100題 - No68 |
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秘めた想いを告げたあの日。 あの人から拒まれることはなかった。 常と変わらぬ穏やかで優しい笑みを浮かべて、私を受け入れてくれた。 正直に言って、どれだけ驚いたことだろう。 彼は私のことなど露ほども気に掛けてくれていないと思っていた。 ましてや私が抱いているような恋愛感情など皆無であろうと。 それでもどうしても募る想いに耐え切れず、趙雲に己の気持ちを告げたのだ。 拒絶されれば、この想いも吹っ切ることが出来ると考えていたから。 なのに、結果は全くもって意図しない方向に進んでしまった。 本心では今でも信じられずにいる。 もしかすると、これは夢なのではなかろうかと。 私の願望が見せているに過ぎない……儚い夢。 だがどれだけ頬を抓ろうとも、その痛みは現実のもので―――夢ではないのだと実感する。 そんなことを幾度ともなく、私は繰り返しいた。 もちろん想いが成就し、これほど嬉しいことはない。 誇らしいとも思う。 この蜀の地で五本の指に数えられる程の武人である人が私の恋人だということが。 しかし同時に私自身のことを鑑みた時、あの人に匹敵する程の力など持ち得てはいない己のことが口惜しくてならない。 同性同士のこと故、誰かに訊ねる訳にもいかないが、恐らく事実を知れば誰もがみな、不釣合いだと感じるだろう。 それは自分自身が一番良く分かっている。 どうしてそんな私の想いをあの人は受け入れてくれたのだろうか。 ある時、とうとうそれを彼に直接聞いてみたことがある。 すると、あの人はさして考える風でもなく、答えを返してくれた。 「私にはないものを貴方が持っているからですよ」 と。 それを聞いても私はただ首を傾げるばかりだ。 彼の言葉の意味が私には全く分からなかったのだ。 あの人にはなく、私が持っているもの―――。 そんなものがどこにあるというのだろう。 武は言うに及ばず、軍略も人望も名声も……如何なることにでも動じない冷静さも。 何もかもをあの人は備えている。 私が持ってはいないものを、あの人は沢山持っているではないか。 その逆などいくら考えてみても想像もつかない。 だから思わずにはいられないのだ。 あの人は降将の私に同情しているだけなのかもしれないと。 本当は私のことなど何とも思ってはいないのではないだろうか。 心に落ちた黒い染みは、じわじわと私を侵食していった―――。 彼への書簡を届ける為、回廊を歩いてたその途中の庭で、彼の姿を見つけた。 声を掛けようとして、それを思い止まったのは、彼の傍らに丞相の姿があったからだ。 そして丞相の口から私の名が出たのが聞こえたから。 「伯約は随分とこの国に馴染んできてくれたようです。 最近はとても表情が柔らかくなりました。 貴方のお陰ですね、趙雲殿」 「いえ、私は何も……」 丞相は羽扇をゆらゆらと揺らしながら、小さく笑った。 「そう謙遜なさらず……。 貴方に伯約のことを頼んで、本当に良かった。 これからも伯約のことをどうかよろしく頼みます」 私は動けなくなってしまった。 同時に私が抱き続けていた疑念が正しいことを知った。 彼はやはり私と同じ気持など持ち合わせてはいなかったのだ。 ただ丞相に私のことを頼まれていたから、仕方無しに付き合っていたに過ぎない。 忠義に厚い彼のことだから、丞相の願いを無下にはできなかったのだろう。 それが真実だったのだ。 「どうかしたのですか?」 気遣わしげに掛けられる声に私は我に返った。 そちらへ視線を移せば、すぐ間近に私を見つめる漆黒の瞳とぶつかった。 「いえ……何でもありません」 首を振るが、頭を占めているのは、あの昼間の出来事だった。 掛布から僅かに素肌が覗いている。 こうして同じ褥で、身体を寄せ合い眠ることも、現実のものとなった。 いつもならば身体を繋げた心地良さにすぐに眠りに落ちてしまう。 身体も心も心地良い温もりに満たされて。 だが今日は違った。 何もかもが冷え切っていた。 僅かに身体を動かし、不思議そうに私を見遣る彼へと唇を重ねた。 彼はそれを拒むことはせず、そっと瞳を閉じる。 「私のこと好きですか?」 唇を離し、女々しくも聞いた私に、彼は閉じていた目を開き頷く。 「もちろんです。 でなければ、このようなことはしませんよ」 至極当たり前のように彼は言ってくれる。 しかし―――。 それが偽りであることを私は知ってしまった。 彼の言葉はただ空々しく私の耳には響くだけだった。 全ては彼の演技なのだ。 心が黒く塗りつくされ、もう自分でもどうしたら良いのかも判断がつかない。 ただただ、苦しかった。 「…本当のことを言って下さい……」 自分でも意識せぬうちに、そう低い呟きが漏れた。 「えっ?」 すると傍らの彼は驚いたように目を瞬いた。 「貴方の本当の気持ちを教えて下さい!」 耐え切れなくなり、私は叫んだ。 寝台に身を起こし、彼を睨みつけた。 心臓が激しく脈打っている。 突然の私の変化に彼はまだ驚いた様子だったが、私と同様に起き上がった。 「何を言っておられるのです? 私の本当の気持ちとは一体……」 眉根を寄せる彼は、本気で困惑しているようだ。 だがそれも嘘なのだ。 溢れ出す。 堰を切ったように、心に蟠っていた想いが。 理性ではもう止まらなかった。 「もうたくさんです! 貴方にないものを私が持っているのだと貴方は仰った。 けれど……そんなものが私のどこにあるというのです? そんなものはありはしない! 貴方はただ私を憐れんでいるだけでしょう? 丞相に頼まれて仕方なく降将である私の相手をしていただけでしょう!?」 一気に捲くし立てて、私は大きく肩で息をする。 彼は目を見開いたまま、驚愕の表情を凍らせていた。 図星を突かれて、返す言葉も見つからないのだと思った。 重苦しい沈黙が支配する中、彼はようやく強張った表情を解くと、静かに寝台から降り立った。 そうしてそのまま床へと落ちた衣を黙々と纏い始めた。 「……私の考えは間違ってはいなかったのですね…」 彼の背に向かって、私は低く冷たい声音で吐き捨てる。 彼が私の言葉に対して何も言わなかったこと。 それが答えなのだ。 彼との関係もこれまでだ。 「……」 尚も彼は黙したまま語らず、私の方を振り返ろうともしなかった。 けれど―――その時。 微かに彼の身体が震えていることに私は気付いた。 今は夏の最中だ。 寒いということはあり得ない。 ならば……何故? 身支度を終え、彼はやはり口を開くことなく、扉へと進む。 反射的に私は寝台から降り、彼の腕を掴んだ。 やはり彼の身体は震えていた。 手は何かに耐えるように硬く握り締められている。 「……離して下さい」 ようやく彼が声を発する。 彼らしくない、小さく弱々しい声だった。 私の手を振り払い、彼はそのまま部屋を出て行った。 私はその場に呆然と立ち尽くす。 彼の出て行った扉を見つめて。 腕を捕らえ、ほんの一瞬垣間見えた彼の顔。 その瞳から流れているのもがあった。 泣いていたのだ……彼は。 初めて見た彼の涙―――それは私の心に深く突き刺さった。 それから、私はずっと彼を避け続けていた。 けれど胸に焼き付いて離れない……涙を流した彼の顔。 酷く悲しげな瞳だった。 ようやく私という重荷から解放されたのに。 もう同情で私に抱かれる必要もない。 どうして涙を流す必要がある? 考えられるのは一つ。 彼が私に同情や憐れみで付き合っていたのではないということ。 彼もまた本当に私のことを想ってくれていて、同情だという私の言葉に驚き、自分の気持ちをそのように誤解されていることに涙を……? 馬鹿な。 それこそ都合の良い解釈というものだ。 私の願望が齎した、愚かな考え。 もう忘れてしまおうと思うのに、彼の事が一時も頭から離れることはない。 自らの手でもって壊してしまったというのに。 彼への愛しさも未だに断ち切れぬままだ。 こんな女々しい私などでは、やはりあの人には相応しくない。 最早真実など二の次だ。 彼の為にもこれでよかったのだ。 そう幾度も言い聞かせる日々が続いていた。 この日の夜は、先の戦での勝利を祝うささやかな宴が催されることになっていた。 気は進まない。 もちろん彼も出席するだろうから。 どのような顔を彼に見せれば良いというのか。 けれどまさか新参者の私が、主公もお出でになる宴に欠席する訳にもいかない。 重い足取りで、広間へと向かう。 何人かの人間が既に座っていたが、彼の姿は見当たらない。 ほっとしたと同時に、落胆している自分にも気付く。 下座に腰を降ろし、しばらくすると入ってきた人影に、私は思わず身を固くした。 顔を上げずともその気配だけでそれだ誰であるか分かる。 その人物は私など目に入らなかったように、すっと奥へと進んでいく。 鼻を翳める良く知る彼の香の匂いに、私は泣きたくなる。 やがて始まった宴の席上。 多くの人間が酒を酌み交わし、会話に花を咲かせている。 私はそっと周囲を伺う。 視線は無意識の内に彼を探す。 彼は主公の義弟の一人である張将軍と何事か語り合っていた。 おや……? 妙な違和感を感じる。 気付かれぬようにそっと彼の姿を伺うつもりだったのだが、それを忘れて私は食い入るように彼の顔を見つめる。 張将軍に酒を注がれ、彼はにこやかにそれを受けている。 元々酒は強い人だ。 まだ宴も序盤の、こんなに早く酔うことは考えられない。 けれどやはり、彼の様子はどこかおかしい。 周囲の人間は誰も気付いてはいないのか。 確かに一見して普段の彼と何ら変わりはないのだが……。 少し顔色が悪くはないか。 僅かに呼吸が乱れていないか。 笑顔に僅かに疲れが見えないか。 疑問はすぐに確信に変わった。 具合が悪いのだ、彼は。 恐らく熱でもあるに違いない。 それをいつも通りに装って、彼はこの場に参加しているのだ。 自分の身体のことなど二の次で、無理をする―――あの人ならば大いにあり得る。 どうして誰も気付かない! 私の苛立ちなど届くはずもなく、張将軍がまた酒を勧める。 それを彼が一気に飲み干すと、張将軍はご機嫌で次の酒を注ぐ。 私は慌てて立ち上がった。 会わせる顔がないとか、そんなことは頭から消え去っていた。 ずかずかと早足で彼の元へ近付き、そうして彼の手から酒の入った杯を取り上げた。 「なにすんだよ!」 興を削がれたらしい張将軍が声を荒げ、皆の視線が一斉にこちらへ注がれるのを感じた。 けれどそんなことは今の私には気にならなかった。 無言で私は彼の腕を捕らえ、強引に立ち上がらせる。 「突然何のつもりですか? 離して下さい!」 睨みつける彼を、私も負けじと睨み返す。 彼はあの日のように私の手を振り解こうとするが、私は力を込めてそれを許さない。 いつもの彼ならばどれだけ私が力を込めようとも、それを解くことなど造作もないことだ。 しかしそれが儘ならないことが、やはり彼の体調の悪さを物語っていた。 現に手に伝わってくる彼の体温は常より熱かった。 私は彼の身体を引き摺るようにして、広間を出た。 「どういうつもりですか? まだあの場には主公も居られたのですよ…それを断りもなく宴の最中で抜け出すなどと」 非難の声にも私はもちろん耳を貸さない。 「それは私の台詞です。 どうして無理をなさるのです?」 私は彼の腕を捕らえたまま、回廊を歩く。 目指しているのは彼の邸だ。 彼に今必要なことは宴に参加することではなく、ゆっくりと休むことだ。 「具合が悪いのでしょう? 早く邸に戻られて休んで下さい」 「……」 すると彼は途端に黙り込んでしまった。 抗っていた彼の身体から嘘のように力が抜けていく。 そうして大人しく私に付き従うように足を進めだした。 そこで私はようやく掴んでいた腕を離した。 一体どうしたことだろう? しばしの沈黙の後、 「やはり……貴方は気付いてくれるんですね……」 ぽつりと漏らした彼の言葉に、私は首を傾げた。 「誰も気付かない―――私自身も完璧に隠し果せると思っていたのに……貴方には簡単に見抜かれてしまいました。 貴方はそうやって誰も気付かない、どんな小さな悲鳴を見逃さない。 あの雨の日のことを、私は今でもはっきりと覚えています」 「雨の日…?」 「ええ。 突然の大雨が降ったあの日……貴方は中庭の傍の回廊で立ち止まり、不審気に庭を見渡していましたよね。 そうして急いで庭へと降りていった。 雨で濡れることも、泥で衣が汚れることも厭わずに。 庭の片隅に屈み込んだ後、ややして踵を返した貴方の胸の中には、雨に濡れ弱々しい声で鳴く子猫がいた」 そこまで言われて、ようやく思い出した。 確かにあの日降りしきる雨の中、僅かに聞こえてくる泣き声が耳に届いた。 あの時何事もないように通り過ぎる人々を見て思ったものだ。 どうして誰も足を止めないのかと。 「ご覧になられていたのですか?」 「はい、貴方からは少し離れた所におりました故、貴方は気付かなかったようですが」 「そうですか……。 けれどもあのようなことなど、それ程深く貴方の印象に残るような特別なことではないでしょう?」 並んで歩く彼の横顔を伺えば、彼は小さく笑った。 「貴方は自分を過小に評価し過ぎです。 あの時貴方以外には誰も立ち止まろうともしなかった。 それは子猫の声を無視していたのではありません。 声など聞こえなかったから、立ち止まれなかったのです」 「そんな……だって―――」 小さいけれど、私には確かに聞こえたのだから。 「現に私も気付きませんでした。 貴方がじっと立ち止まっているから、何事かと思って貴方を見ていただけです。 誰も気付かなかった小さな命が上げる悲鳴に、貴方だけが気付いた。 その後も幾度も同じような場面を見掛けました。 私が決して持ち得てはいないそんな優しさを持つ貴方から、いつの間にか目を離せなくなっていました。 その貴方から想いを告げられて、私がどれだけ嬉しかったか貴方はお分かりではないでしょう? 同情や憐れみなどでは決してない―――私は貴方のことを愛しています」 不意に涙か零れた。 嬉しくて……とても嬉しくて。 彼の言葉が心に染み込み、今までの疑念や苦悩を消していってくれる。 彼はちゃんと私の事を見てくれていたのだ。 その上で、私を愛しているのだと言ってくれた。 今まで気持ちばかりが焦っていた。 彼に釣り合う様な人間にならねばと。 けれど今の私を彼が好きだと言ってくれるのなら、変わる必要などないのだ。 向上心を無くてはいけないけれど、背伸びをしてまったくの別人にならずとも良い。 今の私のまま成長していけば良いのだと……彼の言葉はそう思わせてくれる。 「ありがとうございます」 私に想いを寄せてくれて。 私の想いを受け入れてくれて。 愛してくれて。 愛させてくれて。 沢山言いたいことはあったのに、嗚咽を堪えて出てきた言葉はその一言だけだった。 written by y.tatibana 2005.05.29 |
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