただろう?」
「張飛殿!いい加減にして下さい!
そのようなことを仰られて…馬超殿に失礼ですよ!」
趙雲が必死に取りすがるも、張飛の方は何処吹く風といった様だ。
酒瓶を手にしたまま、言うだけ言って張飛は立ち上がると、次の相手を探して去って行った。
そんな張飛に代わって、本当に申し訳ありませぬと何度も頭を下げる趙雲に馬超は静かに首を振る。
「気にされることはない。
酒の席でのことだ。
それにしても趙雲殿程の方が独り身であられたとは驚きだ」
趙雲のことなど興味の欠片もなかったが、まさかむっつりと黙り込む訳にはいくまいと、馬超は口を開く。

「私はそれ程器用な人間ではありません故、殿の大義の為に尽くすことで精一杯なのです。
妻を娶れるような余裕はありませぬ。
それに……」
趙雲の声は次第に小さくなっていき、恥ずかしげに顔を伏せてしまった。

「それに?」
仕方なく続きを促してやる。
すると趙雲は俯いたまま、しばらく逡巡した後続ける。
「その……あまりそういったことは…得意な方ではないのですよ」
俯いた趙雲の表情は伺えなかったが、恐らく羞恥に顔を染めてでもいるのだろう。
どちらにしろ色を失った馬超には、趙雲の顔が赤かろうが青かろうが、分かりはしないのだが。

大きな溜息を馬超は心の内に吐き出した。
くだらない。
幼子でもあるまいし、女との付き合いのひとつもまともに出来ぬとは。
何ともつまらぬ男だ。

だが馬超はそれを億尾にも出さず、嘲笑をゆったりとした優しい微笑みに置き換える。
「気になさることはない、趙雲殿。
人間誰しも向き不向きというものがあるものだ。
長坂の英雄殿の意外な一面を見れて、俺は嬉しく思う」
「あ…ありがとうございます」
趙雲はますます恐縮したようだ。
趙雲には聞こえぬよう小さく馬超は舌を打つ。





つまらない―――
酒宴も。
会話も。
そして、この男も。
何もかもが。





心の内にそれを押し込めるように、馬超は一気に酒を飲み干した。





それから数日経ったある夜のことだった。
城から邸への帰り道の途中、馬超は偶然に見てしまった。
一目を忍んで木陰で抱き締めあう人影を。
一人は―――趙雲だった。
もう一人は馬超に背を向けていて誰だかは分からない。
だが、その体格から男であることは分かった。

成る程。
そういうことか。

趙雲が妻を娶らぬ理由―――それが分かった気がした。
大義の為だとか奥手だからとか言ってはいたが、一番の問題は女が駄目だとそういうことなのだろうと。
まさか男と関係を持っていることを、周囲に言うわけにもいくまい。
戦場では珍しくないこととはいえ、決して祝福を受けるようなものではない。

だが趙雲がどこで誰と何をしようが、馬超には一切関係のないことだ。
興味もない。
それを周りに吹聴してまわるような趣味も持ち合わせてはいなかった。

馬超は何事もなかったかのようにその場を立ち去ろうとした。
だがその時、人の気配を感じ取ったのだろうか…男の肩口に顔を埋めていた趙雲がふと顔を上げた。
しっかりと目が合った。
あの趙雲のことだ。
羞恥と後ろめたさに慌てて顔を再び伏せると、容易く想像がついた。





けれど…その予想に反し、趙雲は別段驚いた様子も、慌てる風でもなかった。
驚きに目を瞠ったのは馬超の方だった。
趙雲はまっすぐに馬超を見据え、そして―――





微笑んだ。
ふわりと。
流れるように自然に。





すると。
一瞬にして色が甦る。
鮮やかに。

白い肌。
艶やかな黒髪。
黒曜石を思わせるその瞳。
微笑みを形作る紅い唇。

趙雲以外のものはやはり全てが色褪せていたけれど。
それがかえって趙雲の色を際立たせる。





それは普段趙雲が見せる穏やかなそれではなかった。





妖艶。





その言葉が何よりも相応しいと思わせる、壮絶な色香を纏った蠱惑的な微笑だった。
瞳もまた馬超を誘うように淫靡で妖しい光を宿している。

一度強く心臓が脈打ったのを感じた。
己の鼓動をはっきり感じたのはどれくらい久方ぶりのことだろう。
あれが先日の酒宴の席で、張飛にからかわれて慌てふためいていた男か。
俯いて消え入りそうな声で、馬超と会話を交わしていた男と同一人物なのか。
恐ろしいまでの美しさを備えたこの男が。

夢でも見ているようだ。
それともこれまで見てきた趙雲の方こそが幻だったのだろうか。
どちらも彼であるのか。
それとも彼でないのか。
現(うつつ)と夢の狭間に投げ出されように、不可思議な感覚に支配される。
だがそれは決して不快ではなかった。





そうして―――馬超の中で彼自身も未だ気付いてはいない何かが動き始めた。






written by y.tatibana 2004.06.15
 


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