100題 - No69 |
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戦場を駆け、手にした槍を振るう度、辺りは朱色に染まる。 それを浴び、白い戦袍が色を変え行く。 敵味方―――多くの人間が入り乱れるその中にあっても、その姿だけが周囲から切り離されたように鮮やかだった。 漆黒の瞳がこちらを捕らえた。 視線が合ったのはほんの一瞬。 次の瞬間には相手は再び馬を走らせていた。 けれど―――その刹那に馬超は魅入られてしまったのだ。 趙子龍という存在に。 先の戦での勝利を祝う小宴が催される広間に、趙雲が姿を見せた時、馬超は空気が変わったのを感じた。 まだ宴が始まる前ということもあり人はまばらだった。 だが誰もその空気の変化に気付いてはいないようで、入ってきた趙雲を特に注視する訳でもない。 馬超がそれを感じたのは彼に対する特別な想い故なのか。 何者も決して寄せ付けぬような、冷たくも凛とした雰囲気を趙雲は纏っている。 忠義に厚く、劉備や諸葛亮から寄せられる信頼も多大だと聞く。 浮いた話の一つもなく、未だに独り身だとも。 それは彼の理想が高いからなのか、本当にそういったことに興味がないからなのか、馬超にはもちろん判断はつかない。 趙雲とは顔を合わせれば言葉を交わす程度で、決して親しい間柄という訳ではない。 そんな馬超に想いを寄せられているなど、趙雲は想像もしていないに違いない。 女を口説くのとは訳が違う。 相手は蜀の五虎大将の一人であり、長坂の英雄と称えられるような武人なのだ。 いくら女慣れしている馬超とはいえ、常のようにそう容易くはない。 趙雲は辺りをすっと見渡すと、何を思ったか馬超の方へと近付いてくる。 「隣、宜しいだろうか?」 そう声を掛けられ、馬超は一瞬眉を跳ね上げる。 だがすぐにそんな驚きを悟られぬよう落ち着いた素振りで頷いて見せた。 「失礼する」 趙雲は感謝を示すように僅かに微笑むと、馬超の隣に腰を降ろした。 「もうこの国には馴染まれたか?馬超殿」 そう先に会話の口火を切ったのは趙雲の方だった。 「あぁ、お陰様で。 みなには良くしてもらっている」 「そうか、それを聞いて安心した。 先の戦で共に戦場に立った時、貴殿の見事な戦いぶりに感嘆したのだ。 貴殿がいれば主公の大義を叶えられる日も遠くはないかもしれんな」 それは馬超が趙雲に魅入られたあの戦い。 趙雲は気付いてもいないだろう。 馬超の方こそ趙雲の戦う姿に目と―――心を奪われてしまったことに。 やがて宴が始まり、賑やかに時は流れていく。 勝利の立役者である趙雲や馬超の元には多くの人間が賛辞を述べにやって来る。 趙雲は悠然とした様子でそれに応えている。 けれどその身に纏う凛とした空気はそのままで、やはり真に他人を踏み込ませようとはしないように馬超は感じる。 宴も終盤に差し掛かった頃、趙雲は馬超にこう言った。 「あまり落ち着いて話も出来なかった故、宜しければ私の邸で飲みなおさぬか?」 と。 突然の誘いに馬超は内心驚愕する。 まさか趙雲からそのような申し出があるとは思いもしなかった。 特に断る理由もない。 自分を誘った趙雲の真意は全く分からなかったが、趙雲と交流を深める機会を持てることは馬超にとっては喜ぶべきことだ。 だが―――。 何故か馬超は妙な胸騒ぎに襲われる。 それは馬超自身も分からない酷く曖昧で、漠然としたもの。 「馬超殿? 都合が悪いのならば遠慮などせずそう申してくれればよいのだぞ」 黙り込んでしまった馬超に、趙雲がそう声を掛ける。 「いや……なんでもないのだ。 ではお言葉に甘えてお邪魔させて頂こうか」 馬超はそんな心の靄を振り落とすように首を振り、趙雲の誘いを受けたのだった―――。 案内されたのは趙雲の自室であった。 調度品の類は必要最低限のものしかなく、彼らしい質素な部屋だった。 中央に設えられた椅子を勧められ、馬超はそれに腰を降ろした。 「申し訳ないが、酒の準備をしてくる故、しばしお待ち頂けるだろうか」 そう言い残し、趙雲は部屋を出て行った。 主人自らがもてなしの準備を整えるとは、家人は既に休んでいるのだろうか。 程なくして趙雲は酒器を載せた盆を持って、戻ってきた。 それを見て、馬超は眉を顰めた。 趙雲が持つ盆の上には杯が六つも載せられていたから。 この場には二人しか居ないのに何故なのかという馬超の疑問は尤もであろう。 趙雲は馬超の前の円卓に盆を降ろす。 馬超の不審そうな眼差しに気付いていないのか、平然と向かいの椅子に腰掛けた。 六つの杯の中には既に酒が満たされていた。 誰か他の人間でも来るのだろうか? 馬超が疑問をなげかけるより前に、趙雲が口を開いた。 「賭けをしないか、馬超殿?」 唐突な言葉。 更に馬超の疑念は深まるばかりだ。 全く趙雲の意図が分からない。 すると趙雲はすっと瞳を細める。 至極愉しそうに。 「この六つの杯の中の一つにだけ―――死に至る毒が入っている」 「!?」 瞠目する馬超とは対照的に、趙雲は口元に笑みさえ浮かべている。 「毒の酒が入った杯には、裏側に印が刻まれている。 交互に酒を飲み干していって、毒を飲んだ方が当然ながら負けだ」 「馬鹿な……」 ゆるゆると首を振り馬超は呆然と呟く。 目の前の男は突然何を言い出すのだろうと―――。 冗談にしても笑えない。 馬超の動揺を余所に、趙雲は至って冷静に続ける。 「昼の内に家人に言って杯の内側に毒を塗布しておくように申してあった。 だから私もどれに毒が入っているのかは分からぬから、安心すると良い。 もし私が勝ったら貴殿の命を頂くことになる。 逆に貴殿が勝ったのなら、同様に私の命を差し上げよう。 そうだな……あとは―――」 そこで趙雲は微笑みを更に深くする。 それは―――馬超が今まで見たことのないような妖艶な笑み。 けれど同時に酷く冷酷にも見える。 「私を抱かせてやろう」 どくん―――と反射的に馬超の心臓が強く脈打った。 趙雲には全て分かっていたということか。 毒の杯を用意し、今日馬超を邸に招き、馬超がそれに応じることも。 そして……馬超に想いを寄せられていることも―――。 宴の席で感じた胸騒ぎ。 その正体はこのことだったのだろうか。 馬超の鋭い感性が先の出来事を予見していたのかもしれない。 けれど、それを振り払い馬超は足を踏み入れてしまったのだ。 趙雲が張った罠の中へ。 喉がからからに渇いて、言葉が出ない。 こんな馬鹿げた賭けなど一笑に付して断ってしまえば良いのだ。 そう頭では理解しているはずなのに―――。 趙雲の愉悦に細められた瞳と蠱惑的な笑みが馬超を惑わす。 抗えない―――。 見えない糸に操られるが如く、馬超は頷きを返す。 すると趙雲は心底嬉しそうに口を開いた。 「貴殿ならばこの賭けに乗ってくれると思っていたよ。 あぁ、心配せずとも毒は遅効性のものだから、それを飲んだとしても直ぐには死に至らん。 もし私が毒杯を呷っても、貴殿に抱かれる間くらいは持つであろう。 貴殿に抱かれながら死ぬのも悪くはないかもしれんがな」 くつくつと愉快そうに趙雲は笑い声を漏らす。 そうして馬超を見つめたまま、並べられた杯を指差す。 「貴殿から先にどうぞ。 怖いのならば私から先に飲んでも構わんが」 挑発的な趙雲の言葉に、思わず馬超は相手を睨み据える。 それでも命を賭けたこの勝負を止める気にはならないのが不思議だった。 馬超は黙ったまま、六つのうちの一つに手を伸ばす。 躊躇う素振りも見せず、馬超は一気に酒を飲み干す。 もう後戻りは出来ないのだ。 馬超は空になった杯を裏返す。 その底には―――。 ……別段変わった所はなかった。 どんな印も刻まれてはいない。 「お見事」 今度は自分の番だというのに、趙雲は一向に緊張している様子はない。 笑顔を見せたままだ。 「では私の番だな」 僅かな躊躇も見せず、趙雲もまた目の前に並べられた杯の一つをその手に取る。 馬超の鼓動がまた早くなる。 自分が酒を呷ったときには全く感じなかった緊張感が去来する。 それは、趙雲が毒杯を飲み、己の手で彼を抱けることへの期待の現われか。 それとも、毒を避け、彼が無事でいることを祈っているのか。 自分自身でも理解できない。 ごくりと、趙雲もまた杯の中の酒を呷ると、それを裏にして卓の上に置く。 そこには、馬超が先程裏返した杯と同様に印はない。 「どうやら生き延びたようだ。 では馬超殿、次の杯を選ばれよ」 肩を竦め、茶化すように趙雲は言い、馬超を促す。 馬超は再び杯を手にする。 今度も一気にそれを飲む。 そして……裏向ける―――何もない。 最早趙雲は何も言わず、口元に笑みを刻んだまま、杯を選ぶ。 飲み干して裏返す。 が、そこにもまた印はない。 最後に二つ残った杯を挟んで、馬超と趙雲は視線を絡ませあう。 「次で決まりだな、馬超殿。 貴殿の杯に印がなければ、私の負けだ。 逆ならば私の勝ち―――どちらの運の方が上なのだろうな」 「……」 馬超は答えない。 趙雲を睨みつけたまま、杯へと手を掴み取ると、ぐっと飲み干した。 ダンッ! 反転され、卓の上へと叩き付けられた杯。 馬超と趙雲の目がそこへと注がれる。 無。 そこには何もない。 今までの四つの杯と同じく、印などどこにも刻まれてはいない。 馬超は目を見開く。 漠然と自分が毒杯を手にするのだという予感があったのだ。 だがそれは外れた。 「どうやら、貴殿の勝ちのようだな。 流石は錦馬超殿。 私も運は強い方だと思っていたが、貴殿には及ばなかったか」 とはいうものの、やはり趙雲の笑顔は崩れてはいない。 強がっているようでもない。 そうして―――最後の杯へと趙雲が手を伸ばす。 馬超のこめかみから汗が零れる。 凍りついた表情のまま、趙雲を見つめている。 馬超は勝ったのだ。 趙雲を己が腕で抱くことができる。 それは馬超が渇望していながらも、普通では決して叶えれはしなかったであろう望み。 趙雲があの毒杯を飲み干せば全てが終わる。 この狂気に満ちた賭けも。 そして趙雲の命も。 趙雲が口元へと杯を運ぶ。 その瞬間、馬超の身体は反射的に動いた。 立ち上がり、趙雲が酒を口にするよりも早く、彼の手から杯を叩き落す。 ―――カラン……。 と床に転がる杯の音が、静まり返った室内に響く。 濡れた床から酒の芳香が立ち上る。 俯いた馬超は卓に両手を突き、乱れる息を肩で整えていた。 激しい動作などもちろんしてはいないのに、鼓動は早く脈打ち、息が乱れる。 何故趙雲の手から杯を叩き落すようなことをしたのか。 それは言うまでもなく、趙雲の命が惜しかったからだ。 何を犠牲にしてでも、趙雲に生きて欲しいと思ったから。 その感情が馬超を突き動かしたのだ。 ゆるゆると馬超は顔を上げる。 目の前の趙雲はしかし―――悠然と笑みを湛えたままであった。 流れるような動作で趙雲は立ち上がる。 床に落ちた最後の杯を手に取ると……それを馬超へと向ける。 もちろんその裏側を。 「!!」 馬超は驚きに息を呑むことしかできなかった。 印などどこにも無かったのだ。 趙雲は呆然とする馬超へとゆっくり顔を寄せる。 唇が触れ合うかというほどに、間近に。 「残念だ、馬超殿。 そんなことではまだまだ貴殿のものになってやる訳にはいかぬな。 私を手に入れたいのならば、例え私がどうなろうとも妙な甘さなど捨て去ることだ。 中途半端な想いなどでは私の心は動かせん。 本気で私が欲しいのならば、私の息の根を止めてでも、奪ってみせるが良い」 言って、趙雲は身を離し、もう用は済んだとばかりに馬超に背を向け、部屋を出て行ってしまった。 ようやく、馬超は趙雲の真意を悟る。 この賭けは、馬超を試すべく仕掛けられたのだと。 そう―――馬超の趙雲への想いを量るが為に。 そしてそれに馬超は敗北したのだ。 謀られた口惜しさに、馬超は唇を噛み、卓へ拳を叩きつけた。 だが、一人残されたその部屋で、静けさに身を浸していると、徐々にいつもの冷静さが甦ってくる。 同時に今度は笑いが込み上げてくるのだ。 「面白い。 初戦は敗れたが、今度は望み通り本気を出させてもらおう。 どちらが先に喉を食い破られるのであろうな」 怜悧に細められた馬超の瞳は―――まさに獲物を狙う獣のそれであった。 written by y.tatibana 2005.06.12 |
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