100題 - No83
注:死ネタ注意!

吹き抜ける風
子龍―――
貴方が永遠に覚めぬ眠りについて、もうどれくらいの時が流れただろう。

随分と風の強い日だった。
寝台に横たわった貴方は本当にただ眠っているだけのようで、名を呼べばあの美しい漆黒の瞳が開かれるのではないかと思った程だ。
けれど……どれだけ俺がその名を呼ぼうとも、貴方は決して目を覚ましてはくれなかった。
呆然と貴方の頬に触れれば、随分と己の手が暖かく感じられた。
それは貴方が冷たいせいだと、その時の俺は気付きもしなかった。
俺は目の前の現実を受け入れたくなどなくて、貴方の肩を揺さぶり、何度も何度も貴方の名を呼んだ。

気が付くと、涙を流す岱に俺の身体は羽交い絞めにされていた。
何をする離せともがく俺に、
「もうお止め下さい、従兄上。
お願いです!
趙将軍をもうゆっくりと眠らせて上げて下さい!」
岱が必死にそう言い募る。
そこで俺はとうとう現実を認めざるを得なくなった―――貴方が亡くなったのだということを……。

その後、俺は劉備殿に願い出て、貴方の私邸に移り住むことにした。
必要最低限のものしか置かれてはいない、貴方の性格をそのまま映したかのような整然とした小さな邸。
貴方ほどの地位の人間であればもっと広いところに住むことも、豪華な調度品を揃えることも可能であったろうに。

「華美なものは好まぬし、必要もあるまい。
道具など使えれば良いのだ」
初めてここを訪れ、驚いた様子の俺に、貴方は至極当たり前のようにそう言った。
飾り気のない、そんな貴方にますます魅かれたことを思い出す。

この邸に移り住んで、俺が始めにしたこと。
それは邸中の窓や扉を閉め切ることだった。

その理由は簡単だ。
貴方がここで暮らしていたのだというその証を少しでも留めておきたくて。
そして残された貴方の香りを、吹き抜ける風に攫われてしまわぬようにと。

とある扉の前に立ち、俺はそれを静かに開いた。
中に身を滑り込ませると、すぐにそれをぴたりと閉める。
その室の正面に据えられた文机。
その前に座り、貴方は良く書簡に目を通し、筆を走らせていた。
俺が訪ねると、大抵貴方はこの部屋にいた。
自邸に戻ってまで執務かと呆れる俺にも、貴方はお構いなしだった。

部屋に入って来た俺をちらりと一瞥しただけで、いつも貴方はまた文机に視線を戻すのだ。
俺は苦笑して、貴方から少し離れた場所に腰掛け、執務に励む貴方を見つめるのが常だった。
すっと伸ばされた背筋と、凛とした横顔。
そんな貴方を見ていられれば、俺は会話など特に必要とは思わなかった。
しばらくじっとそうして貴方を見つめていると、貴方は必ず一度眉根を寄せ、「邪魔だ」と素気無く言い捨てる。

けれど俺は知っていた。
そう言いながらも、貴方の頬が薄っすらと赤く染まっていることに。
そして書簡に目を通し、筆を走らせる速度が上がっていることに。
俺との時間の為に、執務を一刻も早く終わらせようとしてくれていることに気付かぬはずはない。
決して素直に好意を示してはくれなかったが、それがまた貴方らしくて愛しかった。

それなのに―――

日に日に薄れていく記憶。
最初の頃は、この部屋に入ると鮮明に思い出せた貴方の表情が、徐々に霞んでいくのだ。
耳に残っている筈の声も―――もう……消えてしまいそうだ。
今日もまたこの部屋に立ち、あの幸せな日々を……貴方のことを思い出そうとするのに、やはり昨日よりもそれはおぼろげで頼りのないものなっている。
この部屋に染み付いた貴方の微かな香りだけが―――貴方がここにいたという証。

俺は堪らず部屋を出た。
そして引き寄せられるように、今度はこの邸の最奥の部屋の扉を開けた。
質素な調度品と寝台だけの貴方の寝所。
幾度この部屋で貴方と身体を重ねただろう。
貴方の肌の温もりも、紡ぎだされる甘い吐息も、唇の柔らかさも―――俺の心身に刻み付けられているはずだ。
寝台に腰を降ろし、俺は目を閉じる。
その感覚を追うように。

けれど―――

それすらも感じられなくなってきている己がいた。
「何故だ!」
愕然とし、思わず声を荒げた俺は、寝台に拳を叩きつける。

あれほど愛していたのに―――
そして今でも貴方は俺の心を捕らえて、離さないのに……。
そればかりか、日々貴方への想いは募り、伝えることの出来ないそれは、溢れてしまいそうだ。

なのに、その想いと反するように、消え行く記憶。
眠るから忘れていくのかとそう考え、ずっと眠りにつかずにいたこともあった。
涙を流すこともなくなった。
正確には零れそうになる涙を懸命に堪えていた。
流れ出る涙から、貴方との思い出も零れ落ちていきそうで。

けれど、何をしても無駄だった。
呼吸する毎に薄れていくような―――貴方の表情、声、息遣い。
滅多に見せてはくれなかったが、はにかんだような貴方の笑顔。
俺が一番好きだったあの笑顔ですら、もう酷く頼りないものになっていた。

このまま俺は本当に何もかも忘れてしまうのだろうか。
貴方がこの世に存在し、俺を愛してくれたことさえも。
嫌だ、嫌だ!
その予感に俺は震えた。

その時、強い風が閉じていた窓を破り、そして部屋の扉から吹き抜けていった。
「!?」
俺は慌てて窓辺に駆け寄り、それを再び堅く閉ざす。
そうして、そのままずるずると壁に寄り掛かるようにして、膝を折った。
「頼む……風よ、吹かないでくれ」
あの人がこの世にいたという最後の香りを、消し去ってしまわないでくれ。

そして―――
俺からあの人の記憶まで奪い去っていかないで……。
どうか―――





written by y.tatibana 2008.07.13
 


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