100題 - No73 |
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微かな空気の変化が、趙雲の目覚めの契機となった。 目を開けると、そこは見慣れた己の寝所。 まだ薄暗い室内の隅に設えれた寝台から離れた窓へと視線を移すと、夜ではないことは分るが、陽は差し込んでいない。 身を起こそうとすれば、それを阻むように身体に廻された傍らの男の腕があった。 趙雲の視線が、今度は隣へと向けられる。 ぐっすりと眠っているらしい馬超の寝顔を見て、趙雲はふっと口元を緩めた。 昔はほんの僅かな音や動きでも、弾かれたように馬超は身を起こしたものだった。 戦場ではともかくも、平時にあっても異常なほど過敏であった。 一族を失い、故郷を追われた彼の置かれた環境と、そして心の傷を思えば当然だろう。 そんな馬超が、今では自分へと身を寄せて、安心したように眠りについている。 それが趙雲の心に穏やかな温もりを齎し、愛おしさが込み上げてくる。 馬超の頬にそっと唇を寄せ、軽く口付けた後、趙雲は彼を起こさぬように慎重にその腕の中から抜け出した。 馬超の腕に包まれていた為に気付かなかったが、素肌に感じる外気の冷たさに、思わず身震いする。 床に散った自身の袍を手早く身に纏うと、趙雲は窓際へと足を進めた。 そうして窓の外へと目を向ける。 「あぁ……やはり」 小さく呟くと、趙雲はそのまま室内を横切って、中庭へと続く扉を開けた。 素早く外へと身を滑らせ、外気が中に入り込まないように扉を閉める。 夜中の内に降り始めたのだろう―――庭は一面が雪の白で覆われていた。 今も重く垂れ込めた空から、はらりはらりと雪が舞い降りてくる。 成都での初雪だ。 趙雲は雪の降り出しに昔から敏感だった。 建物の中にいても微妙な空気の変化で、それが分る。 それは趙雲が北方の出身ということもあるだろう。 そして何よりも―――。 「何をしている? 風邪を引くぞ」 背後から声が掛かり、趙雲が振り向くよりも早く、後ろから包み込むように抱き締められる。 途端に心地良い温もりが、趙雲の全身を外の冷え切った空気から守る。 「すまん、起こしてしまったな、孟起」 「いや、随分とゆっくり眠らせて貰った。 ―――雪を見ていたのか? 初雪だな」 趙雲を抱き締めたまま、馬超は彼の肩口に顔を置き、庭を覆う白銀を見遣る。 「私は常山の生まれだからだからな……雪には色々と思い出がある。 特に初雪は……」 何故かそこで言い澱む趙雲に、馬超は顔を傾け、趙雲の表情を伺った。 趙雲は何処か懐かしむように雪を見つめている。 「特別な思い入れでもあるのか?」 馬超の問われ、趙雲は少し照れた様子で微笑んだ。 「私は初雪の日に生まれたのだと、母が昔そう言っていた。 常山と成都とでは雪の降り始める時期が異なっていることは、分ってはいるのだが……何となく感慨深いものがあってな」 幼子ではないのだ。 この年になって未だ自分の生まれた時期に、嬉しさを感じているというのは女々しいとは思う。 それでも、初雪を見ると、趙雲は母の言葉を思い出すのだ。 「孟起が生まれたのはいつくらいだ?」 馬超が何も言わずに黙っているものだから、趙雲は彼が呆れているのだろうと察して、気恥ずかしさに慌てて口を開いた。 「ん……?俺か? 春頃だったと聞いている―――そうだな、ここでいうなら桃の花が咲く頃か」 「春か……。 何だか意外だな。 孟起は夏という感じがする」 趙雲が言うと、馬超は眉根を寄せた。 「どういう意味だ? 暑苦しいってことか?」 拗ねたような馬超の口調。 すると趙雲はあははと笑い声を上げた。 宥めるようにして、胸の前に廻された馬超の手に己のそれを重ね合わせた。 「お前の強靭さや輝きが、夏の力強さによく似合うと思ったからだよ」 趙雲の瞳は再び空へと向けられる。 馬超もまた趙雲に倣う。 そうして二人で静かに舞い降りる雪をしばらく眺めていたのだった。 その日の夜。 執務を終え、趙雲が邸に戻ってくると、自室には既に客があった。 円卓の前の椅子に腰掛け、家人が持成しに出したものだろう―――酒の杯を傾けていた。 趙雲も慣れたもので、別段驚いたりはしない。 「おかえり、先に飲ませてもらっているぞ」 杯を軽く掲げて出迎えた馬超に、趙雲は構わないよと微笑んで答える。 いつもならそのまま馬超を残して湯浴みに向かうのだが、今日は馬超にそれを止められた。 馬超は立ち上がり、どうしたのだと訝しがる趙雲へと歩み寄る。 そのまま包み込むような優しさで、趙雲を抱き締めた。 馬超の性格を表す様に、彼の抱擁は少し乱暴なほど強いのが常であるのに、珍しいと趙雲は感じる。 「孟起……一体どうした? 湯浴みを済ませるまでは、肌を合わせる気はないぞ」 性急にそういう衝動に突き動かされたが為に、自分を抱き締めそれを示したのだと趙雲は考えたのだ。 若いなと苦笑しながら。 「人を常に発情しているみたいに言うな。 ……今日はお前を抱かん」 趙雲の言葉を不機嫌そうに馬超は否定した。 それに対し趙雲は軽く目を瞠る。 熱でもあるのではないかと、口にすれば更に機嫌を損ねるであろう言葉を趙雲は飲み込んだ。 「今日はお前が生まれたことに感謝したいんだ。 おめでとう、子龍」 先程とは打って変わって優しい口調になり、馬超は抱き締めた趙雲の耳元へと囁きかける。 一瞬馬超が何を言っているのか、趙雲には分からなかった。 幾度かその台詞を頭の中で繰り返した後、趙雲の顔がかーっと赤く染まった。 普段の冷静沈着な趙雲を知る者が見れば、それは驚くほどに。 しかし趙雲にとっては馬超がそのようなことを口にするなど思ってもみなかったのだ。 「……っ、何を急に……」 趙雲は顔を見られたくはないと、馬超の肩口へと顔を埋めた。 その方が肌を通して顔の火照りをより馬超へと伝えるということに、気付かぬままに。 早くなる趙雲の鼓動も、抱き締めた身体から伝わってくる。 だが馬超はそれに気付かぬ振りをする。 いつもならこんな趙雲を見ればからかいの一つでも口にしているところだが、今日はそんな気持ちになれない。 この戦乱の世の中で、心の底から今ここに趙雲が存在してくれて―――自分の傍に居てくれることが嬉しい。 全てを失った自分に柔らかく暖かく降り注いだ光だ。 趙雲もまた徐々に落ち着きを取り戻してくる。 優しく抱き締めてくれる馬超の腕がとても心地良いと感じる程に。 自分にとっても馬超の腕の中にいる時が、何よりも幸せだと感じる。 改めてそれを認識する。 「ありがとう、孟起」 そっと趙雲の腕が馬超へと廻される。 「ほら」 その後、円卓に戻り席についた時、馬超は趙雲に何かを差し出した。 趙雲が受け取り、それを広げれば―――それは数箇所に見事な刺繍の施された袍だった。 だが決して派手ではない。 趙雲の好みを熟知してのことだろう、白を基調にした上品なものだった。 この時、今朝の馬超の態度の真意もようやく分かった。 初雪の日に生まれたと言った時、馬超が黙り込んでしまったことの。 あれは決して呆れていた訳ではなかったのだ。 こうして趙雲の誕生を祝おうと、色々考えを廻らせてくれていたのだろう。 馬超が趙雲に似合うものをと選んでくれたのだろう袍ももちろん嬉しいが、何よりも彼のその気持ちが嬉しかった。 生まれは裕福ではなかったし、武人として槍を手にするようになってからも、こうして誰かに祝って貰ったことなどなかったから……。 外では再び雪が降り始めていた―――。 written by y.tatibana 2006.06.04 |
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