100題 - No79 注:死を予兆させる内容を含みます |
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戦況は非常に厳しいものだった。 物見櫓から大地を見渡せば、この砦が敵に囲まれていることは一目瞭然であった。 圧倒的に敵の数がこちらを上回っている。 物見櫓から地面に降り立った馬超の元へ、馬岱が駆け寄ってくる。 「どう……ですか?」 問いかける馬岱の顔色は、心持ち蒼い。 それに対して、馬超は皮肉げに口元を歪めた。 「どうもこうも……お前とて見たであろう? 今の状況で我らに勝ち目はない」 まるで他人事のように告げる馬超を、馬岱はきっと睨み付けた。 「従兄上が諦めてどうするのですか!? 先程、成都からの早馬が到着しました―――援軍が今こちらに向かっていると」 「援軍……か」 それを聞いても、喜ぶわけでもなく、馬超の表情は露ほども変わりはしなかった。 援軍が到着すれば、戦況を覆すことは出来るかもしれない。 だが―――それは援軍が間に合えばの話だ。 相手とて馬鹿ではない。 援軍を来ることを見越して、それが到着する前に攻撃を仕掛けてくるだろう。 ただ援軍が到着するのはまだ先だと予測し、こちらの精神的疲弊を煽るために、敵は動かずにいるのだろうと馬超は踏んでいた。 ―――この地が自分の墓標になるのだろう。 死ぬことなど怖くない。 ただ表面上は淡々とした振りをしていても、内心は忸怩たる思いであった。 こんな小さな砦ひとつ守ることが出来なかったのかと。 五虎大将などと称えられはしても、所詮圧倒的な数の前では己一人の力など塵に等しい……そう思い知って。 そしてもう一つの心残り。 ―――武運を。 そう言って送り出してくれた彼の人。 最期にもう一度会いたかったと。 戦の最中とは思えぬ程静かな夜だった。 砦の一室で、馬超は窓からただぼんやりと月を眺めていた。 たがこの平穏がいつまでも続く筈がない。 四、五日もすれば、そろそろ相手も仕掛けてくるだろうと馬超は予測していた。 それは自分が死ぬ時だとも。 やはりそのことについて特別な感慨などなにもなかった。 と―――。 静まり返った室内に、扉を叩く音が響いた。 当然馬岱だろうと思った馬超は、わざわざ答えを返しはしなかった。 勝手に入ってくるだろうと思ったからだ。 馬超の予想通り、返事がないことを気にする様子もなく、扉は開かれた。 「何か用か?」 視線は外の月へと向けたまま、馬超は問いかける。 「随分なご挨拶だな」 しかし、耳に届いた声は馬岱のものではなかった。 馬超は目を見開き、弾かれたように振り返る。 「子……龍?」 呆然と呟く馬超を前に、室内に入ってきた趙雲が可笑しそうに笑う。 「遥々援軍に駆けつけてやったというのに、何を呆けている? 労いの言葉の一つも掛けてはくれんのか、お前は。 薄情者め」 それでも信じられぬというふうに、馬超は首を振る。 「援軍って……」 すると趙雲は大仰に溜息を落とす。 「早馬で知らせが入っただろう?援軍が向かっていると。 あぁ、そうか……到着の早さに驚いているんだな? 丞相は此度のこと事前に予測されていたんだ―――ここの戦況を受けるよりも随分前に援軍をこちらへ送るよう命じられた。 ……で、お前のことが気掛かりで、私だけ先に来てやったんだ。 案ずるな、本隊もすぐそこまで来ている、明日には到着するだろう。 お前でそれほど驚いているくらいだ、敵もまさかこんなに早く援軍が到着するとは想像していまい」 馬超はじっと趙雲の顔を見つめている。 趙雲もまたもう何も言わず、そんな馬超の視線を受け止めていた。 そうしてようやく我を取り戻したのか、馬超はくすりと小さく笑った。 「そうか……そういうことか。 遠路遙々悪かったな」 「全くだ…」 ぶつぶつ言いながらも、趙雲の口元には笑みが刻まれている。 まぁ座れと馬超に促され、趙雲は簡素な椅子に腰を下ろす。 馬超は棚から何かを取り出すと、卓を挟んで趙雲の向かいに座った。 卓の上に置かれたのは大きな酒瓶と、二つの杯であった。 趙雲は黙って酒瓶を手に取り、微かに眉根を寄せた。 「随分と減っているな。 お前戦の最中は飲まぬのが信条ではなかったか―――勝ってからの美酒に酔いたいからと」 馬超は趙雲の手から酒瓶を奪い取る。 そっと目を伏せ、杯へとそれを注ぐ。 「死んでしまえば、飲むことも出来ないからな」 「死ぬのが怖いのか……?」 問う趙雲の声音は低い。 怒っているようだ。 馬超は視線を杯へと落としたまま、頭を振る。 覇気の無い、弱気な微笑を浮かべて。 「まさか。 ただ情けないだけだ、こんな小さな砦一つ守れないとはな」 趙雲を前に―――否、趙雲の前だからこそ馬超は思わず心情を吐露してしまう。 己の力の無さが、口惜しかった。 趙雲が立ち上がる気配がする。 そう馬超が感じた次の瞬間、ぐいっと強い力で襟元を掴み上げられる。 馬超が顔を上げると、容赦なく、趙雲の拳が頬へと打ちつけられた。 その反動で卓と椅子諸共に、馬超の身体は床へと叩きつけられた。 そんな馬超の襟元を再び趙雲の手が鷲掴み、間近に趙雲の顔が寄せられる。 「しっかりしろ、孟起! お前がそのように腑抜けていて、どうするのだ! お前は将だろうが! お前の動揺は兵たちにも敏感に伝わるのだぞ! 将たる者、如何なるときでも毅然としていろ! ……そういつも言っていたのは、お前だろうに」 趙雲の鋭い視線が、突き刺さる。 こんなに激した趙雲を見るのは、初めてだった。 「死ぬのが怖くないなどと言ってくれるな。 もっと命を大切にしろ―――それを守るために、もっと懸命になれよ! お前の命だけじゃない……お前の手の中には兵隊の命運も預けられているのだぞ。 命の重みが分からぬ者に、兵を率いる資格はない。 それに、こんな小さな砦とお前は言うが、その背後には蜀という我らの国があることを忘れるな。 敵の脅威を決して近づけぬ為の大事な砦だろう!? 兵だけじゃなく、多くの民達の命を背負っていることも忘れるな!」 心の底から彼は心配しているのだ。 蜀という国の未来のことを。 そしてとても愛おしんでいる。 蜀という国を。 そして―――自惚れでなければ、その国や兵や民と同じように……自分のことを深く想ってくれている。 そうだ……思い出せ。 曹魏打倒だけではない。 自分も劉備の大儀に心を打たれ、蜀という国の為に生きようと思ったのではなかったか。 そして彼に出逢い、彼が愛するこの国を自分もまた守りたいと誓ったのではなかったか。 一族を失い、一度は絶望へと突き落とされはしたが、もう決して諦めはしないと、決心した筈だ。 命もまた、自分だけのものではない。 自分が死ねば哀しむ人は多かれ少なかれいるのだ。 それは多くの兵達も同じだ。 家族、恋人、友人―――そんな人々に深い傷を与えてしまうことになる。 何より、失ってしまう哀しさや辛さを、自分は誰よりも知っているではないか。 「……すまん、子龍。 ようやく目が醒めた」 馬超の瞳に宿る強い光を認めたのか、趙雲はやれやれと溜息を吐くと、手を離す。 険しかった表情を緩め、馬超の傍らへと座り込む。 「本当に手間の掛かる男だな」 馬超はゆっくりと倒れていた身を起こすと、呆れ返っている趙雲の身体をきつく抱きしめた。 「お前を抱きたい……子龍」 「馬鹿か、ここを何処だと思っている? 駄目に決まっているだろう」 だが言葉とは裏腹に、趙雲の腕もまた馬超の背へと回される。 「……もう大丈夫だな?孟起」 そう耳元へ問う趙雲の声。 馬超が趙雲の肩口に顔を埋めたまま、しっかりと頷きを返す。 優しくも力強い趙雲の声が、馬超の耳元ではっきりと響いた。 「頑張れ」 と―――。 「……え!従兄上!」 身体を激しく揺さぶられ、馬超ははっと閉じていた目を開く。 馬超の顔を覗き込んでいたのは、馬岱だった。 馬超は―――卓の上に突っ伏していた。 ゆっくりと身を起こす。 周囲を見渡すが、求める人物の姿は無い。 そして卓上にも何も置かれはいなかったし、自身の着衣の乱れも無い。 怪訝そうに眉根を寄せる馬超の様子に、いつもならばすぐに気付くはずの馬岱が今はそんな余裕を無くしていた。 「従兄上!大変です!」 馬超の腕に縋り付いてきた馬岱は、泣いていた。 あまり取り乱すことの無い従弟である筈なのだ。 しかし、そんな姿の馬岱を、馬超は過去に一度見たことがある。 あれはそう一族が曹操に―――。 馬岱が搾り出すような声で、それを告げる。 「今―――成都から報せで……趙雲殿が……」 ―――それだけで、馬超は全てを理解した。 その言葉を遮るように、馬超が立ち上がった。 「みなまで言うな、岱。 分かった」 唇を噛み締め、馬超は何かに耐えるようにきつく拳を握り締めていた。 掛ける言葉も見付からず、その場に佇んでいた馬岱であったが、 「……誰か…居られたのですか?」 冷静さが戻ってきた今、室内の様子に微かな違和感を覚えたのだ。 部屋に入ってきた時、居たのは馬超だけだった筈なのにと。 それなのに、まるで今しがたまで、まるで誰かが居たような―――。 馬超はしかし何も答えはしなかった。 ただじっと目を閉じ、何かに想いを馳せているようだ。 やがて痛みを振り切るように、首を振ると、馬岱の方へと向き直った。 「兵達に伝えろ! 日の出と共に撃って出る!」 「従兄上!?」 馬岱は驚きの声を上げる。 援軍が到着していない現状では、無謀としか言いようが無い。 馬超は笑った。 それは自信に満ちた錦と呼ばれた男に相応しいものだった。 「心配するな、決して自棄になっている訳ではない。 援軍はもうそこまで来ているのだ。 敵もまだまだこちらの援軍は到着せぬと踏んで、今は油断しているであろう。 その隙を突くのだ! そこに援軍が来れば、相手の混乱と動揺はさらに深まるはずだ。 勝機はこちらにある!」 そう馬超は馬岱に指示を下しながら、心のうちで語りかける。 ―――まだしばらくは、お前には逢えぬよ、子龍。 written by y.tatibana 2006.11.20 |
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