100題 - No78

期待
二人で酒を酌み交わしていた折、孟起がふいに言った。
「いい加減にお前も妻を娶れよ、子龍」
と。

口調は非常に軽いものだった。
酒の席でのほんの軽口といった風な。
卓を挟んで目の前に座る孟起の表情を見れば、口元には微かな笑みが浮かんでいる。
一見、いつまでも独り身でいる友人をからかっているように映る。

しかし、その色素の薄い瞳がやけに真剣みを帯びていることに、私はすぐに気付く。
懇願するような、縋るような眼差し。
千々に乱れている感情が、そこにははっきりと表れていた。

私はそれに気付かぬ振りをして、小さく笑った。
「人の心配をするよりも、お前の方こそどうなんだ?
馬家の再興はお前の悲願だろうに」
孟起は派手に遊び歩いているようだったが、未だに婚姻する様子はない。
正妻でなくとも、孟起の身分ならば妾を抱えてもおかしくないだろうに、それもしない。

その理由を私は知っている。
そして私に婚姻を勧める訳も薄々勘付いていた。
しかし、私はそ知らぬ顔を続けていた。

「俺はまだ誰にも縛られることなく、独り身を謳歌したいんだ。
お前はもう充分楽しんだだろう?
劉備殿も随分と心配しておられたし、血族を残すのも臣たる者の役目だろうに。
友人からの忠告だ―――早く妻を迎えろ」
孟起は呆れたような口調で、再度勧めてくる。
本当に困った奴だと友人の貌でもって。

軽く溜息をつきながら、私は手にした杯を傾けた。
その中身を飲み干し、杯を卓へと戻す。
そうしてまっすぐと孟起を見据え、口を開いた。
「そうだな……お前がそこまでいうのなら、そろそろ妻を娶ろうか。
誰か気立てのいい女を紹介してくれ、孟起。
お前ならば沢山知り合いの女がいるだろう?」

私の言葉に、孟起の顔がはっきりと強張った。
自分が妻を娶れと言ったにも係らず……。
言葉と態度が明らかに矛盾している。

「どうした?」
私の問い掛けに、孟起ははっと我に返ったようだ。
慌てて表情を元の笑顔へと戻す。
「いや、すまん。
あまりにもお前が素直だったから、驚いてしまった。
そうか、お前もようやくその気になったか。
しかし相手くらい自分で探せよ」

私が答えるより前に、孟起は何かに追い立てられているかのように続ける。
まるでこれ以上私の口からどんな言葉も聞きたくないかのように。
「でもお前が婚姻したら、今までのように気軽に互いの邸を行き来できなくなるな。
お前のことだ、妻を放っておいて連日俺と飲み明かすということもすまい。
男の友情より、妻にした女だろう?」
孟起の問い掛けに、私は躊躇なく、淡々と答えた。
「そうだな」
と。

すると孟起の瞳が今度は哀しそうに揺れる。
「正直な奴だなぁ」
と、可笑しそうに笑っているにもかかわらず。
やはり先程から孟起の言葉と態度はちぐはぐだ。
人を散々煽っておいて、その通りの答えを返すと動揺する。
己のそんな状態を、孟起は理解しているのだろうか。

私はじっと孟起のそんな瞳を見つめる。
だがすぐにふいっと孟起の視線は逸らされ、そそくさと孟起は立ち上がった。
「……今日は何やら飲み過ぎた。
すまないが、もう邸に戻る」
私の言葉も待たず、去ろうとする孟起の背に、私は一言投げ掛ける。

「本当にお前はそれで良いのか?」

効果は覿面だった。
びくりと孟起の身体を揺れて、その場に縫いとめられたかのように立ち止まる。
私は何も言わず、じっとその孟起の背を見つめていた。
いくばくかの沈黙が続いた後、両脇に下ろされた孟起の拳がぐっと握り込まれる。
そうして観念したのか、孟起がゆっくりと私の方へと身体を向けた。
孟起はもう笑ってはいなかった。
辛そうに眉根を寄せ、耐えるように唇をきつく噛み締めている。

私はそれを機に、席から立ち上がり、孟起の傍へと寄る。
そうして己が手でもって、孟起の両方をそっと包み込んだ。
真っ直ぐに私の顔を見ろと示すが如く。
私は何も言わず、強い眼差しで孟起を射抜く。
視線を逸らすことは赦さない。
孟起はそれを受けて、躊躇いがちに私の目を見返す。

そうして孟起は全て悟ったのだろう―――私に全てを見透かされていることに。

「お前が……妻を娶ってくれれば忘れられると思った。
友情をいつの間にか越えてしまったこの想いに、終わりを告げることが出来ると」
搾り出すような、苦しげな孟起の声。
決して言うつもりはなかったのだと暗に伝わってくる。
そうして、私に気付かれぬうちに消し去ってしまうつもりだったのだとも。

私は孟起の顔をじっと見つめたまま、口を開く。
「忘れてしまえ、そんな想いなど。
さっさと捨ててしまうと良い」
私は冷たい声音で、素気無くそう言い捨てた。
嘘でも偽りでもない、それが私の本心だ。

途端に孟起の瞳に濃い翳りが落ちた。
私の言葉に酷く傷付いたのだろうことは、易々と察せられる。
紛れもなく私の言葉は拒絶だ。
居た堪れなさから、一刻も早くこの場を去りたいのか、己の頬に宛がわれた私の手から逃れようとする。
だが力を込めて、私はそれを赦さない。

「お前の……気持ちは…良く分かった……。
俺の想いが……迷惑だということだな。
だから…離せ。
これ以上何か…言いたいことがあるとでも?
それとも笑い者にでもしたいのか?」
孟起が苦しそうに告げるのに、私は頷いた。

だが―――決して笑い者になどしたい訳ではない。
まだ伝え切れていない言葉があるのだ。

「お前の言う通り迷惑だ。
私が妻を娶る程度で終わりにしてしまえる程度の想いなど……な。
それくらいで忘れてしまえる軽い気持ちならば、とっとと捨て去ってくれ」
孟起の抵抗が止んだ。
私が今述べた言葉がすぐに理解できなかったのだろう。

「その程度の気持ちで、私は靡かぬよ。
私を真に欲しいと想うのならば、例え私が妻を娶ろうが、離れ離れになろうが、それくらいで揺らいでくれるな」
「子龍……」
孟起の目が見開かれる。
彼が今、何を思い考えているのかは分からない。

私が言いたいことは全て伝えた。
これ以上は何も言うつもりはないし、言うべき言葉も持っていない。
現時点で、私は孟起のことを友人以上には感じてはいない。
だが想いを寄せられていると気づいた時、戸惑いや嫌悪などはなかった。
私のその気持ちを孟起がどう変化させていってくれるのか、楽しみでさえあったのだ。

しかし孟起は逃げようとしてる。
私との関係が崩れてしまうことを恐れて。
それが腹立たしかった。
卑怯な臆病者にどうして優しい言葉を掛けてやることができようか。
確かに私が孟起を友以上に思えるかどうかは、分からない。
だが何もせずに諦める程度の気持ちだったのなら、孟起に告げた通り迷惑以外のなにものでもない。

私はようやく捕らえていた孟起を解放し、扉へと向かう。
「帰るのだろう?
門扉まで送ろう」
何事もなかったかのように、私は孟起を促す。

背後で孟起の動く気配がする。
と、次の瞬間には、私は孟起に背後からきつく抱きしめられていた。

「好きだ」

短いけれど、端的な気持ちを載せた言の葉。
それが私の耳元へ熱っぽく注がれた。
それはまた私達の新しい関係への一歩を意味する。
どのようにそれが変化していくのかは、私自身予想も出来ないけれど―――私の鼓動はその刹那、確かに一度強く脈打った。





written by y.tatibana 2006.10.31
 


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