100題 - No70 |
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規則正しく繰り返される寝息を耳にして、ようやく馬超は小さく息を吐き出した。 隣には一糸纏わぬ姿の趙雲が横たわっている。 そっと額に掛かる前髪を馬超はかきあげてやるが、趙雲は目を覚まさない。 ぐっすりと深い眠りについてるようだ。 それを確認して、馬超は再度ほっと息をつくのだった。 尽きることを知らないように、趙雲を抱いた。 趙雲から全ての力を奪い尽くそうと。 そうして彼は気を失うようにして、つい今しがた眠りについた。 戦の後、成都に戻ってきたばかりの趙雲の身体は疲弊しきっていたのだろう。 にもかかわらず、馬超は手加減することなく、何度もその身体を貪った。 本当は馬超とて、戦で心身ともに消耗したであろう趙雲をそんな風に抱きたい訳ではないのだ。 相手の状況を見極め、慮れぬ程、馬超は幼くはないし、身を持て余してもいない。 ゆっくりと身体も心も労わって欲しいのが馬超の本心だ。 だが。 こうでもしなければ趙雲は眠れないのだ。 それを理解しているからこそ、馬超は趙雲が意識を手放すまで激しく攻め立て、寝付かせる。 そこには誰もが知る趙子龍の姿はない。 義に篤く、如何なる時も沈着冷静で、戦場では鬼神の如き圧倒的な強さでもって、敵を屠る。 威風堂々としたその姿は、まさに龍のようだと―――誰もが趙雲をそう評する。 しかし実際は―――。 あの日、偶然それに出くわすまで、馬超とて趙子龍という人物の本当の姿を知らなかったのだ。 友人同士だった二人の関係が変化したのはそれからだった―――。 長い隊列を為して、兵達が次々に帰還してくる。 掲げられた旗には「趙」の文字。 城門で出迎えた劉備は、兵達に労いの言葉を掛けていく。 やがて部隊を率いた、此度の戦の功労者である趙雲が姿を見せると、劉備はその傍へと寄った。 ふわりと戦の疲れを感じさせない所作で、趙雲は馬から降りると、その場で膝をついた。 「今回も見事な戦い振りだったそうだね、子龍。 流石は長坂の英雄だ。 そなたのような配下を持てて、私は幸せ者だ。 これからもよろしく頼むよ」 劉備がにこやかにそう言うと、趙雲は深く頭を下げた。 「恐れ入ります。 誠に私などにはもったいないお言葉……。 今後も殿の大義の為に、身命を賭して戦うつもりです」 趙雲は劉備への挨拶を終えると、馬を引いて歩き始めた。 その視線の先に、馬超の姿を認め、微笑みを見せる。 「孟起、このような所でどうした?」 「どうしたとはご挨拶だな、子龍。 お前が戻るというから、わざわざ出迎えに来てやったんだ」 馬超がむすりと答えると、趙雲はくすりと小さく笑い声を漏らす。 「それはありがとう。 だが単に執務がさぼりたかっただけではないのか? 馬岱殿が今頃城の中をお前を探して右往左往しているのでは?」 これまで行き先も告げず、突如いなくなった馬超を探す馬岱の姿を趙雲は何度も城で目にしていた。 今頃さぞや従弟殿は嘆いてるのだろうと、趙雲はその姿を想像して同情を禁じえない。 するとますます馬超は口をへの字に曲げるのだった。 「失礼な奴だな。 友人を手厚く出迎えてやろうという俺の気持ちが分からんのか。 ……まぁ劉備殿の警護を兼ねてというのが本当なのだが」 二人は顔を見合わせて、一頻り笑った。 「此度も物凄い活躍だったそうだな。 長坂の英雄殿を倒せるような奴はこの世にはおらぬのかもしれんな」 馬超が言うのに、趙雲は首を振る。 「やめてくれ、孟起。 私を持ち上げた所で何も出ては来ないぞ」 「そう謙遜するなよ。 今度またゆっくりと酒でも飲みながら話を聞かせてくれ。 疲れているだろうに、引き止めて悪かったな」 構わないよと趙雲はまた穏やかに笑みを浮かべて、去って行った。 その胸中に本当はどんな想いがあるのか、この時の馬超はもちろん知る由もなかった。 その日の夕刻。 机に向かうのも飽き飽きしてきた馬超は、馬を走らせて気分転換でも図ろうと、またもや馬岱の目を盗み、厩へと向かった。 元々内務的なことは自分の性に合わないのだ。 戦場で駆ける時こそ、心が躍り、生きているのだと実感できる―――それが武人というものだろう。 厩に入り、愛馬へと近付こうとしたその時、馬超は人の気配を感じて立ち止まった。 一番奥まった場所に、人影がある。 そこは確か趙雲の馬が繋がれている箇所だ。 陽が沈みかけた厩舎内は、既に薄暗く、遠目ではそれが誰であるのか判別できなかった。 その馬の主である趙雲は今頃自分の邸で、戦の疲れを癒しているはずだ……ここにいる訳がない。 調練はとっくに終わっているこの時刻に、人がいること自体がおかしい。 不審者かと瞬時に考え、馬超は腰の剣に手を伸ばす。 相手にこちらの存在を悟られぬよう気配を消して、馬超はそちらへと近付く。 「何者だ!?」 声を上げると同時に、馬超は剣を鞘から抜いた。 その人物は目の前の馬の首に顔を擦りつけ、ぎゅっとしがみ付いていた。 馬超の声にびくりと身体を震わせ、相手はゆっくりと顔を上げた。 ここまで距離が縮まれば、相手の顔は判別できる。 そしてその人物の顔をはっきりと認めた時、馬超は大きく目を見開いた。 「し……子龍?」 そこにいたのは、邸で寛いでいるとばかり思っていた趙雲だった。 けれど、馬超を驚かせたのはそのことばかりではなかった。 趙雲は泣いていた。 両の目からはたはたと止め処なく溢れる涙が、頬を濡らしている。 身体は小刻みに震え、顔は色をなくして蒼白だった。 長坂の英雄―――。 そう称えられる常なる男の姿とは似ても似つかない。 まるで親に捨てられた幼子のように、瞳は不安げに揺れている。 「うっ……あ……っ」 馬超の姿を見て、趙雲は何か言葉を発せようとした。 だがそれは上手くいかず、嗚咽にかき消される。 手の甲で涙を拭き取るが、次から次へとそれは零れ落ちてきて、一向に止まる気配がない。 見るなというように、趙雲は顔を両手で覆うと、大きく頭を振った。 嗚咽を繰り返し、身体を震わせ続ける趙雲を馬超は呆然と見つめていた。 一体何がどうしたというのか。 趙雲の身に何が起こったのか。 全く分からず、ただ混乱するばかりだった。 「すま……ない、も…うき。 何でもない……ほん……とうに…だから……忘れて…くれ」 しばらく後、ようやく趙雲は途切れ途切れに馬超へと声を掛けてきた。 顔を覆っていた手を外し、趙雲は笑顔を見せようと試みたようだった。 しかし先程同様それは上手くいかなかった。 驚愕に立ち尽くしていた馬超の身体がその時、動いた。 腕を趙雲へと差しだし、そのまま彼の身体を己のほうへと引き寄せ、抱き締める。 震える身体を宥めるように、優しく趙雲の背を撫でる。 「孟……起?」 驚いたような、戸惑ったような趙雲の声が肩口から聞こえた。 「泣きたいのなら、無理せず思い切り泣けばいい。 俺がこうして傍にいてやるから」 言って、馬超は何かから守るように趙雲の身体を更に力を込めて抱く。 馬超自身も無意識の行動だったのだ。 目の前で涙を流す趙雲が、酷く弱々しく、痛ましく見えた。 消えてしまいそうな程に。 何が趙雲をそんな風にさせているのか分かりはしなかった。 それでもただ守ってやりたいと―――そんな衝動が馬超を突き動かしたのだ。 趙雲にそんな馬超の心の内が伝わったのだろうか。 おずおずと馬超の背に趙雲の手が廻され、上衣をぎゅっと握り締める感触があった。 「すま……ん…」 そんな弱々しい呟きと共に、趙雲はそのまま馬超に身を預けたまま涙を流し続けたのだった―――。 陽が完全に落ち、暗闇が室内を支配した頃、趙雲の涙はようやく止まった。 二人は厩舎の壁に背を預け、座った。 「見っとも無い姿を見せてしまったな、孟起。 悪かった」 その声音は、まさしくいつも馬超が知る趙雲のものだった。 だがそれだけで済ますつもりは馬超にはない。 「理由を……話してはくれんか?」 しばしの沈黙が降りる。 虫の鳴く声と、馬の息遣いだけが辺りに響く。 暗闇の中、隣に座る趙雲の表情を読み取ることは馬超には出来なかった。 しかし、大きな溜息と共に、趙雲は口を開いた。 「長坂の英雄―――私のことを周囲はそう称えてくれる。 だが、本当は怖いのだと言ったらお前は信じてくれるか?」 「怖い……?」 その意味が分からずに、馬超は鸚鵡返しに問う。 「そう怖いんだ、私は。 槍を持つことも、戦場に立つことも、そして何より敵を殺すことが。 私は決して皆が思うように強くなどない……いつも怯え震えている。 戦で倒した敵の血と、その死顔がいつも私に付き纏い、決して離れてはくれない」 武人として、敵の命を奪うのは至極当たり前のことだ。 それに罪悪感を感じたことは、正直馬超にはなかった。 無闇に屠っているのではない。 未来を切り開く為―――いつか戦乱のない世を創る為に必要なことなのだと。 「こんなことを言えばお前に軽蔑されるだろう。 だが、私は決して武人になりたかった訳ではない……まして英雄になど。 私の育った村は豊かではなかったが、皆が家族のように仲が良かった。 盗賊達が現れ近隣の村が襲われていると人伝に聞いて、私は武器を持った。 ただ両親を含め、村の人達を守れればそれで良かったんだ。 乱世を鎮めようとか、そんな大きな志は全くなかった」 趙雲の過去のことは少しだけ聞いたことがあった。 彼の村は盗賊に襲われて、殆どの人間が命を落としてしまったと。 趙雲の両親も兄弟達もその犠牲となり、趙雲は天涯孤独の身になったとも。 「お前も知っているだろう、孟起。 結局私は守れなかった―――手に届くほんの僅かな人達を守りたかっただけなのに……それすら叶わなかった。 それから私はがむしゃらに武芸に励んだよ。 力さえ手に入れれば、何もかも守れると思った。 けれど守る為に、それ以上に沢山の人間を手に掛けねばなからなかった。 若君一人を助ける為に、一体私が何人の人間の命を奪ったと思う? 戦なのだ、敵なのだからといってそれは正当化され、賛辞される―――英雄などと称えられて。 徴兵され、無理矢理戦場に駆り出された彼らに、何一つ命を絶たれるべき罪などないというのに」 今回の戦いで、趙雲は一つの砦を落とした。 敵の指揮官は戦況が劣勢とみると、己が逃げ延びる時間を稼ぐ為に、兵達に突撃の命令を下した。 降伏すれば兵達の命は助けるという言葉には耳を貸さず。 一般兵は助かっても、指揮官である自分は処刑されるのは明らかであった為に。 結果、多くの兵達が地に倒れることになった。 そして成都への帰還の途中、趙雲の部隊はひとつの村に立ち寄った。 そこで趙雲はまだ年端もゆかぬ子供から石を投げ付けられた。 大きな目に涙をいっぱいに湛え、しかしはっきりとした憎しみの炎がそこには宿っている。 「人殺し!」 そう叫び、父上を返せとその子供はその憎しみを趙雲へとぶつけてきたのだ。 その村は砦に配備されていた兵達の多くが暮らしていた村なのだと、その後趙雲はそう聞き及んだ。 「彼らにも生まれ育った場所が当然あり、そして家族がいる。 私と同じようにただささやかな幸せを守りたかっただけかもしれないのに―――私がその未来を奪った。 守る為に奪う。 その矛盾が戦から戻ると特に強く感じる。 自分でもどうしようもない苦しさや哀しさが襲ってきて、制御できなくなるんだ。 身体が震え、涙が止まらなくなる―――今日のように」 情けないとは分かっているけれど……そう呟いて趙雲は立てた膝の上に、顔を埋めた。 馬超は何も言わなかった。 呆れていたのでも、軽蔑していたのでもない。 ただ趙雲のことが酷く哀れに思えた。 彼は武人には向いていない。 しかし、退役してしまえと口を突いて出そうになった言葉を馬超は飲み込んだ。 そう出来るのならば、趙雲はとっくにそうしていただろう。 流れゆく時の中で、もう彼は既に引き返せない程の所にまで来てしまった。 流浪の将であった劉備は今や一国を擁し、曹魏や孫呉に肩を並べる存在にまでなった。 それに従って趙雲が守るべきものは増えていき、多くの期待と命をその身に背負っている。 小さな村を守れれば良いのだと考えていた頃と、その立場は大きく違えてしまった。 力を得たことが、趙雲の場合逆に仇となった。 いっその事、彼が弱かったのなら、苦しむことなくとっくに戦場で命を落としていただろうに。 長坂の英雄。 人々が尊敬と畏怖の念を込めて呼ぶその名が、彼を呪縛しているのだ。 彼は自分を殺して、それを演じ続けるのだろう。 心に走っていく罅をどうすることも出来ずに。 命が果てるのが先か。 それとも心が壊れてしまうのが先か―――馬超には当然の事ながら想像もつかない。 「私の話しは終わりだよ。 随分遅くまでつき合わせてしまったな。 早く邸に戻ってくれ、馬岱殿が心配されているだろう」 「お前は?」 そう訊ねれば、趙雲は静かに首を振った。 「私はもうしばらく此処にいるよ。 泣きはらした顔を邸の人間に見せる訳にはいかないし、それに―――どのみち今日は眠ることは出来ないだろうから」 戦の後暫くは、どうしても眠ることが出来ないのだと趙雲は言う。 目を閉じれば、血の匂いと敵の肉を絶つ感覚が生々しく甦ってくるのだと。 その夜、馬超は趙雲を抱いた。 趙雲が何も考えられなくなるような激しさでもって。 もう止めてくれという趙雲の懇願も無視し、ひたすらに彼の身体を揺さぶった。 抗う力もなくなり、意識を手放した彼が眠りにつくまで。 何故そんな行動を取ったのか、馬超自身も良く分からなかった。 ただ憐れみや同情だけではなかった。 どうしても趙雲のことが放っておけなかったのだ。 衣擦れの音に、過去に飛んでいた馬超の意識は引き戻された。 趙雲が目を醒ましてしまったのかと思ったが、どうやら寝返りを打っただけのようだ。 あの日からずっと二人の関係は続いていた。 戦の後はこうして眠らせてやるのだ。 行為の後の痕跡は、最早綺麗に拭き取られ整えられていた。 馬超が趙雲の身を清め、夜着を纏わせたのだ。 馬超は趙雲の髪を梳きながら、胸の内で語りかける。 今は何もかも忘れて、ゆっくり眠れ。 夜が明ければまた長坂の英雄という仮面を被らねばならぬのだから―――。 そして願わくば、安らかな夢を。 written by y.tatibana 2005.10.16 |
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