100題 - No75 |
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馬超が負傷したとの知らせを受け、趙雲は彼の陣幕へと逸る気持ちを抑えながら向かった。 諸葛亮のいる本陣に、突如敵の精鋭部隊が現れ、それを伝令から最初に聞いた馬超が急いで本陣へと取って返したのだ。 浮き足立った味方を指揮しつつ、馬超は見事に奇襲部隊を殲滅した。 しかし、その戦闘の折に、諸葛亮を庇って負傷したのだそうだ。 馬超の陣幕の前では、彼の従弟である馬岱が青い顔で立ち尽くしていた。 それを目の当たりにして、趙雲の表情も曇る。 馬超の容態が決して軽症ではないと、感じ取ったからだ。 「趙将軍」 趙雲の姿に気付いた馬岱は、途端にいつも通りの柔和な彼らしい表情を作った。 それは二人の友人を越えた関係に気付いている馬岱が、自分に心配を掛けるまいとする心遣いであると趙雲は気付いた。 それが何とも痛ましく思えた。 「馬岱殿、そのように無理されずとも良い」 馬岱の傍へと寄った趙雲が気遣わしげに声を掛ける。 その肩に宥めるように手を置くと、安心したのか馬岱の目から涙が零れ落ちた。 「……それほど酷い傷なのか?」 ごくりと喉を鳴らし、趙雲は恐る恐る問う。 あの強靭な男が死んでしまうはずなどないと思う一方で、過ぎる不安を拭い去れない。 馬岱はこくりとひとつ頷いた。 「今、薬師に看て頂いてますが、私が見たところ肩に相当深い傷を負っておりました。 出血も酷くて……。 それでも従兄上は、痛みに呻き声一つあげることもなく、ここまで自分で戻って来られたのです」 溢れてくる涙を懸命に抑えようとしてか、馬岱は何度も目元を拭う。 趙雲も無意識のうちに、きつく拳を握り締め、陣幕を食入るように見つめる。 ―――どうか無事であってくれ。 ただそれだけを祈って。 趙雲と馬岱は重苦しい雰囲気の中、ただひたすらに待ち続けた。 やがてその沈黙を破るかのように、幕の入り口の布が上り、薬師と思しき男が姿を見せた。 その表情はどこか呆然としているように趙雲には感じ取れた。 まさかと嫌な予感が胸を過ぎる。 馬岱も同じように感じたのだろう……縺れるような拙い足取りで、薬師の元へと寄った。 「あ……従兄上は!?」 趙雲も馬岱の後に続く。 二人の勢いに薬師は面食らった様子だったが、すぐに笑顔を見せる。 「馬将軍でしたら、大丈夫ですよ。 傷は深かったのですが、命の危機は脱しております」 その言葉に二人はほっと息を吐き出す。 馬岱は薬師の許可を得て、陣幕の中へと姿を消した。 趙雲も馬岱に倣おうと思ったのだが、気になることがあり、その場に留まる。 「先程何やら驚いているように思えたのだが、何か気掛かりでも?」 趙雲に問われ、薬師は気付いておいででしたかと苦笑する。 「馬将軍の状態は大怪我といって差し支えない状態でしたが、あまりにもご本人が平然としているもので、驚いてしまったのです。 今まで数々の怪我人を看て参りましたが、あれ程の怪我を負いながら、治療の間も表情ひとつ変えぬような御方は初めてです。 あの状態では屈強な武将であっても、苦痛に喚いていても何ら不思議でなかったものですから……」 薬師の答えに、趙雲はそういえばと記憶を辿る。 馬超と出逢ってから、もう短くはない時を過ごしたが、彼が辛そうにしている顔をみたことがないなと。 武人であるが故、今回ほど酷くなくとも、怪我自体は珍しいことではない。 そんな中でも馬超が「痛い」とか「苦しい」といった様な言葉を口にするのを聞いたことはないし、そんな態度を見せたこともない。 趙雲とて怪我の一つや二つで泣き喚いたりはしないが、やはり痛みに顔を歪める時とてあるし、歯を喰いしばり必死に耐えることもある。 馬超ほど平静を保ててはいないと思う。 改めてそんな馬超という男の強さを、趙雲は認識する。 薬師に礼を述べ、趙雲もまた馬超の陣幕の中へと入った。 当然馬超は横になっているものと思っていたのに、彼は何時も通り面持ちで立っていた。 常と異なっているのは、裸の上半身に、左肩を中心して幾重にも厳重に帯が巻かれていることくらいだ。 馬岱が必死に横になるように懇願しているが、馬超は大したことはないとそれを拒む。 馬超が無事でいる姿を自らの目で確認して人心地ついた趙雲であったが、その馬超の態度に大きく溜息を吐き出す。 ここまで来ると最早驚きを通り越して、呆れてしまう。 この状況で臥せったとて、誰一人として馬超を責めはしないだろうに。 「孟起……そこまで無理することはないだろう。 敵も退いたようだし、明日には我らも退却すると諸葛亮殿から命が下ったぞ。 このような場所ではゆっくりとはゆかぬかもしれぬが、今は休んでおけ」 趙雲の言葉にも、馬超は素直に頷きはしなかった。 「本当に大したことはないし、無理をしているつもりもない。 退却するとなれば尚のこと、休んでなどおれん。 部隊に指示も出さねばならんし、準備もせねばならん。 気遣いは無用だ」 と、取り付く島もない。 結局どれだけ趙雲と馬岱が言葉を尽くそうとも、馬超が首を縦に振ることはなかった。 翌日も馬超の怪我を心配して、馬車を用意したというのに、彼がそれに乗ることはなく―――愛馬に跨って成都へと戻ったのだった。 そんな先の戦いからしばらくを経た頃、趙雲は体調を崩してしまった。 薬師からは風邪だろうと言われ、疲労も溜まっているようだから二、三日休養するようにと薬草を処方された。 頭が酷く痛み、襲ってくる寒気に趙雲は身を震わせる。 自分のものではないかのように身体が重く、意識も霞がかかったかのようにはっきりとしない。 ごほごほと咳き込みながらも、趙雲は寝台からゆっくりと身を起こした。 大きく肩で息を繰り返しながら、そのまま床へと降り立つ。 眩暈がしてそのまま倒れそうになるのを、趙雲は何とか堪えた。 のろのろとした動作ながらも、趙雲は夜着を脱ぎ、外出用の袍へと着替えを済ます。 今日中に片付けてしまわなければならない執務が山積している。 風邪如きで、のんびり休んでいることなど出来るはずも無い。 ふと馬超のことが頭を過ぎった。 結局は似た者同士ということなのだろうか。 だが自分の場合は、体調管理が出来なかったただの不注意に過ぎない。 馬超のように誰の為に負った傷ではい。 ますます休養などできるような立場ではない。 趙雲は己の身体を叱咤して、城へと向かった―――。 「子龍!」 城の回廊で、趙雲は一番会いたくなかった男に早々に出会ってしまった。 彼にしては珍しく、とても驚いた様子で趙雲の元へと駆け寄って来る。 「お前、今日は体調が悪いんだろう? 使いの者がそう伝えに来ていたぞ」 どうやら気を回した家人が、趙雲より先に城へ伝言に走ったらしい。 「ただの風邪だ……大騒ぎするほどのことではないよ、孟起」 馬超は趙雲の言葉が耳に入っているのかいないのか、険しい面持ちで趙雲を見つめる。 手を伸ばし、趙雲の額に触れると、なおそれは厳しさを増した。 「凄い熱じゃないか! お前、自分の顔色が分かっているのか!? 今日は休め!」 趙雲は煩わしげに額の馬超の手を払い、首を振る。 たったそれだけのことでも身体が鉛のように重い。 「大丈夫だと言っている……」 思い通りにならない自分の身体に苛立ち、それを現すような低い声音が出る。 「無理だ! 風邪だとて侮っていても、もしものことがあるかもしれぬ。 俺が邸まで送って行くから……」 心底趙雲を労わっているらしい馬超の言葉が、趙雲にはひどく癪にさわった。 自分はそのように心配されるほど弱々しく見られているのかと。 そこまで自分は弱くはない。 普段ならばその馬超の心遣いを嬉しく思いこそすれ、腹を立てるようなことなどなかっただろう。 けれど体調の不良のせいか―――今日の趙雲は感情が負の方向へと向いていた。 ただの八つ当たりだと認識できず、趙雲は怒りに任せて声を荒げた。 「煩い! 私がどうなろうがお前の知ったことか! 例えこのまま死んでしまっても、お前には関係ない!」 その怒声に、回廊を歩いていた幾人もの人間が何事かと足を止める。 そして次の瞬間誰もがぎょっとしたように目を見開いた。 それは怒鳴った趙雲すらも例外ではなかった。 「!?」 趙雲は瞬きすることも忘れて、目の前に立つ馬超を凝視している。 ―――馬超は泣いていた。 溢れてくる涙は後を絶たず、ぽろぽろと頬を伝い流れていく。 その涙を隠すことも、拭うこともせず、ただ瞳に哀しげな光を宿し、泣いている。 「お……おい、孟起? お前一体……」 ようやく趙雲は口を開くが、上手く言葉が出てこない。 あの馬超がまさか人目も憚らず涙を見せるとは想像したことすらなかった。 こんな辛そうで、哀しそうな表情の馬超を趙雲は初めて見た。 胸がぎゅっと締め付けられる―――そんな涙だ。 しかし一体何がそれほどまでに馬超の心の琴線に触れたのか、趙雲には分からなかった。 きっとさっきの己の言葉が彼を傷付けてしまったのだろうとは思うものの、涙を流す程のことではないだろうと。 では何故……? だが、趙雲の頭は発熱のせいでぼんやりとしていて、思考が上手く働かない。 ただ止め処なく涙を流し続ける馬超を見ていることが、辛かった。 まるでこの世の全てから見捨てられてしまったかのような、そんな哀しい顔をしてくれるなと。 その一心で趙雲は詫びを述べようと口を開く。 「孟起……すまな……」 だがそれは最後まで音になることはなかった。 激しい眩暈にとうとう趙雲は立っていることが出来ず、そのまま意識は闇の中へと飲み込まれていったのだ。 額に冷たい感触を覚え、趙雲は目を覚ます。 ひんやりと心地良いそれが濡らした布だと知るのに、しばしの時間を要した。 浅い息を繰り返しながら、趙雲はここが見慣れた自室だということに気付く。 そして彫像のように動かず、じっと自分を凝視している馬超の存在にも。 ようやく涙は止まったらしい。 けれど随分と泣き続けたせいだろう―――目元は未だ赤く腫れている。 そして何かに耐えるように唇を噛み締めて、哀しげな表情でいるのは相変らずで。 だが、趙雲が目を覚ましたのを認めて、馬超の表情が安心したように少し緩む。 ようやく呪縛から解き放たれた様子で、大きく息を吐き出した。 「大丈夫か、子龍? どこか辛いところはないか?」 優しく問い掛けてくれる馬超に、趙雲は僅かに首を振る。 確かに体調は思わしくはなかったが、馬超の方が余程辛そうだ。 「すまない……結局お前に迷惑を掛けてしまったな……。 それにさっきの城でのことも悪かった」 「いや―――お前が無事でいてくれさえすれば良いのだ」 そう言って馬超は微かに笑む。 けれどどこか翳りを残したままで。 「……すまんな、孟起。 私はどうやら相当鈍感なようで……正直分からぬのだ。 私の言葉の何が、どんな痛みでも耐えうる強いお前をそこまで傷付けてしまったのかが……」 「俺は別に強くなんかない」 趙雲の疑問に、馬超はすぐに答えを返す。 えっ?と戸惑いを見せる趙雲に、馬超は再度繰り返した。 「強くなどないさ。 肉体の痛みはほんの些細なものだ―――本当に無理をしている訳ではない。 ただ俺の痛みに対する感覚が鈍いだけなのだろう。 でも心のほうはどうしようもなく弱い……お前の言葉一つで動揺して、乱されて、感情の制御が効かなくなる」 一度そこで言葉を切り、馬超は寝台に横たわる趙雲の手を取る。 その掌に唇を寄せた後、両手で包み込むようにそれを握り締めた。 「俺は子龍がいないと駄目なんだ。 子龍が生き生きと戦場を駆け、槍を揮い、俺に見せてくれる明るい笑顔が俺の糧となっている。 ―――死ぬだなんて簡単に言ってくれるな」 あぁ……と、ここに至ってようやく趙雲は気が付いた。 馬超を深く傷つけてしまった自分の言葉を。 一族を最悪の形で突如失ってしまった馬超にとって、「死」などと軽々しい気持ちで口にしてしまってはいけなかったのだ。 武人として常に「死」と隣り合わせであるからこそ、尚更に。 趙雲とて馬超を失いたくない気持ちはもちろん大きいが、一度全てを無くした馬超にとっては殊更にその気持ちが強いのだろう。 「もう俺は失いたくはない……」 趙雲の考えを裏付けるように、馬超がそう言葉を重ねる。 「本当にすまなかった―――孟起。 体調のせいにするのは卑怯だけれど、孟起に対等と思われていないんじゃないかと勝手に苛立って、お前に当たってしまった。 お前の立場になって考えてみれば、すぐに分かることだったのにな。 孟起はどんなことがあっても平然としているのだろうと、いつの間にか勝手にそう思い込んでしまっていたよ。 弱さを持たない人間などいないのにな」 もう良いというように馬超は首を振り、手ではなく今度は趙雲の唇へと口付けた。 「―――風邪……うつっても知らんぞ」 「構わんさ」 互いにくすりと小さく笑い合う。 馬超の手が趙雲の髪を梳き始め、それが何とも心地良くて、趙雲は目を閉じる。 そのまま身体が要求するままに、眠りの淵へと落ちていくのだった。 written by y.tatibana 2006.07.02 |
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