100題 - No82

落ちる
奇襲により戦場で窮地に陥った劉備を何としてでも逃がす為、趙雲をはじめとする蜀の諸将達は奮戦していた。
そんな中、趙雲の目の前に姿を現した隻眼の男は、戦場で幾度か見(まみ)えたことのある人物だった。
「これはお久しぶりですね、夏侯惇殿」
周囲の敵を槍で一薙ぎしつつ、馬上の趙雲は悠然と微笑む。
その一撃でとうとう槍の柄が折れてしまったにも関わらず。
「得物は折れ、この負け戦の中……随分と余裕だな―――趙子龍よ」
対する魏の将軍夏侯元譲は、鋭い視線で趙雲を射た。

「そう見えますか?
これでも内心焦ってはいるのですよ」
そうは言うものの、趙雲の表情は先程から全く変わってはいない。
流石に奮戦の疲労は見て取れるが、敗戦が決定的となった現状で笑顔を浮かべることが出来るとは、大層肝が据わっている。
長坂の英雄と呼ばれ、蜀の五虎将に名を連ねていることは伊達ではないと夏侯惇は内心舌を巻いた。
だがもちろんそんなことはおくびにも出さず、夏侯惇はじっと趙雲を睨みつけたままだ。

夏侯惇の両脇には副将らしき男がおり、その後方には数十人の兵の姿がある。
一方の趙雲は、自分の麾下の兵達を劉備の守りに付け、僅かに残った兵もこの乱戦の中、散り散りになってしまった状態だ。
ただ唯一残った傍らの副将の耳に、趙雲は短く何かを伝えると、再度眼差しを夏侯惇へと向けた。
「どう考えても、私が不利ですね。
こういう場合は―――
言うや否や、趙雲は馬首を返し、駆け出した。
「逃がしはせぬぞ、趙雲!」
ちらりと趙雲は肩越しに後ろを見遣り、夏侯惇達が追ってくるのを認めると、口元に不敵な笑みを刻む。

武人たるもの敵に背後を見せて逃げることを、趙雲とて良しとしているのでは決して無い。
ただ闇雲に逃げているのではなかった。
敵の目を自分に向けさせ、退却中の劉備から少しでも夏侯惇達を引き離したかったのだ。
だから劉備が退いているのとは真逆の方向へと、趙雲は馬を走らせていた。
だがこれまでの戦いで馬の疲弊も激しく、徐々に間合いは詰められていく。
追いつかれるのは時間の問題だった。

やがて寂れ廃墟となっている楼閣の前でとうとう馬を降りた趙雲は、その中の階段を駆け上がって行った。
夏侯惇達がそれを見逃す筈も無く、趙雲の後へと続く。
階段を昇りきった先にある小部屋。
そこに足を踏み入れた趙雲は、部屋の置くにある大きな窓を背にして立つ。
入り口にはすぐに夏侯惇とその配下の兵たちが姿を現した。

「鬼ごっこは終わりだ。
最早お前に逃げる場所はない」
夏侯惇は手にしていた剣を、前方へと突きつける。
それでもやはり趙雲は涼しげな表情を崩さず、夏侯惇を見つめている。
その瞳にも、恐怖や絶望の色は全く浮かんではいない。
それどころか今のこの状況を楽しんでいるようにさえ思えた。
逃げる側と追う側が、まるで反対になってしまっているかのようだ。

そんな趙雲を前にして夏侯惇が感じた既視感。
どんな窮地に陥ろうともこういう表情で、決してみっともなく取り乱すようなことはないだろうあの男の姿を思い出させる。
そしてその男が趙雲を手に入れたいと思っていることも、承知していた。

「お前の辿るべき道は二つに一つだ。
ここで戦って果てるか……それとも我らの軍門に降るか……」
夏侯惇の言葉に、趙雲は考える素振りすら見せず、口を開く。
「武人ならば、どちらを選ぶかはお分かりでしょう?」
「そうか」
それだけで夏侯惇は趙雲の答えを知る。
そう答えるであろうことも予測していた。

夏侯惇は剣を構えなおした。
武器を持たぬ趙雲を斬ることなど、息をするより容易い。
降らぬというのならば、情けをかけるほど夏侯惇は甘くはない。

最後の抵抗なのか、趙雲は懐から短刀を取り出した。
そんなもので戦おうというのか、それとも自害するつもりか。

「ですが、まだ私は死ぬ訳にはいかないのですよ。
殿が大望を果たされるその時まで」
趙雲は真っ直ぐに夏侯惇を見据え、また不敵に笑う。
「そんな短刀一本で、勝てると思っているのか?」
しかし趙雲は静かに首を振った。
そして―――ゆっくりと後退る。

趙雲が何をしようとしているのか、この時夏侯惇は悟った。
だがそれはあまりにも愚かな行為としか思えない。
「馬鹿な……ここから飛び降りる気か?
助かる筈があるまい」
縦しんば命は取り留めることが出来たとしても、五体満足とはいかないだろう。

けれど趙雲はくすりと笑みを漏らし、夏侯惇へ向け短刀を投げつける。
夏侯惇の意識が一瞬それに逸れたのを見逃さず、趙雲は躊躇うことなく窓から身を躍らせ―――落ちていった。

一同が呆然とする中、投げられた短刀から素早く身を躱した夏侯惇が、窓辺に寄る。
そうして下を覗き込んで、大きく片方の目を見開いたのだ。
大地に横たわる影―――それが一つではなく二つあったから。

折り重なるようにして倒れているのは趙雲と……そして金の髪の男。
その男の姿もまた、夏侯惇が見知った人物だった。
西涼太守であった馬騰の息子―――そして今は蜀に降った馬孟起であった。

微動だにしなかった二つの影は、ややしてゆっくりと起き上がる。
「……何とか助かったようだな」
まず馬超の上の趙雲が汚れた戦袍を払いつつ、立ち上がった。
それを追うように、馬超もまた身を起こしたかと思うと、趙雲を睨みつけた。
「いたたたた……何が助かったようだなだ!
お前の副将からお前が敵に追われてここに向かったと聞かされて、慌てて来てみれば、遠目にお前が追い詰められているのが見えて、こっちは心臓が止まりそうだったんだぞ!
その上、お前が窓から飛び降りてくるし……」
「悪かった」
馬超の言葉を遮るように、趙雲は詫びるが、そこに全くもって馬超は謝罪の念を感じることは出来なかった。
とりあえず謝った感がありありと漂っている。

「お前なぁ……俺が間に合ったから良かったものの、そうじゃなかったら今頃……」
怒りを通り越して、心底呆れた様子の馬超に、趙雲はにっこりと笑って見せる。
「連日の雨で地面が柔らかくなっていたし、この辺りは草や木が生い茂っているから、ある程度の衝撃は吸収してくれるだろうと踏んでいた。
それに―――信じていたから。
孟起が必ず来てくれて、私を受け止めてくれると疑いもしなかったよ」
至極当たり前のように言われて、馬超は閉口せざるを得ない。
「孟起を信頼していたから、副将にお前の元に知らせてくれるよう頼んだんだ。
ありがとう、孟起」
今度のそれはきちんと感謝の込められた言葉だった。
それを感じれば、色々言いたいことはあったのに、最早馬超は何も言えなくなってしまう。

「殿は?」
「無事に退却された」
趙雲は一番の気がかりの種が消えて、ほっと胸を撫で下ろした。
「そうか。
では我々も退くとしよう」
対して馬超は深々と溜息を落とす。
「はぁ……お前と付き合っていると命がいくつあっても足りん気がする」
「それはお互い様だ」
可笑しそうに笑って、趙雲は楼閣を仰ぎ見る。
驚愕の表情のまま、こちらを見下ろしている夏侯惇を。
「では、私はこれで。
また近々、戦でお会い致しましょう。
今度は負けはしません」

そのまま二人は馬に跨ると、颯爽と駆け出した。
「くく……っ」
夏侯惇は込み上げてくる笑いを、耐え切れなかった。
面白い男だ。
奴がどうしてもと欲するのも分かる。

そうして去り行く趙雲に向けていた視線を、隣の馬超へと夏侯惇は移した。
他人のようには思えなかった。
「大変な人間に惚れたな」
そうぽつりと呟く。

―――けれどどれだけ翻弄されようとも、決して手放せはしないのだろう、俺もお前も。

やがて二人の姿は水平線の向こうへと消えていった。





written by y.tatibana 2008.03.01
 


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